東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

我善坊谷坂~落合坂(2)

2011年01月24日 | 坂道

我善坊谷 前回の仙石山の石碑前から来た道を引き返し、我善坊谷坂上を左折し、坂を下り、直進する。桜田通りからの道との交差点を右折し西に向かう。左側の写真は右折後に西側を撮ったもので、我善坊谷である。このあたりはほとんど平坦になっている。我善坊谷は麻布台地と六本木一丁目側の台地との間に位置し東西に延びる谷である(以前の記事の俯瞰地図参照)。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、三年坂と我善坊谷坂とがつながる道の途中の谷底から、現在と同じように、道が西に延びている。両側が御手先組である。しかし、東(神谷丁方面)へ延びる道はない。近江屋板では西に延びる道もない。

この谷について『御府内備考』には次の説明がある。

「龕前坊谷 龕前坊谷は、同所なり、上杉家の屋布の後の方なり、砂子云、崇源院殿御葬禮ありし時、龕前堂たちしところなりと、寛永記云、三年十月十八日大御臺所崇源院殿の御事なり、御葬禮上寺におひて執行せらる、御葬送の場所は麻布野をもつて定らる、上寺より御葬送場所御火屋までは、行程千間ありといへり、則この所なるべし、ことに此ところは原野の地にて人家まれなることおもひしるべし。改選江戸志」

前回の記事のように龕前坊ともいったが、我善坊はこれの転訛であるという(石川)。

上記のように、崇源院(二代将軍秀忠夫人で三代将軍家光の生母浅井氏お江)の葬式は増上寺で行われたが、葬送の場所は麻布野と定められ、増上寺より葬送場所の火屋までは行程千間がいるといわれ、この谷で荼毘に付された。崇源院は天正元年(1573)生まれで寛永三年(1626)に亡くなっているが、そのころは、原野で人家まれの地であったらしい。

龕(かん、がん)とは仏像を納めた厨子(二枚扉の開き戸のついた小さい箱)で、龕の前に僧坊を建ててその冥福を祈ったのが龕前坊の由来であるという(石川)。

落合坂下 落合坂下標柱 落合坂下側 ちょっと進むと、左側の写真のように標柱が見えてくる。このあたりが落合坂の坂下で、ここで道がクランク状に折れ曲がっている。二枚目の写真は標柱を撮ったもので、バックに見えるのは、六本木一丁目方面の崖下である。右側の写真はクランク部分のちょっと先から撮ったもので、このあたりからわずかに傾斜がはじまっている。

明治地図を見ると、我善坊町を突き抜けているこの通りにちゃんとクランク部分があるが、戦前の昭和地図にはないので省略したのであろう(精度が悪い)。

標柱に次の説明がある。

「おちあいざか 我善坊谷に下る坂で、赤坂方面から往来する人が、行きあう位置にあるので、落合坂と呼んだ。位置に別の説もある。」

落合坂途中 落合坂途中から坂下 落合坂途中から坂下 さらに進んだところから撮ったのが左側の写真で、坂上が見える。そのあたりから振り返り坂下を撮ったのが次の写真で、さらに進んでから坂下を撮ったのが右側の写真である。このあたりになるとちょっと勾配がついている。遠くに見える大きな屋根は霊友会の建物である。

坂名は江戸切絵図、明治地図、戦前の昭和地図のいずれにもない。

『御府内備考』には次の説明がある。「落合坂 落合坂は、龕前坊谷の坂なり、江戸童に云、今井村赤坂新町などより往還の者ここにて行合ゆへに、落合坂と名つくと。」

この説明を標柱は参考にしているようである。

横関は落合坂を次のように説明する。「港区麻布六本木三丁目と麻布我善坊町との間を南へ上る坂。坂の頂上の東側には麻布小学校がある」。

これによれば、落合坂の位置は、上記の道筋ではなく、たとえば、この坂上の突き当たりを左折して南へ上る坂ということになる。

岡崎によれば、『江戸鹿子』は「いまの浅野式部屋敷の前」とし、『江府名勝志』も「落合坂 浅野氏屋敷前也、今井村赤坂新町などより往来の落合所也」とし、浅野屋敷は現在の赤坂六丁目であるので、この坂とは別の位置の坂ということになる、としている。

標柱にある別の説とは、以上のような説を指しているのであろうか。

落合坂途中から坂上 落合坂上 落合坂上 さらに進んで坂上を撮ったのが左側の写真である。次の写真は坂上から撮ったもので、坂上にも標柱がある。坂上を左折し振り返って坂上を撮ったのが右側の写真である。坂上近くで少し傾斜がついているが、全体として緩やかな坂である。

島崎藤村は「飯倉附近」で我善坊のことを次のように書いている。

「私は目黒のI君から書いてよこして呉れた我善坊のことで、この稿を終るとしよう。我善坊は正宗白鳥君の旧居のあったところであり、この界隈での私の好きな町の一つでもある。I君から貰った手紙の中には、次のように言ってある。「我善坊町は、実に静かな落ち着きのある谷底の町です。此処は昔は与力屋敷であって、其の当時は盗賊や罪人を追跡するには、此の町へ追い込むようにしたものであると言います。我善坊へ追込みさえすれば、地勢上捕縛するに便利であるし、与力屋敷のことゝで其処には与力達が待ち構えているし、大抵の犯罪者は難なく逮捕されたものであると言います。これも昔から我善坊に住んでいる古老の話を其のまゝ茲に御伝えいたします」。

この谷に追い込まれれば、両側は崖であり、横に逃げることができないので、簡単に捕まってしまったのであろう。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「大東京繁昌記 山手篇」(平凡社ライブラリー)

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