東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

白髭神社と荷風

2010年02月23日 | 荷風

子育地蔵堂から北側に進むとまもなく白髭神社である。地蔵堂と神社との間の道が江戸時代からの旧墨堤の名残りらしい。この道は墨堤通りから一段低くなった位置にあるが、その段差部分が旧墨堤の跡なのであろうか。

白髭神社に入ると左側に鷲津毅堂之碑が建っており、その傍らに説明板がある。長年の風化作用によるものであろうか、碑文の左端が部分的に欠けている。鷲津毅堂は、文政8年(1825)尾張生まれ、幕末から明治にかけての漢学者・儒者で、明治政府に仕えたが、なによりも永井荷風の外祖父である(
前の記事参照)。毅堂については荷風の「下谷叢話」に詳しい。

下谷叢話で荷風は、鷲津氏の家は尾張国丹羽郡丹羽村の郷士であったとし、上記の碑文をも引用して鷲津家の系図などから、博学多才で門生多く一時に名をなしたとされる鷲津幽林からはじめている。幽林は、名を幸八、諱(いみな)を応と称した。

幽林には、四男一女があって、長男名は典、字は伯経、通称は次右衛門、竹渓と号した。長男典は家を継がず江戸に出て、幕府御広敷添番衆大沼又吉の養子となった。竹渓は化政の頃江戸の詩壇に名を知られた詩人であり、その子が捨吉、江戸最後の漢詩人といわれる大沼沈山である。

幽林の三男名は混、字は子泉、松隠と号し、丹羽村の鷲津家を継いだ。松隠が隠居した後、松隠の嫡子徳太郎が家学をついだ。徳太郎、名は弘、字は徳夫、益斎と号し、その家塾を有隣舎と名づけた。益斎には妻磯谷氏貞との間に三人の子があり、伯は通称郁太郎後に貞助また九蔵、名は監、字は文郁、号を毅堂といった。

上述のように、竹渓・沈山父子は鷲津氏の族人であり、沈山と毅堂は幽林の孫と曾孫にあたる。竹渓は晩年下谷御徒町に住み、沈山は仲御徒町に詩社を開き、鷲津毅堂も下谷竹町に住んだ。荷風は、これが、下谷叢話とした所以であるとしている。下谷叢話では竹渓、沈山、毅堂を軸として話が進む。

「断腸亭日乗」昭和11年11月9日「小春の天気限り無く好し。晏起。執筆二三葉。日は忽午なり。写真機を携え玉の井に赴けば三時に近し。・・・。歩むこと一二町、曹洞宗法泉寺の門前に至る。寺の生垣見事なり。老僧墓地の落葉を掃き居たり。又歩むこと一町ばかり、白髯明神の祠後に出づ。鳥居をくぐり外祖父毅堂先生の碑を見る。大正二三年の頃写真機を弄びし時この碑および白髯の木橋を撮影せし事ありき。其図今猶家に蔵せり。地蔵阪に至り京成バスの来るを待つ間新に建てられし地蔵尊の碑を見る。・・・」

荷風は下谷叢話(当初は、下谷のはなし)を大正12年11月3日に起草しており、それからかなり経ってからの白髭神社への訪問であるが、このとき地蔵坂の地蔵も見たようである。新に建てられし地蔵尊の碑とはどれであろうか。上部に「子育地蔵尊御由来」と記した碑であろうか。

川本三郎によれば、荷風は昭和11年4月21日から玉の井通いを始め、名作「墨東綺譚」を10月25日に脱稿したので、上記の白髭神社への訪問は、その後のことになる。

参考文献
永井荷風「下谷叢話」(岩波文庫)
川本三郎「荷風と東京 『斷腸亭日乗』私註」(都市出版)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 東向島の地蔵坂 | トップ | 向島百花園~鳩の街通り »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

荷風」カテゴリの最新記事