東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

鳥居坂~潮見坂~於多福坂~永坂

2011年01月06日 | 坂道

鳥居坂中腹 潮見坂上 於多福坂下側 於多福坂上側 七面坂から暗闇坂下に出て、鳥居坂を上り、坂上ですぐ右折し、潮見坂、於多福坂に行く。ここは、順序は逆だが以前に来て、"鳥居坂"、"於多福坂~潮見坂" の記事で紹介した。

写真は今回撮ったもので、左から順に、鳥居坂中腹から坂下、潮見坂上、於多福坂の下側、於多福坂の上側である。

潮見坂を下ったが、かなりの勾配であることをあらためて実感した。前回からであるが左側で工事が始まっている。

潮見坂下を直進すると永坂の坂下であるが、ここを右折し、於多福坂の下側の坂下から上側の標柱のある坂上まで歩く。かなりの距離であることがわかる。引き返し、上側の坂下を左折し東に向かう。

永坂上側 於多福坂の上側の坂上から広い通りに出るが、ここは、緩やかな坂の上側である。ここが永坂(長坂)のようである。写真は、そこから坂下を撮ったものである。広い通りがまっすぐに下っている。この通りは坂下の麻布十番の方からの上り一方通行で、下りの通りは真ん中にある首都高速道路の飯倉出口の反対側(東側)である。このため、この通り全体はかなり広くなっており、かつての永坂の道筋を吸収していると思われる。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、鳥居坂と平行にその東側に長く延びる道があり、長サカとある。坂下で坂上から見て右に少し曲がっているが、いまも同じ道筋が残っており、また、長サカと鳥居坂との間に於多福坂の道が延びている。このように、このあたりの道は、拡幅されているかもしれないが、江戸時代の道筋をそのまま残している。近江屋板には坂マークの△印とともに永坂とある。

永坂上側から坂上 写真は、上の写真のやや上側で坂上を撮ったもので、一方通行の道が左に分岐し外苑東通りへと延びているが、ここが拡幅前の永坂の名残であると思われる。

明治地図には江戸切絵図と同様の道筋があり、戦前の昭和地図も同じで、ここには永坂と記してある。昭和31年の地図にもまだ首都高速はなく同じ状態で、拡幅前である。現在のようになったのは昭和39年(1964)の東京オリンピックのころであろうか。

横関に「麻布の永坂」の写真があるが、坂上から坂下の拡幅前の風景が写っている。長くまっすぐに下っている。これを見ると、上の永坂上側から坂下を撮った写真と似ているように感じる。

永坂上遊び場 永坂上 永坂の名残と思われる坂を上ると、その途中右側に小さな公園があるが、左側の写真のように入口に「港区 永坂上遊び場」という標識がある。右側の写真は、その前あたりから坂上を撮ったものである。この上右側に標柱が立っており、次の説明がある。

「ながさか 麻布台から十番へ下る長い坂であったためにいう。長坂氏が付近に住んでいたともいうが、その確証はえられていない。」

「御府内備考」には次のようにある。

「長坂 長坂は、鳥居坂の東なり、大田原家の屋布の前なる坂なり、ここも六本木の内なりいとふ、この坂はただ長き坂にて、三丁もあるべければ、かく名付しならん、外に故ありともおもはれず、改選江戸誌」

横関は、この坂について次のように説明している。「長坂。これはただ長いというだけのことで、なんの変哲もないといえばそれまでのことではあるが、坂の形の一変態であり、古い昔から、この名を持った坂が、日本全国いたるところにあったという事実を知っていてもよいと思う。赤坂という坂についで多い坂が、この長坂である。江戸の長坂は麻布にあるのが、ただ一つの長坂である。古くは「長坂」と書いたが、享保のころから「永坂」と書くようになった。そのころから、江戸の長坂に限って、永坂が幅をきかせてきて、とうとうそこの地名も、麻布永坂町となってしまった。」

以上のように、坂名は、ただ長いということに由来するようである。

尾張屋板江戸切絵図では坂下の地名が長坂町、長坂丁となっているが、近江屋板では永坂町、永坂丁となっている。尾張屋板は文久元年(1861)で、近江屋板は嘉永期(1848~1854)であり、いずれも享保期(1716~1736)より百年余り後のほぼ同時代に作成されているが、両者の表記が異なっている。

永坂上 写真は坂上から撮ったものである(左側に標柱が写っている)。この坂上側が拡幅前からの道筋であると思われるので、拡幅前の永坂は、現在の坂上側の道筋を延長した道であったのではなかろうか。

以前、この反対の東側の通りを永坂と考えていたが、写真の坂上側の道筋の方がむかしからの永坂といったほうがよいと思われる。

一番上の永坂の写真を編集していたときに気がついたが、写真左上のように、通りの反対側のビルの上に「永坂更科」の文字が見える。反対側の通りに「信州更科蕎麦所・布屋太兵衛」の説明板があるが、そこはそのビルの下と思われる。

このビルの付近一帯の地名が麻布永坂町であり、むかしからの地名が残っているのがうれしい。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「大日本地誌体系 御府内備考 第四巻」(雄山閣)

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