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東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

男坂~女坂(駿河台)

2011年11月28日 | 坂道

男坂上 男坂踊り場から下 男坂踊り場から上 男坂下 前回の錦華坂を上り突き当たりを左折し、とちの木通りを西へしばらく歩くと、左手に下りの石段坂が見えてくる。坂上の角に男坂と刻まれた小さな石碑がある。男坂とされるとおりかなり急な階段がまっすぐに西南へ下っている。坂下を直進すると猿楽通りにつながる。

中程の踊り場のわきに標柱が立っており、次の説明がある。

「この坂を男坂といいます。駿河台二丁目一一番地の端から猿楽町へ下る石段の坂「女坂」に対して名付けられたものです。この坂のできたのも比較的新しく、大正一三年(一九二四)八月政府による区画整理委員会の議決により作られたものです。男坂は同一場所、あるいは並行してある坂の急な坂を、女坂はゆるやかな坂というように区別されて名付けられています。」

標柱のように、この坂は昭和のはじめ頃につくられたようで、前回の錦華坂と同じ頃と思われる。

女坂上 女坂上 女坂上 女坂の上側踊り場から上 男坂上をさらに西へ進むと、左手に下りの石段坂が見えてくる。坂上の左角に女坂と刻まれた小さな石碑があり、右角に標柱が立っている。この石段坂は、上から下ると、すぐに踊り場があって、そこでやや右に方向を変えて下ると、また踊り場があって、やや左に方向を変えてからまっすぐに西南へ下っている。女坂というわりには、踊り場が二つあるが、かなり急である。

坂上の標柱には次の説明がある。

「この坂を女坂といいます。駿河台一丁目七番地の端から猿楽町に下る坂"男坂"に対して名付けられたものです。男坂が一直線の急坂であるのにくらべ、中途で中やすみするようになっているので"女坂"と呼ばれています。この坂のできたのは、大正一三年(一九二四)八月政府による区画整理委員会の議決により作られたものです。」

標柱によれば、この坂も男坂と同様に昭和のはじめ頃につくられたようであり、また、急階段の男坂と緩やかな女坂というのは神社の参道などでよく見られるが、ここはそういう緩やかな石段ということではなく、途中二つの踊り場で休めるので女坂とよんだ。

女坂の下側踊り場から上 女坂の下側踊り場から下 女坂下 女坂下の石碑 この男坂・女坂は、昭和はじめの新しい坂であるためか横関、石川には紹介されていないが、岡崎、山野に紹介されている。 岡崎は、女坂のところに「新しい坂であるが、坂下に立って見る崖の形が美しい。」と書いているが、三枚目の写真のように、現在は、住宅が建って下り、そのような面影はない。

坂下の左角にも、四枚目の写真のように、小さな石碑があり、「駿河台 女坂」と刻まれている。このあたりをいったりきたりしてうろうろしたが、坂下から来たときに気がついた。

下の写真は、この坂下から猿楽通りに出て、ちょっと歩いたところから小路の中に入って、この坂から男坂へと続く途中の崖を撮ったものである。上は樹木で鬱蒼としてよく見えないが、かなりの崖地であることがわかる。現在は、このような崖を見て往時をしのぶしかない。

明治11年(1878)の実測東京全図(麹町区)を見ると、駿河台の台地(岡阜)のへりがあり、崖はこのへりにできたものである。男坂、女坂は、このような崖にできた石段坂であり、この周辺に住む人にとってはお茶の水駅方面などへの便利な近道になっていると思われる。
(続く)

駿河台の崖(猿楽通り近く) 参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)

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