東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

新富士見坂

2011年06月17日 | 坂道

新富士見坂周辺街角案内地図 南部坂上右折 無名坂 南部坂上右折 無名坂 新富士見坂上 標柱 木下坂下の有栖川宮記念公園前の交差点を右折し、再度、南部坂を上る。前回来たとき、広尾駅から来てこの交差点を右折し下の谷道を通ったので、今回は、上の山道から新富士見坂に行こうと思ったのである。左の写真の街角案内地図の右上に南部坂が見えるが、その坂上のさきを右折し南へ歩く。

右折してからの道は、まっすぐでかなり緩やかな下り坂になっている。2,3枚目の写真は南側を撮ったものである。右側(西)はドイツ大使館の敷地である。帰宅後、岡崎を見ていたら、この無名坂が南部坂のところに次のように紹介されていた。

「坂上に、南に下る小路がある。ゆるやかな無名坂である。坂の西側の西ドイツ大使館の古い土塀は剥げ落ち、塀の上から道を覆う樹の茂みのつくる蔭に、むかしの面影を偲ぶことができる。」

現在は、右折後すぐの道は2枚目の写真のように広く、3枚目の写真のように途中から狭くなるが、それでも小路といった感じはしない。この三四十年で変わったのであろう。

新富士見坂上 新富士見坂上 新富士見坂上 新富士見坂 上折曲部 上記の無名坂をまっすぐに歩いて行くと、右折する角に新富士見坂の標柱が立っている。ここが坂上である。

この坂は、ここで右折すると、まっすぐに西へ延びている。両わきには大きな家が並んで、静かな住宅街である。坂上側はほぼ平坦であるが、次第に急な下りになる。そこで、左へほぼ直角に折れ曲がり(上折曲部)、南へと中程度の勾配で下ってから、こんどは右へほぼ直角に折れ曲がり(下折曲部)、西へと緩やかに下り、すぐに、公園の方から南へと延びてくる谷道に出る。ここが坂下で、ここにも標柱が立っている。

上左の地図からもわかるように、この坂は上下二つのほぼ直角に曲がる折曲部が特徴的で、長さは、坂上から上折曲部までがもっとも長く、下折曲部から坂下までがもっとも短い。

新富士見坂 上折曲部から坂上 新富士見坂 上折曲部から坂下 新富士見坂 上折曲部から坂下 新富士見坂 下屈曲部から坂上 標柱には次の説明がある。

「しんふじみざか 江戸時代からあった富士見坂(青木坂)とは別に明治大正ごろに開かれた坂で富士がよく見えるための名であった。」

尾張屋板江戸切絵図を見ると、南部屋敷の南部坂を挟んで反対側に酒井壹岐守の屋敷と松平主水の屋敷があり、その間を東南へと延びる道がある。この道が上記の無名坂と思われるが、その突き当たりが青木甲斐守の屋敷で、ここが青木坂の坂上であろう。この青木坂の坂上に達する手前(北側)に、四差路が見えるが、ここは、新富士見坂上よりもさらに北の現在T字路(やや変則的な)となっているところかもしれない。

明治地図を見ると、現在と同じようなT字路はあるが、新富士見坂はない。戦前の昭和地図には、同じT字路があり、新富士見坂の道筋ができている。標柱の説明のように、明治から大正にかけてつくられたのであろう。

新富士見坂 下屈曲部から坂上 新富士見坂 下折曲部から坂下 新富士見坂 下折曲部 新富士見坂下 坂上から新富士見坂に入ると、道が西へと延びるので、ここからかつては富士山が見えたのであろうか。横関には、坂の途中の曲り角では富士山がよく見える、とあるが、その曲り角は上折曲部と思われる。

となりの青木坂が富士見坂とも呼ばれたのに対し、こちらでも富士山がよく見えたのでそれに「新」を付けて坂名としたということらしい。
(続く)

 参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 木下坂 | トップ | 明治神宮花菖蒲2011 »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

坂道」カテゴリの最新記事