前回の五味坂下から内堀通りを横断すると、千鳥ヶ淵が右手に見えてくるが、ここから千鳥ヶ淵に沿って緑道が延びている。左側に車道が通っており、その左手は千鳥ヶ淵戦没者墓苑である。
写真のように、樹木で日陰になって涼しげで散歩によさそうな緑道がまっすぐに続く。ところが、確かにそう見えるのであるが、実際にはそういう雰囲気になれないところである。すぐわき千鳥ヶ淵側に首都高速環状線が走っており、騒音がかなりあるからである。この途中、ベンチがあったので、一休みしたが、騒音に耐えられなくなって早々に中断した。しかし、ちょっと歩くと、緑道は左(北)に曲がり環状線から離れていくので、そうでもなくなくなる。この千鳥ヶ淵緑道のはじめの直線部分は少々にぎやかであるが、それもやがておさまる。
尾張屋板江戸切絵図(東都番町大絵図)には、ゴミ坂下を東へ進むと、右手が堀端で、そのまま直進すると、緩やかに北へと曲がっているが、この地形は現在と同じである。
左の写真は北へ曲がってちょっと歩いたところで撮ったもので、この近くにボートのりばがある。その上に見晴台があるが、ここから千鳥ヶ淵がよく見える。北側は九段坂上の方まで延びており、両側の樹木がせまって見えて鬱蒼とした感じである。
2,3枚目の写真は見晴台で撮ったものである。3枚目の写真の東側に首都高速が見えるが、先ほどまで緑道の側を通っていた環状線である。
ここの説明パネルによれば、千鳥ヶ淵という名の由来は、かつて半蔵門のあたりまで拡がっていた壕が羽を広げたチドリの形に似ていることからといわれている。
ここの緑道の近くに千鳥ヶ淵戦没者墓苑の出入口がある。この墓苑は、第二次世界大戦のとき海外で亡くなった無名戦没者のためのものである。ここも樹木で鬱蒼としている。
千鳥ヶ淵戦没者墓苑から出て左折し、次を左折すると、鍋割坂の坂下である。細くまっすぐな坂道が西へと延びている。坂下は緩やかな道が少々長めで、途中ちょっと傾斜するが短くすぐ坂上に至る。そこからふたたび少し下ると、内堀通りの歩道である。短い小坂であるが、千鳥ヶ淵に近いためか落ち着いた雰囲気のある坂である。
横関によれば、鍋割坂というのは、みな小山を横断するところの坂で、坂の形に由来するという。なべわりは、鍋を割ったのではなく、鍋を割った形である。古い昔の土鍋の形で、鍋を逆さにしたような小山を割(さ)いて通ずる切り通し型の坂路を鍋割坂といったとする。同名の江戸時代から知られている坂は、他に次の三箇所であるという。
①鍋割坂(新宿区牛込矢来町、旧酒井邸内の坂、記録のみで今はない)
②鍋割坂(文京区の小石川植物園の大公孫樹の辺、昔のお薬園坂の道筋で、植物園を南北に通づる坂路であった)
③鍋割坂(千代田区麹町隼町、国立劇場敷地の北わきを平河天神社に向かって行く坂路)
「この坂を鍋割坂といいいます。『新撰東京名所図会』には「堀端より元新道一番町の通りへ上る坂なり。」とかかれています。同じ名称の坂は各地にありますが、どれもふせた鍋(台地)を割ったような坂であることからその名がつけられています。千代田区隼町の国立劇場北側のところにも同じ名の坂があります。」
標柱も横関と同じく形状由来説である。
『御府内備考』には次の説明があるが、上記と同じ説明(こちらが古いのであろうが)である。
「一番町堀ばたより新道一番町へのぼる坂なり。【江戸紀聞】」
尾張屋板江戸切絵図を見ると、ゴミ坂から来て堀端を緩やかにカーブして北に向かうとすぐのところに、西へ上る坂マーク△のある道があるが、ここであると思われる。坂下の両側は御用地となっている。坂上南北の通りが新道一番町である。近江屋板も同様。
明治大正地図にも戦前の昭和地図にもこの坂道があり、千鳥ヶ淵側と内堀通り側とを結ぶ近道であったようである。
現存する都内の鍋割坂は、ここと、国立劇場北側だけらしい(植物園内の坂も今はない)。この坂は、今回がはじめてであったが、国立劇場北側の坂も行ったことがないので、次の機会に訪れてみたい。
(続く)
参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第一巻」(雄山閣)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)