津の守坂下から進み、靖国通りの交差点に至る。靖国通りを挟んで向こうを撮ったのが左の写真である。通りの向こうに合羽坂の坂下が見える。
靖国通りを横断し、坂下から撮ったのが右の二枚の写真である。坂下ではかなり緩やかに上り、上側で少し勾配がついて、坂上で外苑東通りに接続する。
合羽坂は、東西に延びる靖国通りとその上側で南北に延びる外苑東通りを結ぶ、短いが広い通りになっている。坂下が合羽坂下の交差点で、坂上が合羽坂の交差点である。
広い通りになっているが、拡幅されてかつての坂がその中にのみ込まれたのであろうか。
左の写真は合羽坂下と歩道を撮ったもので、次の写真は歩道わきを撮ったものである。写真のように、歩道のわきに、樹木が植えられた公園のようなだが、そうともいえないような空間がある。
左の写真の左に写っているように、合羽坂のわきの公園ふうの広場と靖国通りとの間に道が通っているが、この道はここから延びて外苑東通りの曙橋の下を通る。この道と合羽坂途中の歩道との間に、右の写真のように、短いが階段ができている。
外苑東通りは、四谷三丁目から曙橋の陸橋までは戦後に開通した新しい道路であるとのことで、昭和31年の東京23区の地図を見ると、現在の曙橋の陸橋がまだない。これで気がついたが、このあたりの靖国通りの道筋が現在と変わっている。現在の靖国通りは合羽坂下から西へ直進し住吉町の交差点に至るが、この道路は上記の地図にはなく、当時の靖国通りは、東から来て合羽坂を上り坂上から住吉町の交差点に下っていたようである。その後、現在の道路ができたため、上記のような合羽坂歩道わきの取り残されたような三角地ができたと思われる。曙橋の陸橋ができるまでこのあたりは崖であったのであろうか。
尾張屋板江戸切絵図を見ると、尾張藩上屋敷の前の道(いまの靖国通り)を東から西に進むと、尾張屋敷がちょうど終わったあたりに合羽坂とある。東側(坂上)からさらに直進するが、ここで北に曲がる道が分かれる。また、そのやや東側で津の守坂から延びた道がつながる。近江屋板を見たが、この坂を発見できなかった。いずれにしても江戸の坂のようである。
坂の歩道を上ると、左の写真のように、坂上近くに石からできた坂の標識が立っている。この標識は、区の教育委員会ではなく、東京都によるものである。高力坂にも同じタイプの標識が立っている。
次の写真のように、標識には上に尾張屋板江戸切絵図があり、下に説明文が刻まれている。左の写真にある説明文は次のとおりである(石川を参考にして一部補った)。
『合羽坂 かっぱざか 新撰東京名所図会によれば「合羽坂は、四谷区市谷片町の前より本村町に沿うて、仲之町に上る坂路をいう。昔此坂の東南に蓮池と称する大池あり。雨夜など獺(かわうそ)しばしば出たりしを、里人誤りて河童(かっぱ)と思いしより坂の呼名となりしが、後転じて合羽の文字を用い云々」、何れにしても、昔この辺りは湿地帯であったことを意味し、この坂名がつけられたものと思われる。 昭和五十八年三月 東京都』
『御府内備考』には次の説明がある。
「合羽坂 合羽坂は新五段坂の西の方にあり此坂の東に蓮池と稱する大池有て雨天の夜など獺しばしば出たりしを里人誤て河童と思ひしより坂の呼名とも成しが後轉じて合羽の字を書来る來りしといふ。」
二枚の写真は坂上から坂下を撮ったもので、坂下は靖国通りである。
横関は、この坂を「新宿区市谷本村町と市谷仲之町との境の坂。昔、この坂は尾張藩のものの合羽千場になっていたので、合羽坂の名ができたと言われるが、坂下に大きな古沼のあることを考えてみると、本当の意味は河童坂であろう」としている。坂名の由来に関しては上記の御府内備考や新撰東京名所図会の説明とほぼ同じ「河童」由来説である。
ただし、合羽坂の位置(範囲)について各者微妙な違いがある。
御府内備考は「合羽坂は新五段坂の西の方にあり、この坂の東に蓮池と称する大池がある」とし、新撰東京名所図会は「合羽坂は、四谷区市谷片町の前より本村町に沿うて、仲之町に上る坂路」とし、横関は「新宿区市谷本村町と市谷仲之町との境の坂」としている。
さらに、石川は「市谷本村町の自衛隊本部西南わき、市谷仲之町の境を南へカーブして東へ下る坂で、南方は靖国通りをまたぐ陸橋(曙橋)が架けられ、四谷片町につらなっている。」とし、岡崎は「現在の合羽坂は、陸上自衛隊市谷駐屯部隊西側の長い塀に沿って北へ、市谷薬王寺町に向かう広い道、外苑東通りの坂である。曙橋陸橋の手前から西へ曲り、坂下で靖国通りに交わる。」としている。
左の写真は、合羽坂上から外苑東通りの北側を撮ったもので、右側(東)が市谷本村町、左側(西)が市谷仲之町で、中程度の勾配でかなり長い上り坂である。坂の右側は警視庁第四方面本部で、以前は、東側から続く自衛隊駐屯地の敷地であった。右の写真は反対の外苑東通りの南側を撮ったもので、靖国通りに架かる曙橋である。
横関、石川、岡崎はともに、左の写真の曙橋の北端から外苑東通りを北側に上る坂を合羽坂と考えているようである。その中で、石川は、外苑東通りから曙橋の手前を左折し(東へ曲がり)靖国通りへと下る坂(これが上記の合羽坂とした道筋)を合羽坂としている。岡崎は、「曙橋陸橋の手前から西へ曲り」としているが、これを「東へ」と考えれば、石川と同様である。戦前の昭和地図にも同じ道筋に合羽坂とある。
横関は、曙橋の手前を東へ曲がり靖国通りへと下る坂については言及せず、この坂を合羽坂に含めているかどうかは不明である。
新撰東京名所図会は、四谷区市谷片町の前より本村町に沿って仲之町に上る坂としているので、上記の合羽坂とした道筋と適合し、尾張屋板が示す位置である。東京都の標識が上記の道筋を合羽坂とした根拠は、尾張屋板の地図と新撰東京名所図会であると思われる。そういえば、上記の坂標識が坂上のちょっと下側にあるのも、そういった意味があるのかもしれないなどと勘ぐってしまう。
御府内備考は、新五段坂の西の方にあるとし、その坂の位置が問題であるが、これについては次回に。
上記の蓮池は、岡崎によれば、町内の東方、尾張屋敷の御長屋下にあった用水溜で、蓮が生えていたが、のち埋め立てられて御先手組屋敷となったとされているので、尾張屋板を見ると、組屋敷が合羽坂の南側周囲に何箇所もあり、どれかは直ちに特定できないが、坂下の靖国通りのあたりが低地で、このあたりにあった組屋敷であろうか。
(続く)
参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「大日本地誌体系 御府内備考 第三巻」(雄山閣)
吉田・渡辺・樋口・武井「東京の道事典」(東京堂出版)