「大東京繁昌記・山手篇」の一篇で、植木坂の記事のときにでてきたので、平凡社ライブラリーのもので読んでみた。底本が東京日々新聞社編『大東京繁昌記・山手篇』初版(昭和3年(1928)12月、春秋社)。
飯倉町とは、江戸時代から明治初年までの飯倉10か町の総称(本間信治「江戸東京地名事典」)。10か町とは、飯倉一~六丁目、飯倉永坂町、飯倉狸穴町、飯倉片町、飯倉六本木町。現在の麻布台1~3丁目、麻布永坂町、麻布狸穴町、六本木5丁目の辺りであろう。
島崎藤村は、大正7年(1918)10月に西久保桜川町(現虎ノ門一丁目)から飯倉片町33番地に移っているので、移転から数年以上たってから書いたものであろうか。前の記事にもあったが、自宅近くのことを次のように書いている。
「南に浅い谷の町をへだてゝ狸穴坂の側面を望む。私達の今住むところは、こんな丘の地勢に倚って、飯倉片町の電車通りから植木坂を下りきった位置にある。どうかすると梟(ふくろう)の啼声なぞが、この町中で聞える。私の家のものはさみしがって、あれは狸穴の坂の方で啼くのだろうか、それとも徳川さんの屋敷跡の方で啼くのだろうか、と話し合った。東京の人の言草に「麻布のキが知れない」ということがある。それは何の意味ともよく分らないが、すくなくも下町の方に住む人達の中には今だに藪だらけの高台のように麻布の奥を考えているものもあるらしい。そういう人達ですら、梟の話ばかりは信じまいかと思う。もしこの地勢について幾つかの横町を折れ曲って行って見ると、あるところは一廓を成した新しい住宅地のごとく、あるところは坂の上下にある村のごとく、鶏の声さえ谷のあちこちに聞えるようなのが、この界隈の一面である。野鳥のおとずれさえこゝではそうめずらしくない。」
「鼠坂は、私達の家の前あたりから更に森元町の方へ谷を降りて行こうとするところにある細い坂だ。植木坂と鼠坂とは狸穴坂に並行した一つの坂の連続と見ていゝ。たゞ狸穴坂の方はなだらかに長く延びて行っている傾斜の地勢にあるにひきかえ、こちらは二段になった坂であるだけ、勾配も急で、雨でも降ると道の砂利を流す。こんな鼠坂であるが、春先の道に椿の花の落ちているような風情がないでもない。この界隈で、真先に春の来ることを告げ顔なのも、毎年そこの路傍に蕾を支度する椿の枝である。」
飯倉はふくろうの啼き声が聞こえる地であったようである。新しい住宅地や鶏の声が聞こえる坂の上下にある村のようなところもあり、野鳥のおとずれもあったらしい。住宅地も増えていた頃だったかもしれないが、未だ牧歌的な雰囲気が残っていたようである。
永井荷風が住んでいた偏奇館は飯倉から近く、「断腸亭日乗」大正9年11月29日に「近巷岨崖の雑草霜に染みたるあり。既に枯れたるあり。竹藪には鳥瓜あまた下りたり。時に午鶏の鳴くを聞く。景物苑然として村園に異ならず。」とあるように、ここでも鶏の鳴声が聞こえたようである。
徳川さんの屋敷跡とは、電車通りを挟んだ飯倉町六丁目にあった徳川邸の跡であろう。飯倉附近で最も広い邸宅で、震災後、逓信省(旧郵政省)に売渡したとあるので、現在、麻布郵便局のある辺りと思われる。
飯倉片町の電車通りから下った植木坂から鼠坂までの間は平坦で、全体として二段であるだけに、勾配が急だといっているが、いまもそのようである。藤村は、鼠坂を下りて森元町(現東麻布二丁目)にでかけ、そこには贔屓にした焼芋屋や泥鰌屋や床屋があり、知った顔に逢え気の置けないところが好きだったようである。下町の親和性が藤村を引きつけたのであろう。
荷風は、大正12年11月頃から南葵文庫というところを頻繁に利用しているが、飯倉の徳川邸の中の一角にあったことを今回、始めて知った。南葵文庫は、「図書総数十万余、主として日本歴史、日本地理、国文学などに関する図書が多かった」とあり、荷風は、武鑑などを閲覧しているが、当時執筆中の下谷のはなし(後の「下谷叢話」)のためだったと思われる。
「私は目黒のI君から書いてよこして呉れた我善坊のことで、この稿を終るとしよう。我善坊は正宗白鳥君の旧居のあったところであり、この界隈での私の好きな町の一つでもある。I君から貰った手紙の中には、次のように言ってある。」
「我善坊町は、実に静かな落ち着きのある谷底の町です。此処は昔は与力屋敷であって、其の当時は盗賊や罪人を追跡するには、此の町へ追い込むようにしたものであると言います。我善坊へ追込みさえすれば、地勢上捕縛するに便利であるし、与力屋敷のことゝで其処には与力達が待ち構えているし、大抵の犯罪者は難なく逮捕されたものであると言います。これも昔から我善坊に住んでいる古老の話を其のまゝ茲に御伝えいたします」。
我善坊町は、藤村も好きな町とあり、当時から静かで落ち着いたところだったようである。最近も歩いてきたが、いまも、かすかにその雰囲気が残っているようにも感じられる。いつまで残るのであろうか。