永坂上を進み、途中右折し、階段を下り、左折すると、飯倉片町の交差点にでる。ここを右折し横断し、外苑東通りを東に進む。二本目が鼬坂(いたちざか)の坂上である。
細い道がかなりの勾配で下っている。
快晴で南向きであるので、坂下では冬の日差しがまぶしい。天気がよいのはうれしいが、光と影のコントラストが大きくなるので写真の写りが悪くなる。坂の写真は曇りのときの方が断然写りがよい(といいわけ)。
写真は、急坂を下り、坂上を撮ったものである。ここも陽の当たるところと影になったところがあり、かなりのコントラストがついている。
この坂は、もう1年ほど前、この近くの植木坂の標柱が立っている坂との間で、どちらが植木坂であるかを記事にした覚えがある("植木坂の位置")。きっかけは、永井荷風の大正10年(1921)1月17日の「断腸亭日乗」にある次の記載であった("荷風と坂"の記事参照)。
「植木阪より狸穴に出で赤羽根橋を渡る。麻布阪道の散歩甚興あり。三田通にて花を購ひ帰る。」
坂下をちょっと進むと、右手のマンションのわきに左側の写真のように、島崎藤村旧居跡と刻まれた石柱が立っている。その左側面に「株式会社東京楽天地 昭和四十八年四月三日建立」とある。石柱の上に、次の説明文が刻まれた石板がはめ込まれている。
「藤村は、七十一才の生涯のうち文学者として最も充実した四十七才から六十五才(大正七年~昭和十一年)までの十八年間当地麻布飯倉片町三十三番地に居住した 大作夜明け前 地名を冠した飯倉だより 童話集 ふるさと おさなものがたり などは当地での執筆である」
右側の写真は、鼬坂下とともに上記の石柱、石板を側面から写したものである。
鼬坂下の付近は見晴らしがよい。さらに一段低くなった低地があるからである。坂下左わきにそこに下る階段がある。階段を下りて直進すると、静かな住宅街が続いている。写真は、引き返して階段下から撮ったものである。
島崎藤村は、このあたりのことを「飯倉附近」に書いており、以前の記事で紹介したが、その一部を再掲する。
「南に浅い谷の町をへだてゝ狸穴坂の側面を望む。私達の今住むところは、こんな丘の地勢に倚って、飯倉片町の電車通りから植木坂を下りきった位置にある。」
藤村が、「南に浅い谷の町をへだてて」とした浅い谷の町とは、上記の階段を下りたところの住宅街であったと思われる。その向こうに狸穴坂の側面を望むことができた。いまは大きな建物があり、そのような風には見えなくなっている。そして、藤村は上記の鼬坂とした坂(旧飯倉片町の電車通りである外苑東通りから下る、狸穴坂のとなりの平行な坂)を「植木坂」としていることがわかる。
写真は上記の藤村の旧居跡からちょっと進んで撮ったもので、植木坂の標柱が見える。標柱のところを左折すると上りとなる。
尾張屋板江戸切絵図を見ると、先ほどの鼬坂のところ(狸穴坂のとなりの平行な道)に、「〇サカ」とあり、〇は「鼬」または「鼠」の簡略異体字と思われる。坂上西側に「植木ヤ ツシモト」とあり、近江屋板も坂名に似た簡略異体字を用い、坂上西側に「植木ヤ」とあるが、いずれにも「植木坂」とは記されていない。それでも、横関は植木坂を先ほどの外苑東通りから下る坂とし、別名を鼬坂、鼠坂としている。嘉永二年の江戸切絵図に坂の下り口に「植木ヤ」とあるとしているが、そのことからそう判断したのであろうか。
岡崎は、近江屋版江戸切絵図には、外苑東通りから南に下る道に、植木屋はないが、「△ウエキサカ」とある、としているが、下記参考文献の近江屋板江戸切絵図は上記のように尾張屋板とほぼ同様である。別の坂でも同じようなことがあったので、板(版)の違いなのかもしれない。
写真は植木坂の坂下である。かなりの勾配でまっすぐに上っている。標柱に次の説明がある。
「うえきざか この付近に植木屋があり、菊人形を始めたという。外苑東通りからおりる所という説もある。」
標柱は、植木坂を外苑東通りから南に下る坂とする説にも配慮している。
尾張屋板江戸切絵図には、この坂と思われる道筋が西へ長坂までほぼまっすぐに延びているが、坂マークや坂名はない。近江屋板には、坂名がないが、この坂と思われる位置に坂マークの△印がある。興味深いのは、永坂からこの坂に続く道にも坂マークがあり、△印の向きから上り坂である。これは現在の地形とあっている。
急坂を上りながらその傾斜を実感するが、距離は短く、平坦となった坂上を進むと、右に標柱が立っている。写真は、坂上側に向かって撮ったものである。このあたりはかなり静かな一帯である。
坂上をそのまま西側へと進むと階段に出るが、ここを下りると、永坂の東側の歩道に出る。ここを左折し下ると、途中に、前回の記事の「信州更科蕎麦所・布屋太兵衛」の説明板が歩道左側に立っている。
上記の坂上を西側へと進んだ階段の下りは、近江屋板にある永坂に向かって下る坂と対応していると思われ、むかしは、そのまま進んで、現在の首都高速の飯倉出口付近を通り、永坂の上側に出たのであろう。
写真は、坂上の標柱から坂上にもどり、そこから坂下を撮ったものである。かなりの勾配であるが、上の植木坂上の標柱の写真に写っている港区の坂でよく見かける勾配表示には10%とある。
上記の荷風の「日乗」にある植木阪が、現在鼬坂とされる坂または現在植木坂の標柱が立っている坂のいずれであるか確証はないが、上記の以前の記事では、その当時、このあたりに住んでいた藤村の上記「飯倉附近」の記載から、現在鼬坂とされる坂ではないかと考えた。付け加えると、もし永坂経由であれば、荷風は永坂という坂名も書くような気がするが、どうであろうか。
坂を下り、坂下に戻る。
(続く)
参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「大東京繁昌記 山手篇」(平凡社ライブラリー)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)