東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

南法眼坂

2011年07月25日 | 坂道

南法眼坂下 南法眼坂下 南法眼坂下 南法眼坂下 前回、南法眼坂を紹介できなかったので、今回、ふたたび訪れた。麹町の方から袖摺坂下・永井坂下へと至る谷道を東へ歩き、それらの坂下の手前が南法眼坂の坂下である。

北へまっすぐに上る坂で、勾配は中程度である。坂上を直進すると、前回の行人坂上である。坂上を右折しちょっと歩くと、滝廉太郎居住地跡の説明板が右側角にあり、そこを右折すると、袖摺坂の下りとなり、そのまま直進すると、五味坂の下りとなる。

この坂下は、前回、紹介したように、縄文海進期に九段下の方から海が入り込んでいた谷で、この谷筋は麹町の善国寺坂下のあたりまで延びている。今回、この谷筋の通りを歩いたが、谷底であることがよくわかった。この坂などは、後で記事にする予定。

南法眼中腹 南法眼坂上側 南法眼坂標柱 南法眼坂上 坂上側に標柱が立っており、次の説明がある。

「この坂を南法眼坂(みなみほうげんざか)といいます。この坂の北に法眼坂があるためにその名がつけられたのでしょう。坂の下は3丁目谷と呼ばれています。 法眼の名は、『紫の一本』に"斎藤法眼という人の屋敷、この坂のきわにあり"とかかれています。法眼とは僧の階級の一つであり、また江戸時代、医師、絵師、連歌師などに授けた称号のことです。」

尾張屋板江戸切絵図(東都番町大絵図)を見ると、半蔵門の前から四ッ谷門に向かって、いまの新宿通り沿いに、麹町一丁目、二丁目、三丁目、・・・十丁目とあり、三丁目の北側の谷が永井坂下やこの坂下にあたる。これが標柱の説明にある三丁目谷の由来かもしれない。

『紫の一本』の法眼坂の説明は、前回の記事のとおりで、斎藤法眼の屋敷説である。『御府内備考』が引用する【江戸紀聞】は、法印という行人住居説、法眼坂については法印からの転訛説である。

法眼坂は、行人坂の別名、東郷坂のかつての名前、あるいは、この南法眼坂を含めた総称的な名前などといわれるようだが、行人坂と東郷坂とが谷を挟んで相対していることから、二つの坂をよんだと解釈しても不自然ではないが、この坂は、その南にあり、その名のとおり、法眼坂の南の坂ということと思われる。

南法眼坂上 南法眼坂上 南法眼坂標柱 南法眼坂上 岡崎には、この坂の別名として、八百屋坂(横関も)、キンツバ坂が挙げられているが、前者は坂下に大きな八百屋があったことに因み、後者は明治末に坂上にキンツバを売る老夫婦がいたといわれる、とある。

この坂下と永井坂下との間の狭い一角には江戸末期、麹町谷町の町屋があって、横関によれば、前回の記事のように、色んな店があったようである。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第一巻」(雄山閣)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする