狸穴公園を出て東側に進むと、左側の写真のように狸穴坂の坂下のちょっと古びた標柱が見えてくる。ここを左折すると、狸穴坂下で、右側の写真のように、ほぼ平坦に北側に延びている。この先次第に傾斜がついてきて、うねりながら坂上の外苑東通りまで上っている。標柱には次の説明がある。
「まみあなざか まみとは雌タヌキ・ムササビまたはアナグマの類で、昔その穴が坂下にあったという。採鉱の穴であったという説もある。」
尾張屋板江戸切絵図には狸穴坂とあるが、近江屋板には坂マーク(△)だけである。明治地図にも同じ道筋があり、戦前の昭和地図には狸穴坂とある。ここは江戸から続く坂である。
写真は上の写真から少し進んだところで、このあたりからうねり始めているが、まだ傾斜はほとんどない。
標柱に、タヌキ・ムササビまたはアナグマの類の穴が坂下にあったといわれたとあるが、これを読むといつも、私的には将棋の穴熊囲いを思い起こしてしまう。
穴熊囲いとは、王を盤の隅(香の位置)まで動かし周りに金銀を集めて王を堅く守る戦法で、プロの将棋でもさかんに指されている。誰がつけたのか、なかなかユニークな命名である。採鉱の穴ともいわれたらしいが、これが金や銀の採鉱穴であったら、アナグマ囲いに金、銀が結びついておもしろいのであるが。
上の写真の左側に小路の入り口が見えるが、ここで左折し小路に入る。かなり狭い道を通り、まっすぐに延びる道に出る。この道は狸穴坂の西側下で坂と同じ方向に延びている。
前回の鼠坂の坂下も含め、このあたりは麻布狸穴町で、永坂町などとともに古い地名が残っている地域である。
左側の写真は、まっすぐの道を奥まで進み、来た道を撮ったものである。右側は静かな住宅街で、左側の壁の方には大きな建物があり、その反対側上に狸穴坂が通っている。
右側の写真は、まっすぐの道の突き当たり角を左折したところで撮ったもので、中央奥に小さく階段が見えるが、これが、鼬坂~植木坂の記事で紹介した鼬坂下から下る階段である。
引き返すが、途中、左折するところを、右折すると、先ほどの鼠坂下に出る。もとの小路から左折する。
左側の写真は、少し進んだところで撮ったもので、傾斜が始まっている。わたし好みにみごとにうねっている。右側の写真は、さらに進んで中腹あたりから撮ったもので、坂上が見える。
『紫の一本』の「長坂」に次の説明がある。
「(長坂は)まみ穴の坂より西の坂なり。まみ穴も坂なれど、まみ穴坂とはいはず。それ故坂の内へ入れず。むかしこの坂にまみの穴ありしとぞ。まみといふは、狸(たぬき)狢(むじな)の類といふ。」
『御府内備考』には次の説明がある。
「狸穴 雌狸穴とも魔魅穴とも書す 長坂の東の方同じさまに下る坂をいふ、紫一本に云、むかし此坂にまみの穴ありしと、魔魅といふは、狸狢の類なりと、御徒頭萬年記に、寛永廿一年三月三日青山宿より麻生薬種畠へ 御成あり、御膳所にてその頃の御徒頭能勢市十郎に仰付られ、麻布のむじなの穴を見せにつかはされ、そのさまを申上べきよし仰ありと見ゆ、是當所まみの穴の事なるべし、一説可成談に云、まみ穴といふは、古へかねほりたる穴なり、まみとはまぶの事なり、享保六年のころ、黄金の様なる砂出たれど、いまだ年のたらぬなりとてほらずなりぬと、此狸穴と稱する地は麻布飯倉兩所にかかりしとみへ、・・・」
『紫の一本』は、まみ穴も坂だが、まみ穴坂といわないので、坂の内には数えないとしており、むかし「まみ穴坂」とはいわなかったらしい。ただし、尾張屋板には狸穴坂とあるので、江戸末期にはそうでもなくなったのであろうか。紫の一本(むらさきのひともと)の成立は天和二年(1682)である(のちの補筆も多いというが)。
『紫の一本』『御府内備考』からわかるように、坂名の由来は、狸狢の類のまみの穴説が主流のようで、標柱の説明もこのあたりを参考にしているのであろう。黄金のような砂が出たとあるが、どこまで事実か不明のようである。
『江戸砂子』にまみ穴説に加え、「或は上古、銅の出でしまぶ穴といふ説あり」とあるとのこと(石川)。(金、銀でなくてちょっと残念。)
坂をかなり上るが、次第にまっすぐになる。左側の写真は坂上側から坂下を撮ったものである。右側の写真は坂上からの写真である。いずれにも見える左側の塀の中はロシア大使館である。もとソ連大使館で、ここには昭和5年(1930)6月、裏霞ヶ関から移ってきたという(岡崎)。
坂下から上ってきて平坦になったところから坂出入口を撮ったのが左側の写真で、通りの向こうに見えるのは麻布郵便局である。写真に見えるように、坂上左側に真新しい標柱と、狸穴坂と刻まれた石碑が立っているが、これらを歩道側から撮ったのが右側の写真である。
坂上は交通量の多い外苑東通りの広い道路(昔の電車通り)である。島崎藤村は、このあたりのことを「飯倉附近」に次のように書いている。
「この界隈はまた古い屋敷町の跡でもある。飯倉四つ辻から榎坂を上ったあたりは一帯にその屋敷町の跡だ。上杉、稲葉、戸田、その他旧藩の主従が大家族を形造りながら住んだという屋敷の跡は、最近まで諸華族の居住地として電車通りの両側に残っていて、その中でも狸穴坂に近い小屋敷の跡には、昔のまゝの黒く塗った門や、扉や、古風な出格子の窓まで見られた。斯うした町の一部は今、改変の最中にある。広い庭園の跡には分譲地の札が立っている。この空虚な場所の板がこいが広告板に応用されて、普通選挙の当時は候補者の名で埋まったことは、まだ町の人達の記憶に新しくてあるだろう。私は市内から仏壇や墓地まで挙げて郊外の方へ移って行った一、二の古い寺を直接に知っている。屋敷も、寺も、今は動きつゝあるのだ。」
昔のままの黒く塗った門や古風な出格子の窓が狸穴坂に近い小屋敷の跡に見られたとあり、そのころそのような昔の雰囲気が残っていた。興味を引くのは、町の一部は今、改変の最中にあるとしていることである。広い庭園の跡には分譲地の札が立ったり、板がこいが広告板に応用され、選挙の時は候補者のポスターが張られ、一、二の古い寺は郊外に移っていった。屋敷も、寺も、今は動きつつあるのだとしているが、ちょうど、大正12年(1923)の関東大震災の後であったからであろうか。藤村の「飯倉附近」が入っている「大東京繁昌記 山手篇」が刊行されたのは、昭和3年(1928)12月であるので、多分そうであろう。
藤村のときのように大震災があったわけでもないのに、まさしく「いま」も東京の街々は動きつつある。いつの時代も変化を止めない街のようである。
(続く)
参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「大東京繁昌記 山手篇」(平凡社ライブラリー)
校注・訳 鈴木淳 小道子「近世随想集」(小学館)