東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

五味坂

2011年07月15日 | 坂道

五味坂上 五味坂上 五味坂標柱 五味坂標柱 前回の御厩谷坂の谷底から向かいの坂を上ると、ほぼ平坦な道が南へ続いている。しばらく歩くと、ちょっと下りになりったところが交差点で、信号がある。ここが五味坂の坂上で、ここを左折する下りとなる。また、左折せず直進すると、袖摺坂の下りである。

北東側へまっすぐに下っており、坂上でちょっと勾配があるが次第に緩やかになる。ちょっと坂下へと歩くと、信号があるが、このあたりはほとんど平坦である。このあたりが坂下と思われるが、石川は、その先の内堀通りから西南に上るかなり長い坂としている。

今回、そこまで行かなかったので次回の課題である。内堀通りにある未だ行っていない鍋割坂もあるし、と思い、地図を見ると、その北側にある二松学舎大学の近くに一時期、永井荷風の実家があったことを思い出した。冬青木坂から明治27年(1894)10月麹町区一番町42番地に移転している(以前の記事参照)。ここも訪れる必要がある。

五味坂下側 五味坂下 五味坂下 五味坂下側 坂上からちょっと下った右側歩道に標柱が立っており、次の説明がある。

「この坂の名称は、五味坂(ごみざか)といいます。「ごみ」という名前から「芥坂」や「埃坂」の字をあてたり、その意味から「ハキダメ坂」と呼んだり、さらに近くにあったという寺院の名から「光感寺坂」・「光威寺坂」と呼ばれ、さらに「光感寺坂」がなまって「甲賀坂」とも呼ばれたともいいます。 『麹町区史』には、「由来は詳らかでないが、光感寺が元とすれば甲賀は光感の転化らしく、ごみは埃ではなく五二が転化したものではないか」という内容の説明があります。つまり、坂の辺りは「五番町」で、坂を登ると「上二番町」なので、二つの町を結ぶ坂として五二坂と名前がつき、「五味坂」に変わったのではないかということです。ちなみに昭和一三年(一九三八)に実施された区画整理の結果、「五番町」と「上二番町」は現在では「一番町」に含まれています。」

尾張屋板江戸切絵図(東都番町大絵図)を見ると、御厩谷のある通りを南へ進み、東側へ折れた道に、△ゴミ坂とある。坂から坂下の周囲は武家屋敷であるが、坂下を進むと、濠わきの堀端一番丁に至る。その先が丸く曲がっているが、このあたりが現在の内堀通りの東側にある千鳥ヶ淵戦没者墓苑と思われる。

近江屋板には、△ハキタメ坂とある。岡田屋嘉七板御江戸大絵図には、坂名はないが、多数の横棒による坂マークがある。

『御府内備考』には次の説明がある。

「埃坂 火消屋敷の上へ上る坂なり。本の名光感寺坂と云よし。【江戸紀聞】又甲賀坂ともいふ。」

標柱には、多数の別名と、そのいわれを書いている。どれが本来のものかわからなくなってしまうが、やはり「ゴミ」を中心に考えるべきと思われる。

五味坂上 滝廉太郎居住地跡 滝廉太郎居住地跡説明板 五味坂遠望 横関は、江戸の他の地域にあった芥(ゴミ)坂と由来が同じと考えている。標柱にある『麹町区史』の五二坂から五味坂への転訛説には疑問を呈し、その理由は江戸っ子はそんな名前のつけ方はしなかったということにある。江戸市中には芥坂が多数あるから(新宿区市谷の芥坂、新宿区筑土八幡神社近くの芥坂など)、ここだけ特別であるはずがない。江戸切絵図のゴミ坂、ハキダメ坂、というのがやはり本来の名であろう。

五味坂上の横断歩道を西へ渡ると、その角に、二枚目の写真のように、滝廉太郎居住地跡の説明板やレリーフなどがある。(この写真の左に見える歩道が次に行く袖摺坂である。)

坂上の横断歩道を西へ渡ったさきはちょっと上りとなっているが、右の写真は、そこから五味坂方面を撮ったものである。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第一巻」(雄山閣)

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