東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

善国寺坂

2011年07月28日 | 坂道

今回は、前回に続き、麹町・番町周辺の坂や永井荷風旧宅跡などを巡ったが、コースを変え、はじめての坂もあったので、それなりに新鮮であった。

番町文人通り 番町文人通り 番町文人通り 午後四谷駅下車。

駅前から新宿通りの北側の歩道を東へちょっと歩くと、左の写真のように、左手の道に番町文人通りという案内が立っていたので、この道に入ってみる。そのさきをちょっと曲がると、ほぼまっすぐに平坦な道が続いている。二枚目の写真は心法寺の裏手あたりである。尾張屋板江戸切絵図(東都番町大絵図)を見ると、心法寺があり、その西に成瀬隼人正の屋敷があり、それらの間に、ナルセヨコ丁、と記した道があるが、これが番町文人通りと思われる。この通りは、東へ進むと、やがて御厩谷坂のある通りに至る。

なぜ文人通りというのか、そのいわれを記したようなものはなかった。ネット検索をしたら、「麹町界隈わがまち人物館」というサイトに説明があった。住んでいた時期は必ずしも同じではなかったが、藤田嗣治、島崎藤村、初代中村吉右衛門、泉鏡花、有島武郎、有島生馬、里見、菊池寛、武田鱗太郎、与謝野晶子・寛夫妻、網野菊、串田孫一、川喜田半泥子が住んでいたため、そう呼ばれるらしい。

善国寺坂上(北から南) 善国寺坂上側(北から南) 善国寺坂上側(北から南) 善国寺坂下(北) 番町文人通りを西から東へ進むと、やがて、上右の写真のように、信号のある交差点に至るが、ここを右折し南へ少し歩くと、遠くに上り坂が見えてくる。善国寺坂である。しかし、単に上るのではなく、一回下ってその谷底から上る坂である。

横関は、善国寺坂を、新宿通りから北へ下りさらに北の方二番町へ上る坂とし、谷底を挟んだ両方の坂としている。石川、岡崎も同様である。

尾張屋板江戸切絵図(東都番町大絵図)を見ると、南側の坂に、善国寺谷△、とある。その向かいの坂に坂マーク△があるが、ここでも、△の頂点の向きが逆である。尾張屋板は、慣れないせいか、坂マーク△の使い方が不正確である。近江屋板には、坂名はなく、坂マーク△が二箇所にあるが、その向きは正確である。岡田屋嘉七板御江戸大絵図には、両方の坂に横棒多数の坂マークがあるが、坂名はない。

坂下の谷底は、善国寺谷、鈴降谷、鈴振谷とよばれた。横関が書いているように(御厩谷坂の記事参照)、坂を谷で呼ぶ場合、谷を挟んだ二つの坂を意味したとあるので、ここも、二つの坂を指すものと考えたい。南の坂が新宿通り側、北の坂が二番町側である。

『御府内備考』には、善国寺谷について「善国寺谷は、麹町六丁目より番丁へのぼる所をいふ。又鈴振谷ともいふ。【江戸紀聞】」とある。麹町六丁目は、新宿通りの南側の坂上で、そこから(北側の)番町へ上るとあるので、この説明は、二つの坂を同じ坂名としていることの証左ともいえる。

善国寺坂下(北) 善国寺坂下(北から南) 善国寺坂下(南) 善国寺坂下(南) この坂ははじめてである。近くにある地下鉄有楽町線麹町駅でかなり以前だが乗り降りしたことがあるが、北側の出入口であったのであろう、こんな坂があったという記憶はない。両坂とも勾配は中程度で、まっすぐに上下している。

新宿通り側の坂上近くに標柱が立っており、次の説明がある。

「この坂を善国寺坂といいます。『新撰東京名所図会』には「善国寺坂、下二番町の間より善国寺谷に下る坂をいう。むかし此処の坂上に鎮護山善国寺にありしに因り名づく」鎮護山善国寺は標識の場所からみると、右斜め前の辺りにありましたが、寛政一○年(一七九八)の火事により焼失して牛込神楽坂に移転しました。坂下のあたりは善国寺谷、また鈴降(振)谷と呼ばれたといいます。」

坂名は、かつてあった寺の名に由来するようである。横関は、寺はないが坂の名がいつまでも残っている例とし、他に三田四丁目の安全寺坂や六本木の幸国寺坂(長垂坂)などを挙げている。

神楽坂に移った善国寺は、いまもあり、そのあたりの一大中心になっている(以前の記事参照)。

善国寺坂下(南から北) 善国寺坂中腹(南) 善国寺坂中腹(南) 善国寺坂上(南)標柱 この善国寺谷のあたりを地獄谷ともいったらしい。『紫の一本』に地獄谷について次のようにある。

「地獄谷 糀町(かうぢまち)六丁目より二番丁へ行く谷を云ふ。むかしこの近所にて倒れて死にたる者、また成敗に会ひたる者を、この谷へ捨てしなり。骸骨みちみちたる故にいふ。」

この後、次のような話が載っている。陶々斎と遺佚の二人が善国寺へ夜談義を聞きに行った帰り、その夜はいつにもまして暗く、雨がしとしと降り、寂しい中、坂を下るところが次のように描かれ、怪談めいた話が続いている。

「・・・、襟の回りぞくぞくとして、膝の頭ふるふ。杖を力にして、咳ばらひを頼りとして、「ここには石あり」「ここは雁木あり」「転ぶな」「滑るな」とたがひに声を掛け、そろりそろりと抜き足にて坂を下るに、藪の下のことに闇(くら)き、下水の落つる橋の所にて、女の声にて低く泣く。・・・」

地獄谷は、その後、その名を嫌われて、樹木谷といった。 この谷のあたりは、『紫の一本』が書かれた天和二年(1682)のころ、やはり相当寂しいところであったようである。江戸末期の江戸切絵図には、南の坂の西側に善国寺立跡とあり、東側が御用地、空地で、このころも寂しいところであったと想像される。

善国寺坂上(南から北) 善国寺坂上(南から北) 善国寺坂中腹(南から北) 善国寺坂下の通り(西から東) 坂下の通りは、東へ進むと、やがて、南法眼坂下、袖摺坂下・永井坂下へと至る道である。この坂も、袖摺坂・永井坂と同じく両側(南北)から坂下の谷底へと下っている。この谷筋を挟んで台地が北と南の二つに分断されていることがわかる。今回、この坂に北の方からきて、谷底と、そこからふたたび南へ上っている坂を見たとき、それを直感した。

縄文海進期の地図を見ると、九段下の方から海が樹枝状に細長く入り込んでいたところで、上記の南法眼坂下、袖摺坂下・永井坂下の方からこの坂下のあたりまで延びていた。それが、現在、坂下の谷底の通りとなっている。こういうふうにむかしの地形がそのまま残っているところは、過去の記憶をとどめていることを直感的に理解でき、はなはだ興味を覚える場所である。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第一巻」(雄山閣)
校注・訳 鈴木淳 小道子「近世随想集」(小学館)
中沢新一「アースダイバー」(講談社)

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