前回の甲賀坂上から明大通りを挟んで向こうに急な坂が見えるが、ここが胸突坂である。甲賀坂の記事でアップした坂下から坂上を撮った写真にも写っているように、甲賀坂から見ると目立つが、明大通りをただ歩いていると、見逃すかもしれない。
甲賀坂上から撮ったのが一枚目の写真で、明大通りを横断して坂下から撮ったのが二枚目の写真であるが、かなり急な勾配で西へまっすぐに上っている。坂下から見て左側に歩道があり右側に手摺りのあるしっかりした坂で、このすぐ左わきに明治大学の建物がある。坂を上って振り返ると、甲賀坂の方がよく見える。
ところで、この坂には教育委員会によるいつもの標柱が立っていない。さらに千代田区のホームページにも紹介されておらず、理由は不明であるが、なんか無視されたような感じを受ける。この坂が「胸突坂」であるという確証がないのであろうか。
甲賀坂の記事で触れたが、尾張屋板江戸切絵図(飯田町駿河台小川町絵図/1863年)には、この坂に相当するところに、エウガサカ、とあり、池田坂下を左折した東側に、ムナツキサカ、とある。近江屋板(嘉永2年(1849)版)には、この坂に相当するところに、△エ(コ)ウカザカ、とあるが、坂マーク△の頂点が東向きで、逆になっている。御江戸大絵図(天保14年(1843)版)には、この坂に多数の横棒からなる坂マークがある。また、『御府内備考』には記述がない。
石川によれば、『新撰東京名所図会』に「胸突坂 袋町の間を東より西に向ひて上る坂あり胸突坂といふ、胸突坂は急峻なりしより起れるなるべし。新編江戸志にも胸突坂とありて、小川町より駿河台の方へ上る坂なり」とあるという。
いまもかなり急な坂で、上るとき胸が地面につくほど勾配のきつい坂という胸突坂の意味からして、ここは胸突坂の名にふさわしい坂であり、上記の新撰東京名所図会の記述とあわせて考えれば、胸突坂といってよいと思われる。同名の坂として関口の胸突坂があるが、ここは石段坂でその名のとおりかなり急である。
ただし、岡崎は、上記の尾張屋板の表示がある(坂の向きを別として近江屋板もそうである)ためか、この坂の別名を甲賀坂としているが、そうとすると、この坂と、坂下の現在甲賀坂の標柱の立っている坂とを一続きと考えて、甲賀坂と(も)いったという解釈もあり得るような気がしてくる。
横関は、この坂を「神田駿河台一丁目、明治大学の北わきを西に上る急坂。坂の頂上に小松医院がある」としている。いまは坂上の突き当たりに山の上ホテルがある。
坂上を直進するとホテルの入り口であるが、その手前を右折すると、すぐに左手に、下り坂が見えてくる。かなりの勾配で西へと下っている。この坂を下ったが、坂下から坂上を撮ったのが三枚目の写真である。
御江戸大絵図と現代地図とを重ね合わせてみることのできる地図(東京時代MAP大江戸編)を見ると、西向きの胸突坂の道筋が坂上から次第に北に向きを変えるようにして緩やかなカーブを描いているが、そのカーブの一部が上記の坂と重なり合うようにも見えてくる。かなり微妙な位置であり、上記の坂ではないかもしれないが、もし、西へ上る胸突坂に、西へ下る(北に向きを変えながら)坂が続いていたとすると、近江屋板の坂マーク△の頂点の向きは、この坂を表しているため逆になっていると考えられそうでもあるが、推測の域をでない。
この坂に何年か前に来たとき、坂上近くにこの坂の別名である「吉郎坂」と刻まれた小さな石碑を見た覚えがあるので、坂上をうろうろして探したが、見つからなかった。しかし、今回、「東京23区の坂道」を見たら、その石碑が写真入りで坂下の植え込みにあると紹介されていた。記憶違いだったようであるが、そうだったら、もしかしてと思って、上の二枚目の坂下から撮った写真をよく見ると、左下の端の縁石の上にそれらしきものが写っている。そこで、もとの写真をパソコン上で拡大してみたら、ちゃんと小さな石碑に「吉郎坂」の文字が見えるではないか。その部分を拡大してトリミングしたのが四枚目の写真である。デジタル写真の効能であるが、冷や汗ものの結末である。
吉郎坂は、「東京23区の坂道」によれば、明治大学総長を務めた商学博士佐々木吉郎氏にちなむとのことである。
(続く)
参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「東京時代MAP大江戸編」(光村推古書院)
「大江戸地図帳」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第一巻」(雄山閣)