前回の冬青木坂上を右折すると、まっすぐに幅狭の道が延びている。フィリピン大使館の塀に沿って北へ延びる静かな通りである。ほぼ平坦な道が続くが、ここが二合半坂の坂上である。
この坂は、ちょっと変わった上下をしている。坂上が平坦なまま長く続き、やがて下りになるが、さほど勾配も長さもなく、途中に標柱が立っており、ここをすぎると、ふたたび平坦でまっすぐな道が続いてから、左にカーブしてほぼまっすぐに下る。この下りが勾配もあり長さもちょっとあって、坂らしくなっている。
歩きながら、どこかの坂と似ていると思ったら、六本木の鳥居坂の近くにある於多福坂である。鳥居坂上を外苑東通り方面へ直進し、途中で右折し突き当たりを右折すると、於多福坂上である。ここはすぐに、下りになるが、その後平坦な道が続いてから、ふたたび下る。いずれも坂が二つあってその間に長く平坦な道がある。両方ともユニークな坂名である点も似ているといえば似ている。
尾張屋板江戸切絵図(飯田町駿河台小川町絵図)には、モチノ木坂上の北側の道に二合半坂とある。坂の両側は武家屋敷である。近江屋板も同様で、△二合半坂となっている。
岡田屋嘉七版御江戸大絵図を見ると、ニコウハンサカ、とあるが、坂上がモチノ木坂の坂上側に突き当たっている。二つの江戸切絵図はこれと違い、坂上を左に見て直進すると中坂上へと続くが、現在もそうである。
上側の坂の途中の標柱に次の説明がある。
「この坂は二合半(にごうはん)坂と呼ばれています。名前の由来は諸説あります。
『再校江戸砂子』という史料には、日光山が半分見えるためと書かれています。なぜ「日光山が半分見える」と「二合半」になるのでしょう。このことについて、『新撰東京名所図会』という史料での考えを紹介しましょう。
富士山は麓から頂上までを十分割して一合・二合・・・と数えますが、西側に見える富士山と比べると日光山はその半分の高さ(五合)に見え、その日光山がこの坂からは半分しか見えないので五合の半分で二合半になるという考えです。
この他に、あまりに急な坂であるため一合の酒を飲んでも二合半飲んだ時のように酔ってしまうからという説もあります。」
上記の由来から、日光坂の別名がある。
「二合半坂
黐木坂のならひなり。日光山の半みゆるなりと。【再校江戸砂子】に記せるは甚附會の説なり。別に故あるべし。【江戸紀聞】」
標柱が引用する『再校江戸砂子』の「日光山が半分見えるため」説は、付会(こじつけ)の説である、と手厳しい。
横関は、(標柱のように考えると)はなはだ理屈っぽいが、五合の半分が二合半、というだけの簡単なことで、これだったら、江戸っ子の付けそうな名であるとしている。
石川は、単純な推量だが、坂下の飯田町に酒屋などがあり、コナカラとよばれていた二合半入りの酒升を一杯ひっかけて、この坂をほろ酔い機嫌で家に戻る御家人などがあったのでは、としている。(これもかなりのこじつけのように思われる。)
二合半坂というユニークな坂名の由来は、「日光山が半分見えるため」説が主流のようであるが、そのように考えた方が面白いと思ってしまう。
永井荷風は、『日和下駄』で「飯田町の二合半坂は外濠を越え江戸川の流を隔てて小石川牛天神の森を眺めさせる。」と書き、眺望のよい坂の一つに挙げている。いまは日光山どころかすぐ近くの牛天神も見えない。
九段坂から二合半坂まで巡ってきたが、いずれも江戸切絵図に坂名がのっている江戸から続く坂である。九段坂下から坂を上り、右折し北へ向かい、右折し中坂を下り、目白通りを左折し、次を左折し冬青木坂を上り、右折し二合半坂を下ると、簡単だが江戸の坂巡りのできるよい坂散策コースとなる。逆のコースもよい。
ところで、この坂の坂下であるが、横関、石川は、北に下り、突き当たって右折し、さらに目白通りに下る坂としており、これによれば、二回目に下った坂下(3,4枚目の写真)は最終的な坂下でなくなってしまう。今回は、写真の下ったところを坂下と思ったが、山野や「東京23区の坂道」も同じく写真のところを坂下としているようである。その当否はともかく、次回は、その目白通りからアクセスしてみたい。
写真の坂下を左折し、早稲田通り方面に向かう。
(続く)
参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第一巻」(雄山閣)
「荷風随筆集(上)」(岩波文庫)