東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

雁木坂

2011年01月19日 | 坂道

雁木坂下 雁木坂下 榎坂下の飯倉四辻を横断し、ちょっと坂上にもどるようにしてから北側に道を進むと、霊友会の建物が見えてくるが、左折すると、階段坂が見える。雁木坂の坂下である。階段がまっすぐに上っている。

尾張屋板江戸切絵図(今井谷六本木赤坂繪図)を見ると、ちょうど絵図の端にあたり、道が部分的にしかなく、坂マークも坂名もないが、芝口南西久保愛宕下之図に、坂マーク(多数本の横棒)にガンギ坂とある。近江屋板には、榎坂の北側の平行な道に、△厂木坂とある。

横関によれば、雁木坂は、石を組んだ段々の坂で、きわめて急坂のため階段になっているとし、牛込仲之町から市谷谷町へ下る念仏坂や赤坂の丹後坂もガンギ坂である。江戸の昔からいまなお雁木坂として知られているのは、この雁木坂と、赤坂霊南坂町から麻布谷町へ下る雁木坂であるという。この赤坂の雁木坂の写真が横関にあり、上下二層で、それら上下の古びた階段が写っている。いまは現存しないとのこと(石川)。

近江屋板に見えるように、駿河台の日大病院前にも雁木坂があったが、いまはもうその形はないとのこと。山野にほとんど傾斜のない坂として紹介されている。

雁木坂下標柱 雁木坂階段模様 左側の写真にあるように標柱には次の説明がある。

「がんぎざか 階段になった坂を一般に雁木坂というが、敷石が直角に組まれていたから等ともいい、当て字で岩岐坂とも書く。」

標柱の説明に、写真のように、「直角」と「に」の間に敷石の組み方の略図が示されている。雁木とは、雁の行列のように斜めになってぎざぎざしているものをいう(岩波国語辞典)とのことだが、棒や板ぎれなどを埋めてつくった階段の意味が岡崎に紹介されている。

『御府内備考』には次のようにある。

「雁木坂 飯倉町二丁目より麻布六本木へ上る坂なり坂の傍に雁木あれば呼名とせしならんと江戸志にいへり」

この説明では、坂のわきにあった「雁木」が坂名の由来であり、上記の説明と違っているが、雁木とはなにかが問題のようである。

この坂の踊り場から下側の階段に、右側の写真のように斜線が直角に交差するよう交互に方向を変えた滑り止め模様がつけられているが、これを雁木模様というのか。この写真は、岡崎にある階段の模様が上右側の写真にも下二段ほどに写っていたので、これを画像処理して斜線模様を強調したものである。

雁木といえば、将棋に雁木囲いというのがあるが、検索したら、「千鳥銀の戦法図鑑」に次の説明がある。「江戸時代の棋客、桧垣是安が編み出したと言われ、寺の屋根の木組みに駒組みが似ている所から雁木と呼ばれる」。これは現在では前回の穴熊ほどには指されない戦型である。その木組みとは、上記の標柱に示されているような組み方と思われる。

雁木坂上標柱 雁木坂上 坂上から見ると、かなりの勾配があり、階段でなければ人の通れる道はできなかったことがわかる。坂上は、横方向(南北)に道が延びている。左側の写真で、右に進めば霊友会のわきを通って、三年坂から我善坊谷に至り、左に行けば、外苑東通りの榎坂上に至る。

永井荷風の日記「断腸亭日乗」の昭和3年(1928)に次のような記述がある。

「二月十八日 晴れて日の光うらゝかなれど風猶寒し、朝起出ることおそければ書斎を掃除して顔洗ひ煙草一二服吸へば忽正午とはなるなり、・・・、薄暮芝居を出づ、葵山君頻にわが小星お歌を招ぎて倶に飯食ふべしとすゝむ、今まで壺中庵の所在は人にかくして告げざりしが、かくなりては最早包みおほせ得べきに非らずと思ひて、自動車にて西ノ久保の路地に導き到る、格子戸を開かむとするに錠のかゝりゐてお歌他出中の様子なれば、銀座に出で藻波に登りて晩餐をなす、撫象子は歌舞伎座に行き松莚子の舞台より退くを待ち、倶に其邸に赴くべしといふ、尾張町角にて別れ、余は葵山子と打連れ帰途再び壺中庵に往きて見るにお歌既に帰りて在り、笑語三更に及ぶ、葵山子を飯倉八幡祠前の電車停留場に送り、雁木坂の石級を登り我善坊ヶ谷の細径を迂回して家に帰る、是夜雁木坂上より狸穴表通に到るあたり、旧稲葉子爵の屋敷ありし処一望曠濶なる原となれるを見る、銀杏の喬木二株あり、その幹一抱もあるべし、稲葉家邸址の西鄰は是亦紀州侯屋敷引払の後にて、榎椎銀杏などの大本多く繁りたる閑地なり、閑地の一面は崖になりて我善坊の谷に臨む、暗夜喬本の寒風に吼え叫ぶ声町の中とは思はれず、寒山枯木の趣あり、されどやかでは小家つづきの陋巷に変ずるなるべしと思へば、他日備忘のため所見をこゝにしるし置くなり、」

荷風は、この日、葵山撫象の二君に誘われて本郷座観劇に行き、その後、葵山子とともに仙石山のふもとの壺中庵にお歌を訪ね、その帰りに、雁木坂を上り、我善坊谷の細径を迂回して家へ帰ったようである。旧稲葉子爵の屋敷ありし処とは、尾張屋板を見ると雁木坂上の西側に稲葉伊豫守の屋敷があるので、そこであると思われるが、その屋敷跡が一望できる広々とした原っぱになって、銀杏の高木が二株あり、その幹が一抱もある太さである。その西隣は紀州侯屋敷引払の後、榎椎銀杏などの大本が多く繁る閑地となって、その一面は崖で我善坊谷に臨み、暗夜高木の寒風に吼え叫ぶ声が町の中と思われないほどで、寒山枯木の趣がある。しかし、ここもやがて小家が連なる裏町に変わるであろうと思い、将来の備忘のため所見をしるしたとある。その当時、雁木坂上西側は閑地で、いまからは考えられないほどである。

ところで、坂とは関係ないが、荷風は、この当時、愛人お歌のことはかくしていたらしいが、友達に知られ、もはやこれまでと思い、しかたなく壺中庵に連れて行った。そんなことがあったからなのか、この日の日乗は記載が増えている。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)

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