東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

袖摺坂~永井坂

2011年07月20日 | 坂道

袖摺坂上 袖摺坂上 袖摺坂上 袖摺坂標柱 前回の五味坂上はまた袖摺坂の坂上でもある。五味坂上を左折すると、御厩谷からの通りにもどり、袖摺坂の下りとなる。南へ向けてまっすぐに中程度の勾配で谷底へと下っている。1,2枚目の写真は滝廉太郎居住地跡の標識のある西側の坂上から撮ったものである。

坂上側に標柱が立っているが、次の説明がある。

「この坂を袖摺坂(そですりざか)といいます。むかし、この坂道は行きあう人の袖と袖がふれあうほどせまいのでその名がついたといわれます。幅のせまい道をこのように名付けた例は他にも見られます。」

袖摺坂というのは、行き交う人々が袖をすりあわせて通り過ぎなければならないほど幅の狭い坂道をいったものであるが、この坂もかつてはそうだったのであろう。

袖摺坂中腹 袖摺坂下側 袖摺坂下 袖摺坂下 尾張屋板江戸切絵図(東都番町大絵図)を見ると、ゴミ坂上を左折した道は、御厩谷からの通りであるが、ずっと同じ太さで太く描かれており、幅狭の道とはなっていない。この坂名はなく、坂マーク△があるものの、その頂点の向きが南であり、御厩谷と同じく間違いである。近江屋板も同じ太さで太く描かれ、坂名はないが、坂マークの向きはちゃんとしている。

ところが、天保14年(1843)の岡田屋嘉七板御江戸大絵図には、この坂の南の永井坂の道幅よりも狭く描かれている。坂名はないが、横棒の坂マークがある。 この坂下を直進し、谷底を過ぎると、下の写真のように永井坂の上りとなるが、坂下からちょっとのところに千代田区町名由来板という案内パネルがある。そこにある江戸絵図を撮ったのが下の2枚目の写真である。この絵図を見ると、永井坂は幅広であるが、袖摺坂は幅狭に描かれている。どこの板かわからないが、「安政三年・1856」とあるので、東都番町大絵図(1864年)よりもちょっと古い版である。しかし、上記の近江屋板の番町絵図は、嘉永二年(1848)の版であるので、これよりも新しい。

明治地図では、永井坂から袖摺坂の坂上まで太くなっており、その先の御厩谷方面が狭くなっている。

以上のように、袖摺坂はいつの時代までその名のとおりに幅狭であったのか、絵図や地図だけではわからない。

袖摺坂・永井坂周辺地図 永井坂周辺江戸切絵図 永井坂下 永井坂下 袖摺坂下は谷底で、ここは永井坂の坂下でもある。永井坂はこの谷底で左へ向きを少し変え、まっすぐに南へと上っている。勾配は袖摺坂と同じ程度だが、長さはこちらの方が長いようである。坂上が半蔵門駅である(坂下近くにも駅出入口があるが)。

坂中腹に立っている標柱には次の説明がある。

「この坂を永井坂といいます。坂下一帯は三丁目谷ともいわれています。名称のおこりは旗本屋敷の名によるとされています。
 嘉永四年(一八五一)の「東都番町大絵図」という切絵図をみますと永井勘九郎・永井奥之助という旗本が道をはさんで、ちょうどむかいあっているようにみえます。」

標柱は、上記よりも古い版の東都番町大絵図を参照しているようであるが、この少し後の上記の東都番町大絵図(1864年)にも、道をはさんで永井勘九郎の屋敷(東側)と永井奥之助の屋敷(西側)がある。近江屋板も同じである。いずれにも坂名はないが、坂マーク△が描かれている。上記写真の安政三年版もほぼ同様である。岡田屋嘉七板御江戸大絵図には、東側に永井ハヤト、西側にナガ井とある。

永井坂下 永井坂下 永井坂中腹 永井坂中腹 坂名は、以上のように、坂両側に二つの永井家屋敷があったことに由来することがわかる。

この通りは靖国通りから南へ向かうと、御厩谷坂を下り、その向かいの坂を上り、袖摺坂を下り、その向かいの永井坂を上り、新宿通りへと至るが、谷を二回通過するので、はげしくアップダウンが繰り返される道である。車だったらそれをもっと感じるに違いない。

このように山あり谷ありの人生のような通りであるが、縄文海進期の地図を見ると面白いことがわかる。

縄文海進期には、いまの九段坂下のあたりはもう海であるが、そこからこの近くまで海が細長く樹枝状に入り込んでいる。細くなった海域が二列このあたりにまで延びており、それらの跡が御厩谷と、この坂下の谷であると思われる。縄文時代に海であったところが谷底となって、それに挟まれるようにある麹町台地を横切ろうとすると、いまのような地形の道筋となる。ということで、ここは、縄文海進期の地形をいまに伝える特徴のあるところといってよい。これは赤坂の薬研坂などと同じである。

永井坂上側 永井坂上 永井坂上側 永井坂中腹 江戸切絵図を見ると、袖摺坂と永井坂の坂下の谷底には、谷町、麹町谷町の町屋があったことがわかる。横関は、江戸末期、この谷町には、武蔵屋という塩魚屋、福島屋という仕立屋、尾張屋新助という菓子屋、油屋嘉兵衛、伊助ソバ、髪結床、その他玉川という小さな料理屋、居酒屋などがあったと書いている。

この坂下に来ると、それまでビルだけのつまらない風景が続いていたのがちょっと変わり、飲屋や喫茶店などがあって商売風の一画を形成しているのは、その歴史のせいであろうと思ってしまう。江戸の歴史がいまに続く。そのもとの谷は縄文時代からである。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
中沢新一「アースダイバー」(講談社)

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