東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

夏目鏡子述 松岡譲筆録「漱石の思い出」

2011年08月27日 | 読書

雑司ヶ谷霊園の記事で、荷風の「断腸亭日乗」昭和2年(1927)9月22日の次の記事を引用し夏目漱石についてちょっと触れた。

「九月廿二日 終日雨霏々たり、無聊の余近日発行せし改造十月号を開き見るに、漱石翁に関する夏目未亡人の談話を其女婿松岡某なる者の筆記したる一章あり、漱石翁は追蹤狂とやら称する精神病の患者なりしといふ、又翁が壮時の失恋に関する逸事を録したり、余此の文をよみて不快の念に堪へざるものあり、縦へ其事は真実なるにもせよ、其人亡き後十余年、幸にも世人の知らざりし良人の秘密をば、未亡人の身として今更之を公表するとは何たる心得違ひぞや、見す見す知れたる事にても夫の名にかゝはることは、妻の身としては命にかヘても包み隠すべきが女の道ならずや、然るに真実なれば誰彼の用捨なく何事に係らず之を訏きて差閊へなしと思へるは、実に心得ちがひの甚しきものなり、女婿松岡某の未亡人と事を共になせるが如きに至っては是亦言語道断の至りなり、余漱石先生のことにつきては多く知る所なし、明治四十二年の秋余は朝日新聞掲載小説のことにつき、早稲田南町なる邸宅を訪ひ二時間あまりも談話したることありき、是余の先生を見たりし始めにして、同時に又最後にてありしなり、先生は世の新聞雑誌等にそが身辺及一家の事なぞ兎や角と噂せらるゝことを甚しく厭はれたるが如し、然るに死後に及んで其の夫人たりしもの良人が生前最好まざりし所のものを敢てして憚る所なし、噫何等の大罪、何等の不貞ぞや、余は家に一人の妻妾なきを慶賀せずんばあらざるなり、是夜大雨暁に至るまで少時も歇む間なし、新寒肌を侵して堪えかだき故就眠の時掻巻の上に羽根布団を重ねたり、彼岸の頃かゝる寒さ怪しむ可きことなり、」

「漱石の思い出」文庫本カバー 漱石未亡人の談話を女婿松岡譲が筆記した文が、雑誌「改造」に十三ヶ月にわたって掲載され、それが後にまとめられ「漱石の思い出」として出版された。これまで複数の出版社から出版されたが、現在、左のように、文春文庫で読むことができる。夏目鏡子述 松岡譲筆録「漱石の思い出」。
松岡譲の夫人が漱石・鏡子の長女筆子である。

漱石の若いときの失恋話と追跡狂のことが最初の「一 松山行」にのっているが、これを荷風も読んだのであろう。

漱石が大学を出たころ、牛込の喜久井町の実家を出て、小石川の伝通院近くの法蔵院に間借りをしていた。そのころ、トラホームになって毎日のように駿河台の井上眼科にかよっていたが、そこの待合でよく落ち合う美しい若い女がいて、背のすらっとした細面の美しい女で、気立てが優しくしんから深切であり、漱石好みであったという。漱石はあの女ならもらってもよいと思いつめて独りぎめしていたらしい。どうしてそのような話になったかわからないが、その人の母の挙動に漱石は我慢ならなくなって、それでひと思いに東京がいやになって松山に行く気になったという。(松山行きとは、明治28年、突如高等師範学校を辞し、伊予松山中学校教員として赴任したこと。)

そのときのことらしいが、突然実家に帰って兄に、「私のところへ縁談の申し込みがあったでしょう」と尋ね、そんな申し込みに心当たりはないが、目の色がただならぬので、「そんなものはなかったようだった」と簡単にかたづけると、「私にだまって断るなんて、親でもない、兄でもない」とえらい剣幕であったという。兄も辟易しながら、「いったいどこから申し込んで来たのだい」となだめながら訊ねても、それには一言も答えないで、ただむやみと血相をかえて怒ったまま、ぷいと出て行ってしまった。

その後、結婚し、英国留学し、帰国後、千駄木にいたころ、家族、妻に乱暴をするので、困った妻が兄に相談すると、兄は、上記の法蔵院時代のことを思い出して、「それでやっとわかった。なぜあの時金ちゃんがあんなにぷりぷりしていたんか、わたしには長いことまるで合点が行かなかったんだが、するとそういう精神病があの人のうちに隠れていて、それが幾年おきかにあばれ出すんだね」

その後精神病学の呉さんに診てもらうと、それは追跡狂という精神病の一種だろうといわれたという。

「一 松山行」には、かいつまめば、以上のような話がのっている。

その後にも似たような話がのっている。たとえば、「二一 離縁の手紙」に、同じく千駄木の家にいたとき、漱石の書斎が向かいの下宿屋の学生の部屋から見下ろされるような位置にあったが、その部屋で毎晩学生が本を読むとき音読するのが学生の習慣で、そこにときどき友達が遊びに来て、大きな声で話をする。それが漱石の耳にはいちいち自分の噂や陰口のように響いた。高いところから始終こちらをのぞいて監視している。朝、漱石が出かけるころ、学生も出かけ、漱石の後をついて行く。あれは姿は学生だが、実際は自分をつけている探偵に違いない、などと決めつけていた。そして、朝起きて洗顔し、朝御飯の前に書斎の窓の敷居の上にのって、学生の部屋の方に向かって、「おい、探偵君。何時に学校へ行くかね」とか、「探偵君、今日のお出かけは何時だよ」などと怒鳴るのだという。

これらは、もちろん、漱石の思い込み、妄想(被追跡妄想)であった。しかし、よく考えてみれば、このようなことは、どんな人にでも条件さえそろえば起きうることかもしれない(その条件というのがよくわからないが)。あるいは、そのような環境にあるとき、そのような行動に移る前に人のこころの中で絶えず反復されることかもしれない。その結果、こころの内で止まり、行動には結びつかなかったということもあるに違いない。異常などと他人のことのように云う前に自分を省みれば思いあたることも多いのではないだろうか。

しかし、そのような感想がある一方で、上記のような漱石と兄とのやりとりや兄の話を読むと、兄の方が常識人で、しっかりしていると思わざるをえない。やんちゃな弟を兄がやんわりと受けとめている。漱石を「金ちゃん」とよんでいるのもおかしい。そんなふうに漱石をよぶことができたのは、この兄などの兄弟だけであったかもしれない。

荷風は、上記の日乗で、漱石の失恋話と追跡狂のことを暴露した夏目未亡人について憤慨しているものの、その内容についてはなんの感想も記していないが、特に、追跡狂について人間にはそういう性癖・性行があったり思いもよらぬ行動をとる場合があることを暗黙の内に了解したのではないだろうか。荷風だって同じような思い込みをすることがあったと思われるからである(たとえば、以前の記事参照)。

作家の死後、その未亡人が夫のことを書くことがよくあることかどうかわからないが、小説「邪宗門」などで知られる高橋和巳の死後、その夫人で同じ作家の高橋たか子が夫について色々と書いていたことを思い出した。主に夫婦間の金銭や酒にまつわる話が印象に残っているが、こういった話は、単なる一読者に対し、そういう一面があったのかと驚かす効果があることは確かである。他方、作家といえども生身の人間であるから色んな奇っ怪な挙動があってもおかしくないことも確かではある。

「漱石の思い出」の最後に、漱石の墓の話がでてくるが、これは、西洋の墓でもなく日本の墓でもなく、安楽椅子にでもかけたような形にしたものらしく、一周忌に間に合うかどうかの時に急いでつくり、漱石の戒名と夫人の戒名とを並べてほったとある。以前の記事で、漱石の墓には夫人の鏡子の戒名も刻んであるから比較的新しいものと書いたが、そうではなく、夫人の生前に墓ができていた、ということである。また、漱石の墓が大きいのは上記のようなことが理由らしい。

参考文献
永井荷風「新版断腸亭日乗」(岩波書店)
高橋たか子「高橋和巳の思い出」

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