東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

鼠坂~狸穴公園

2011年01月12日 | 坂道

鼠坂上手前 鼠坂上 鼠坂上標柱 植木坂の標柱のある坂下を右折すると、ほぼ平坦な細い道が続くが、やがて狭い下り坂となる。

左側の写真は坂上手前で撮ったもので、中の写真は坂上から撮ったものである。右側の写真は坂上に立っている鼠坂の標柱であるが、同写真のように次の説明がある。

「ねずみざか 細長く狭い道を、江戸でねずみ坂と呼ぶふうがあった。一名鼬(いたち)坂で、上は植木坂につながる。」

『改選江戸志』は、「鼠坂は、至つてほそき坂なれば、鼠穴などいふ地名の類にて、かくいふなるべし」と解説し、細くて狭く長い坂をいったらしい(横関)。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、前回の記事で鼬坂とした坂を南側へ下ると、左側に曲がりながら続く道があり、坂名も坂マークもないが、これが鼠坂と思われる。近江屋板には、鼬坂に続く南側の道に坂マークの△印がある。 明治地図にも江戸切絵図と同様の道筋がある。戦前の昭和地図には、現在鼠坂の標柱が立っている道筋に鼠坂とある。

鼠坂下 鼠坂下標柱 左側の写真は坂下から坂上を撮ったもので、右側は坂下の標柱を入れて撮ったものである。勾配は中程度で、細くまっすぐな坂である。

横関は、この鼠坂を「港区麻布永坂町と麻布狸穴町との境を北へ外苑東通りまで上る長い坂。頂上に近いところを、植木坂、鼬坂とも」としている。石川は、この坂を紹介せず、外苑東通りから下る鼬坂~現在植木坂の標柱のある坂を植木坂としている。岡崎は、鼠坂、植木坂を標柱と同じとし、山野も同様であるが、外苑東通りから南へ下る(鼬)坂には触れていない。

以上のように、この鼠坂については、この坂上を直進し藤村の旧居跡の石柱を左に見て外苑東通りへと上る鼬坂(前回の記事参照)とあわせて考えることが必要なようである。標柱でいう別名もそのことを示唆しているのかもしれない。

島崎藤村は、以前の記事のように、「飯倉附近」に次のように書いている。

「鼠坂は、私達の家の前あたりから更に森元町の方へ谷を降りて行こうとするところにある細い坂だ。植木坂と鼠坂とは狸穴坂に並行した一つの坂の連続と見ていゝ。たゞ狸穴坂の方はなだらかに長く延びて行っている傾斜の地勢にあるにひきかえ、こちらは二段になった坂であるだけ、勾配も急で、雨でも降ると道の砂利を流す。こんな鼠坂であるが、春先の道に椿の花の落ちているような風情がないでもない。この界隈で、真先に春の来ることを告げ顔なのも、毎年そこの路傍に蕾を支度する椿の枝である。」

藤村は、植木坂と鼠坂は一つの坂の連続と見てよいとしているが、この見方は、上記の横関が北へ外苑東通りまで上る長い坂とする説と軌を一にする。

横関にある「麻布の鼠坂」の写真(昭和30~40年ころ)に坂上からの風景が写っているが、右に石垣(上の写真のようにこれはいまも一部が残っているようである)、左に樹木が生い茂っており、これから想像すると、藤村や荷風が通ったころはもっと野趣に富んでいたのであろう。

狸穴公園 坂下がちょっとしたクランク状の道になっていて、そこを直進すると、ちょっと大きな公園に至る。写真のように狸穴公園である。この東側が旧森元町で、藤村が鼠坂を下ってよく出かけたところである。「飯倉附近」に次のようにある。

「鼠坂を下りて、そのごちゃごちゃとした町の入口まで行くと、私はいろいろな知った顔に逢う。そこには私の贔顧(ひいき)にする焼芋屋、泥鰌(どじょう)屋もあるし、たまに顔剃りに行く床屋もある。森元の好いことは気の置けないことだ。町の角にしんこ細工の荷をおろして、近所の子供を呼び集めるものがあるとする。大人まで立って眺めていても、そこではすこしもおかしくない。反ってある親しみを感じさせるようなところだ。」

そのころは下町の雰囲気のある藤村好みの町であったらしい。現在東麻布であるが、いまは店も少なく賑やかさはない。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「大東京繁昌記 山手篇」(平凡社ライブラリー)

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