東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

錦華坂

2011年11月27日 | 坂道

錦華坂下 錦華坂下 錦華坂下 錦華坂下側 前回の胸突坂上からその西側の坂を下ると、そこは錦華(きんか)坂の上側である。ここを左折し錦華坂を下り道なりに進むと、富士見坂の中腹にでる。そこからまた引き返したりしてこのあたりをうろうろしたが、写真を坂下から坂上へとならべた。

富士見坂を坂上から下り、二本目を右折し、北へちょっと歩いたところで撮ったのが一枚目の写真である。ここも坂下らしいがまだ勾配はほとんどない。ここからちょっと右にカーブして進むと、二、三枚目の写真のように、上り坂が見えてくる。少しうねりながら緩やかに北へ上っている。錦華坂は、一枚目の写真のあたりを坂下としても坂上(傾斜のなくなる所)までかなりの距離がある。坂下近く西側に公園があるが、錦華公園という。

錦華公園の坂のわき東北端に標柱が立っているが、次の説明がある。

「この坂を錦華坂といいます。名称は坂下に錦華小学校があるからです。この坂を勧学坂と呼ぶのは誤りです。
 この坂は大正一三年(一九二四)八月政府による区画整理委員会の議決により新らしく作られた道路です。
 「議決要綱の三」には"南甲賀町より袋町三番地を横断して裏猿楽町二番地先錦華小公園東側に通ずる六米街路を新設"とあります。」

現在、坂下の公園わきにある小学校はお茶の水小で校名が違っているが、かつての錦華小で(昭和31年の23区地図には錦華小とある)、明治7年(1874)錦坊学校の分校として開校し、同23年錦華小学校となり、卒業生に夏目漱石や永井龍男などがいる。

錦華坂下側 錦華坂 錦華坂 錦華坂 標柱にある「勧学坂と呼ぶのは誤り」、「裏猿楽町二番地先錦華小公園東側に通ずる六米街路を新設」という記述が気になる。

「勧学坂」を調べると、横関に次のようにある。

「千代田区神田駿河台二丁目。文化学院、浜田病院のあったところ(今はお茶の水美術学院)の前から南へ錦華小学校のほうへ下る坂。この坂上に、松下大学(専助)の屋敷があった。」

石川は勧学坂を錦華坂の江戸時代の名とし、岡崎は錦華坂の別名とし次の『新撰東京名所図会』の説明を引用している。

「勧学坂 江戸総鹿子名所大全云、勧学坂とは、駿河台松下専助殿御屋敷へ上る坂を云ふなり、とありて、当時松下大学の邸は、大袋町にありて、今の袋町産婦人科病院の辺なり、其以前南北甲賀町の間より、小松宮旧邸の背後をめぐり、袋町に通ずる坂道ありしが、今は通路を塞がれたり、勧学坂といへるはこの坂なるべし。」

明治11年(1878)の実測東京全図(麹町区)を見ると、北甲賀町と南甲賀町との間の道が西へ延び、胸突坂上あたりで北に曲がり、途中、小さく折れ曲がって北へちょっと進むと、いまの明大通りの方から西へ延びる通り(とちの木通り)と突き当たる。富士見坂から北へ延びる道はない。

明治地図(明治40年)には、胸突坂は坂上で行き止まりで、いまのとちの木通りから南へ延びる道も行き止まりである。この地図にも富士見坂から北へ延びる道はない。また、錦華小がいまの位置になく、離れたところにある。

『新撰東京名所図会』、横関の各記述と各明治地図をあわせて考えると、いまのとちの木通りを左折し南へ錦華公園の方に下る坂が勧学坂と思われる。

上の現代地図のように、お茶の水小と錦華公園のわきを北へ上る道は、明大通りの方から西へ延びる通り(とちの木通り)に突き当たるが、この近辺に、現在、文化学院や浜田病院がある。突き当たりから錦華公園の方へ下る道が勧学坂と思われるが、その坂下はどこまでかなどまだわからないことが多い。江戸切絵図には突き当たりの近くに松下大学の屋敷がある。

錦華坂 錦華坂 錦華坂から下る坂 錦華坂へ上る坂 一方、標柱の説明のように、錦華坂は、昭和はじめ頃につくられたようである。

戦前の昭和地図(昭和16年)には、富士見坂から道が北へ延び、その途中、錦華小、その北に錦華公園があり、坂上側も現在と同じ道筋となっている。

錦華小公園東側に通ずる6m道路を新たにつくるならば、その錦華小公園東側のさきはどうなっていたのか、新道につながる道があったのかという疑問が生じる。錦華小公園東側とは、現在標柱の立っている公園の東北端と思われるが、新道がここまでとすると、新道の坂上はこのあたりである。現在、坂は一、二枚目の写真のように、さらに北へと上っている。

錦華公園の東北端までが錦華坂で、その上が勧学坂とすれば、話は簡単であるが、そう単純ではなさそうである。

錦華公園の東北端を左折すると、公園わきを西へまっすぐに下る無名の坂がある。坂下は猿楽通りにつながる。三枚目の写真は坂上から、四枚目の写真は坂下から撮ったものである。この坂は戦前の昭和地図にもある。

錦華坂の上側 錦華坂の上側 錦華坂の上側 錦華坂の上側 一~四枚目の写真は、公園の東北端の上側の坂を撮ったものである。中程度の勾配でまっすぐに上り、上側で左右に曲がり坂上に至る。上記の解釈からすると、ここが勧学坂ということになる。

ここで、現代地図と御江戸大絵図とを重ね合わせてみることのできる地図(東京時代MAP大江戸編)を見ると、胸突坂の記事でも紹介したが、上記の錦華坂の上側の道筋は、御江戸大絵図の道筋とかなり重複しており、勧学坂といえそうである。問題は、その坂下で、御江戸大絵図では東へとカーブしながら胸突坂上に上っている。ここが現在、山の上ホテルへと東に上る坂道であるかどうか不明であるが、明治11年(1878)の地図では、東南に延びており、どうも違うように見える。

公園東北端から北へ現在の山の上ホテルから下る坂道との合流点(またはもう少し上側)付近までをも新道として開いたのかもしれないが、確かではない。

明治11年(1878)の実測東京全図(麹町区)には駿河台の台地が岡阜として示されており、錦華坂は台地のへりの崖をトラバースするようにつくられたようである。

錦華坂を、山野のように、大正13年(1924)の区画整理で開かれた新しい坂とするのが合理的のようであるが、その坂上がどこかよくわからない。少なくとも公園の東北端の無名の坂上までが錦華坂で、上側の勾配のないところから下る坂が勧学坂で、その間がどうつながったのか不明ということのようである。(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「東京時代MAP大江戸編」(光村推古書院)

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