今回の坂巡りは、前回の行合坂で終了である。行合坂の北側坂上を直進すれば、六本木一丁目駅に至るが、このまま帰るのはしのびないので、坂上先の信号を右折し、偏奇館跡、道源寺坂に向かう。サウジアラビア大使館前を通り、山形ホテル跡に建つ市兵衛町ホームズの角を左折する。ちょっと歩くと、右側に御組坂が見えるが、その南側は工事中である。
左側の写真は偏奇館跡標識の付近を撮ったもので、右側の写真は標識の説明文である。
偏奇館とは、永井荷風が大正9年(1920)から昭和20年(1945)まで住んだ麻布市兵衛町の高台にあった住居である。荷風の日記「断腸亭日乗」大正9年5月23日「この日麻布に移居す。母上下女一人をつれ手つだひに来らる。麻布新築の家ペンキ塗にて一見事務所の如し。名づけて偏奇館といふ。」とあるように、ペンキ塗であったことから偏奇館(ヘンキカン)と名づけた(以前の記事参照)。
偏奇館の最後は劇的で、昭和20年3月10日の東京大空襲により焼亡するのであるが、その様子が「日乗」に克明に記されている(御組坂(2)の記事参照)。
この麻布市兵衛町(現六本木一丁目)あたりのことをこれまで多数の記事(偏奇館あたりの風景(1)など)にしたが、いずれも荷風に関わるものであった。このあたりはその著しい変貌にもかかわらず(いやそれ故に)私的には荷風の偏奇館に分かちがたく結びついている。土地から消滅した記憶を取り戻そうとしたが、なんの手段も方法も持たず、徒手空拳の試みであった。それでも偏奇館とその周囲についてほんのわずかであるがわかったような気がしている(思い込みかもしれないが)。「断腸亭日乗」以外に秋庭太郎や川本三郎や松本哉などの著作に頼るしかないが、これから先どんな復元された記憶の風景をみることができるだろうか。
偏奇館跡の標識を通り過ぎ、次を左折すると、まもなく道源寺坂の坂上である。坂を下るが、道源寺の中を見て驚いた。写真のように、本堂がなくなっているのである。一瞬、こころの内に衝撃が走り、ここもかと思ったが、一方でそんなことはないと打ち消した。
年末のさまよい歩きの最後にいたって驚きのことがあったが、本堂の改修のためと思いながら(確としたり理由はないが)坂を下った。右側の写真は、坂下からいつものところで撮ったものである。坂右側が工事中である。
坂下から六本木一丁目駅へ。
携帯による総歩行距離は12.4km。