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東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

大沼枕山の墓(瑞輪寺)

2015年11月30日 | 荷風

大沼枕山肖像 瑞輪寺山門 大沼枕山の墓 標識 寛永寺坂で今回の上野台地の東端にある坂巡りは終了した。

坂上からどこへ行こうと考えたが、とりあえず、千代田線の地下鉄駅を目指し、西側の不忍通りの方に向かう。言問通りの北側の住宅地の中の小路を通ってであるが、そのうち谷中の寺院の多い所に至る。いつのまにかちょっと見覚えのある所にいることに気がつく。

広い通りを進み、門前の案内標識を見ると、大沼枕山の墓のある瑞輪寺であった(現代地図)。たしかかなり前、この門前まできたが、見つかりそうもなく、諦めて帰ったことがあったので、ちょっと記憶に残っていた。

寺の内に入って事務所で墓の場所を尋ねると、若いお坊さんが親切にも案内をしてくれた。こういった墓地で目的の墓を探すのはきわめて難しく、ここも塋域がかなり広いので、大変ありがたかった。

大まかな位置は、門前から横に細長い墓地に入って左手にかなり進んでから左の奥である。下の写真のように、墓石の形がちょっと変わっているので、比較的見つけやすいかもしれないが、なんの情報もないとやはり難しい。

大沼枕山の墓 大沼枕山の墓 大沼枕山は、上記の標識の説明にもあるように江戸最後の漢詩人といわれ、永井荷風の「下谷叢話」に詳しい。

荷風は、五歳の頃、弟の貞二郎が生まれたので、下谷の祖母の家にあずけられた。下谷には外祖父である鷲津毅堂が明治四年の春に居を定めていた。毅堂のことからはじめて、尾張国丹羽郡丹羽村の鷲津氏の家の系図や文献などを調べている中で、鷲津家と大沼枕山との関係を知るに至っている。

「わたくしは鷲津氏の家系を討究して、偶然大沼竹渓父子が鷲津氏の族人であることを知り、大に興味を覚え、先その墳墓をさぐり更に大沼氏の遺族を尋ねてこれを訪問した。
 わたくしはわが外祖父鷲津毅堂のことを述るに先立って、しばらく大沼竹渓のことを語るであろう。竹渓は晩年下谷御徒町に住した。その子枕山は仲御徒町に詩社を開き、鷲津毅堂もまたその近隣に帷を下して生徒を教えた。わたくしがこの草稿を下谷叢話と名づけた所以である。」(下谷叢話 第一)

荷風は尾張名所図会を引用し、寛政年間に七丹羽郡にいた鷲津幽林という博学多材の学者を記している。この幽林の長男典が枕山の父で、家を継がず江戸に出て、幕府御広敷添番衆(おひろしきそえばんしゅう)大沼又吉の養子となった。典は竹渓と号して化政の頃江戸の詩壇に名を知られた詩人であった。鷲津家は幽林の三男混(松隠)が継いだ。

枕山は、文政元年(1818)三月十九日生まれ、父竹渓五十七歳の時の子で、幼名が捨吉、他に兄弟はなく、十歳のときに竹渓が亡くなったが、大沼家は、竹渓の実弟次郎右衛門基祐(幽林の末子)が継いだ。

荷風は、長男に生まれた竹渓が何故に鷲津家を継がずに他姓を冒したのか、遂に知る道がない、とするとともに、捨吉は何故父の家をつがなかったのか、これもわたしの知らんと欲して知ることを得ざる大事件である、と記している。これらについて、かなり調べたようだが、遂にわからなかった。

捨吉は、叔父次郎右衛門と折合がよくなかったので、わずかな金子をふところにして家を出て道中辛苦して尾張に往ったことを枕山の娘から聞いたが、その年月が詳らかでない。いずれにしても天保六年(1835)、十八歳の秋に、尾張国丹羽郡丹羽村の叔父鷲津松隠の家にいた。その頃、松隠は隠居し、その嫡子徳太郎(益斎)が家学を継ぎ、有隣舎と名けた家塾で門生を教えていた。

この頃、この家塾で森魯直(春濤)が学んでいた。年十七。ある日、有隣舎の塾生が益斎の蔵書を庭に曝し、春濤にその張番をさせたが、春濤は、番をしながらしきりに詩を苦吟していたので、にわか雨が降ってきたのに気がつかなかった。折から枕山も苦吟しながら外をあちこち歩いている中溝へ墜ち泥まみれになって帰ってきた。塾生らは苦吟のため一人は曝書を雨にぬらし、一人は衣服を泥にしたと言って笑ったという。この逸話は二人が詩を好むこと色食よりも甚しきを証する佳話として永く諸生の間に伝えられたと荷風は記している(下谷叢話 第四)。

この話から、捨吉は、尾張国丹羽村の叔父松隠、従兄弟益斎の親子に迎え入れられ、期間は不明だが、その門で学ぶことができたように想われる。

その天保六年の歳、秋に、捨吉(枕山)は有隣舎を去って東帰の途に上り、江戸に還ってきた。

菊池五山は、かつて枕山の父竹渓と親しかったが、枕山が江戸に還ってきてはじめて五山を訪れたとき、枕山の敝衣(へいい/やぶれた衣服)をまとっているのを見て乞食ではないかと思い戯れにその詩才の如何を試み驚いて席を設けたという。これは有名な逸話らしいが、この事を荷風は疑っている(下谷叢話 第四)。

根岸谷中日暮里豊島辺絵図(安政三年(1856)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 東都下谷絵図(文久二年(1862)) 枕山は、晩年の明治二十三年春、仲御徒町の三枚橋の旧宅から下谷花園町十五番地暗闇阪(清水坂)に転居し、その新居に明治二十四年(1891)十月一日、七十四才で没した。

大沼家の歴代の墓は三田薬王寺にあるが、枕山の墓が谷中の瑞輪寺にあることについて荷風は薬王寺を訪れたときの住職との会話を次のように記している。

『「これが皆大沼家の墓です。久しく無縁になっていますが、わたしの代になってから倒れているのもこの通り皆建直したのです。枕山先生のお墓はここにはありません。どういう訳でわきの寺へ持って行かれたのでしょう。菩提所が別々になっていると御参りをなさる方も定めてご不便でしょう。」
 住職はわたしが枕山の子孫ででもあるかのように問掛けるので、わたしは人から聞伝えたはなしをそのままに、「枕山先生の葬式は万事門下の人たちが取仕切ってやったのだという話です。谷中の瑞輪寺へ葬ったのはお寺が近かったからだというはなしです。」』(下谷叢話 第二)

大沼家のその後は、鷲津家の益斎の弟に又三郎というものがいたが、この又三郎が次郎右衛門基祐の家を継ぎ下田奉行手附となったという。

三枚目の尾張屋清七板江戸切絵図の東都下谷絵図(文久二年(1862))を見ると、加藤出羽守邸の門前に「大沼又四郎」という家がある。近江屋板を見ると、この家が「大沼又三郎」になっている。枕山の旧宅があった三枚橋に近い。

参考文献
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
永井荷風「下谷叢話」(岩波文庫)
「江戸詩人選集 第十巻」(岩波書店)

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幾代跡(2014)

2014年12月29日 | 荷風

永井荷風は、西久保八幡町の壺屋裏の壺中庵に関根歌を囲った(以前の記事)。昭和2年(1927)10月頃のことであるが、次の年3月に三番町に移っている。ここで歌が待合「幾代」をはじめた。

荷風とお歌(1)
荷風とお歌(2)
荷風とお歌(3)

三番町幾代近くの地図 三番町の幾代の位置であるが、秋庭によれば、住所が三番町十番地、表通りから裏の路地に抜けた二階建ての待合で、この家は今次の戦火に焼けたが、九段三業事務所に近いふく源という家が、かつて幾代の在った場所であるという。

左の地図は、明治四十年(1907)の明治地図(左のブックマークから閲覧可能)の麹町区三番町の部分図である。三番町十番地を表す「10」が三つの区画に示されているが、「幾代」とテキスト挿入した位置の直下のあたりが幾代のあったところと思われる。

三番町と東側の富士見町あわせて富士見町芸者街と称し、幾代のあった頃、約百軒の待合があった。

赤線で示される電車通りが現在の靖国通りで、その上(北)に靖国神社が見える。 

幾代跡の通り 幾代跡の通り 前回の記事のように、新宿通りの麹町一丁目の交差点から永井坂を下り袖摺坂を上り、そのまま北進し、御厩谷坂のV字谷を下り上ると、まもなく四差路に至るが、そこを直進し、次の小路を左折(西へ)してから(現代地図)、その西側を撮ったのが一枚目の写真である。

そこからさらに直進してから、同じく西側を撮ったのが二枚目である。このあたりの右側前方付近が幾代のあったところと思われるが、例によって、その痕跡はなにも残っていない。ただ、街の雰囲気に色街であった名残がかすかにあるような気がする。

御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 東都番町大絵図(元治元年(1864)) 一枚目は御江戸大絵図(天保十四年(1843))の部分図で、三ハン丁(三番町)とある中央斜めの道がいまの靖国通りで、その下が九段坂へと続く。その中央近くの鳥居と松平との間の道が御厩谷坂から北へ延びる道である。

二枚目は尾張屋板江戸切絵図 東都番町大絵図(元治元年(1864))の部分図で、上右の歩兵屯所の前の斜めの道が靖国通りで、その上が九段坂へと続く。堀田摂津守の屋敷の前を右(南)へ延びる道が御厩谷坂の道である。歩兵屯所のあたりに明治になってから招魂社(靖国神社)ができた。

両図からわかるように、この辺一帯は、江戸期には武家屋敷であり、明治になってから色街になったことがわかる。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社)
秋庭太郎「考証 永井荷風(下)」(岩波現代文庫)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)

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荷風とお歌(3)

2014年12月26日 | 荷風

お歌は、前回の記事のように、昭和三年(1928)四月十二日から三番町で待合「幾代」をはじめた。

昭和3年(1928)4月19日の「断腸亭日乗」に次の記述がある。

「四月十九日 晴れて風あり、午後小石川原町阿部病院に赴き電気治療を請ふ、帰途病人坂を下り安閑寺門前を左に曲りて指ケ谷町電車通に出づ、途次豆腐地蔵の門前を過ぐ、むかし見覚えたる門前の古碑依然として路傍に立ちたり、供物の豆腐をひさぐ豆腐屋も今猶在り、電車にて神保町に抵り書肆[店]松雲堂に憇ひ、主人と閑話す、琴峯詩訬七冊を購ふ、漫歩九段坂を上りお歌の家を訪ふ、是日待合開業弘めの当日にて楼上には遊客藝妓雑遝[雑踏]す、帳場の長火鉢にて夕餉を食し夜半車を倩[請]ひて家に帰る、」

荷風は、この日、午後小石川原町の阿部病院に行き、電気治療をしてもらった。現在の白山四丁目、小石川植物園の北東のあたりであろう。その帰り、病人坂を下るが、この坂は植物園内にあり、この東側に享保七年(1722)にできた施薬院があったからそう呼ばれた。鍋割坂、お薬園坂とも。坂下の安閑寺門前を左に曲りて指ケ谷町電車通に出たが、途中豆腐地蔵の門前を通り過ぎた。むかし見覚えのある門前の古碑が路傍に立っていた。供物の豆腐を売る豆腐屋が今もある。電車で神保町に至り松雲堂書店で休み、主人と話をし、琴峯詩訬七冊を購入した。ぶらぶらと歩き九段坂を上りお歌の家まで行った。この日は待合開業弘めの当日で、店は遊客や芸妓で混雑した。帳場の長火鉢で夕飯を食し、夜半車を頼み家に帰った。

同月30日には次の記述がある。

「四月三十日 晴れて風あり、三番町架設電話の事につき茅場町内海電話店を訪ふ、帰途太牙に憩ひ、薄暮三番町に赴く、招魂社昨日より祭礼にて人出おびたゝしく藝者家町は路傍に杭を立てゝ挑燈を挂け連ねたり、十一時過人稍散じたる頃お歌小久栄太郎等を伴ひて境内を歩む、天幕張りたる飲食店螺[栄螺]の壺焼を売るもの多く、その匂あたりに漲[みなぎ]りわたりたる、興業を終りたる見世物小屋の男女浴衣細帯にて外に出でつかれて物食へるさま哀れに見えたり、十二時過自働車にて帰る、空くもりて月おぼろなり、」

この日、荷風は、幾代の電話架設のことで茅場町の電話店に行き、その帰り銀座の太牙で憩い、薄暮れに三番町に行くと、昨日より招魂社(靖国神社)の祭礼で人出が多く、芸者家町では路傍に杭を立て提灯をかけ並べている。11時過ぎ人がやや散じたころ、お歌、小久、栄太郎等を伴って境内を歩いた。サザエの壺焼を売る天幕張りの飲食店が多く、その匂いがあたりにみなぎっている。興業を終えた見世物小屋の男女が浴衣細帯にて外に出て、つかれた様子で物を食べるさまが哀れに見えた。十二時過自働車にて帰ったが、空はくもって月がおぼろであった。

以上のように、荷風は、病院や書店に行き、古祠を訪ね、ぶらぶら歩き、銀座の知った店に行ったりして、気ままな生活を楽しんでいるが、この時期、一日の最後に三番町のお歌のところに立ち寄るのが日課となっている。近くの靖国神社で祭りがあると、お歌等を連れて散歩に出かけている。

5月8日には次のように幾代で起きた珍事が記されている。

「五月八日 細雨烟の如く新緑一段に濃なり、桐花開く、躑躅[つつじ]花また満開なり、夕餉の後三番町に徃く、お歌のはなしに昨夜来りし嫖客の中に小学校の教師と小石川原町辺なる某寺の住職と請負師との三人連あり、呑食ひして藝者を買ひ、今朝に至りて三人とも懐中無一物なれば、已むことを得ず教師と坊主二人を人質に引留め置き請負師一人を帰して金の才覚をなさしめたりと云ふ、恰天明時代の洒落本を読むが如きはなしなり、貧幸先生多佳余宇辞とか題せし洒落本に貧しき儒生と気負肌の男二人高輪の女郎屋に上りて翌朝銭なく雪降り出でたるにこまり果て店の男に傘を借りて帰る光景を描きしものあり、久しき以前一読したるものなれば大方忘れ居たりしに、お歌のはなしによりて偶然思浮べたるも亦可笑し、雨漸く烈しくなりしが幸に風なき故車を倩[請]ひて夜半家に帰る、」

この日、細雨が煙のようで新緑が一段と濃くなり、桐花が開き、ツツジの花も満開である。夕食の後三番町に行くと、お歌が話すことには、昨夜来た遊客の中に小学校の教師と小石川原町辺の某寺の住職と請負師との三人連れがあった。呑み食いして芸者を買い、今朝になって三人とも無一文であったことから、やむを得ず教師と坊主二人を人質に引き留めて置き請負師一人を帰して金の才覚をさせたと云う。あたかも天明時代の洒落本を読むような話しである。貧幸先生多佳余宇辞とか題する洒落本に貧しき儒生と気負肌の男二人が高輪の女郎屋に上りて翌朝銭なく雪が降り出したのに困り果てて店の男に傘を借りて帰る光景を描いたものがある。ずいぶん前に一読したものなので大方忘れていたが、お歌のはなしにより偶然思い浮かべたのもまた可笑しいことであった。雨が次第に激しくなったが、幸いに風がないので自働車を頼んで夜半に家に帰った。

さらに、次の年(1929)のことであるが、次の記述がある。

「三月廿七日 細雨糠の如し、雨中の梅花更に佳なり、大窪詩仏の年譜を編む、晡時中洲に徃く、帰途人形町にて偶然お歌に会ふ、市川団次郎待合の勘定百円ばかり支払はざるにより、督促のため辯護士を伴ひ明治座楽屋に赴きし帰りなりと云ふ、銀座通藻波に飰す、春雨夜に入りて猶歇まず、風また加はる、お歌自働車を倩[請]うて帰る、・・・」

この日、夕方中洲の病院に行き、その帰りに人形町で偶然お歌に会った。市川団次郎が待合の勘定百円ばかりを支払わないので、督促のため弁護士と一緒に明治座の楽屋に行った帰りと云うことであった。

幾代茶の間のお歌 お歌は、幾代茶の間で撮った左の写真のように、おとなしそうな感じで、また、荷風の見立てもそうであったが(以前の記事)、上述のように、三人連れの客が文無しであることがわかると、二人を人質にし一人を金策にだし、また、支払いが滞ると弁護士とともに督促に出かけている。こうした営業ぶりから、秋庭は、お歌はしっかり者だったと評しているが、荷風もちょっと意外な感じで同じ感想を抱いたかもしれない。

この年(1928)の年末に次の記述がある。

「十二月廿五日 ・・・、夕餉の後寒月を踏んで三番町に行く、今年は世間一帯不景気にて山の手の色町十年以来曾てなき程のさびしさなりと云ふ、冨士見町組合の待合茶屋売りものとなれりもの七八軒あり、戸をしめて貸家札を張れるもの二軒ほどありと云ふ、お歌の家は幸いにして毎夜嫖客二三人あり辛じてお茶ひかずどうやらかうやら年が越せさうに思はるゝ由なり、三更前車にて家に帰る、」

この日、夕食後寒月を踏んで三番町に行くと、今年は世間一帯が不景気でこの山の手の色町もこの十年でかつてない程のさびしさであるという。冨士見町組合の待合茶屋で売りに出ているものが七八軒、戸をしめて貸家札を張っているものが二軒ほどあるという。お歌の家は幸いにして毎夜客二三人ありかろうじてひまにならずどうやらこうやら年が越せそうであるとのことである。三更前車にて家に帰った。

前年(1927)三月に金融恐慌が勃発し、昭和三年(1928)は不景気が続いていたが、お歌の「幾代」はなんとか年を越せそうであった。
(続く)

参考文献
「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「考証 永井荷風(下)」(岩波現代文庫)
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)

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荷風とお歌(2)

2014年12月09日 | 荷風

前回の記事に続く。お歌は、昭和三年(1928)三月に西久保八幡町から三番町へ移っている。荷風が歌の待合営業の希望を叶えさせたのである。待合とは、待ち合わせや会合のための場所を提供する貸席業のことで、芸妓との遊興や飲食を目的として利用された。現在はない。

昭和3年(1928)3月17日の「断腸亭日乗」に次の記述がある。

「三月十七日 三番町待合蔦の家の亭主妹尾某なるもの衆議院議員選挙候補に立ち、そのため借金多くなり待合蔦の家を売物に出す、お歌以前より蔦の家の事を知りゐたりしかばその後を買受け待合営業したしと言ふ、四五日前よりその相談のためお歌両三度三番町見番事務所へ徃き今日正午までに是非の返事をなす手筈なり、それ故余が方にては東京海上保険会社の株券を売り現金の支払何時にてもでき得るやうに用意したりしが先方売払の相談まとまらず一時遂に見合せとなる、お歌落胆すること甚し、・・・」

三番町の待合蔦の家の亭主妹尾某が衆議院議員選挙に立候補し、そのため借金が増え、待合蔦の家を売物に出したが、お歌は、以前より蔦の家の事を知っていたので、その後を買い受けて待合営業をしたいと言う。四五日前よりその相談のためお歌は両三度三番町の見番事務所へ行き今日正午までに是非の返事をなす手筈になっていた。そのため、私の方では東京海上保険会社の株券を売り現金の支払を何時でもできるように用意をしていたが、先方で売払の相談がまとまらず一時ついに見合せとなって、お歌はすっかり落胆してしまった。

しかし、四五日のうちに事態が好転したようで、次のように3月22日にその待合の譲り受けが決まった。権利金三千五百円、家賃七十五円であった(秋庭太郎)。

「三月廿二日 ・・・、夜お歌訪来りて冨士見町待合譲受の相談まとまりある由語る、」

3月24日~26日は次のとおりで、お歌は早速、25日に三番町へ引っ越しをしている。

「三月廿四日 ・・・、明日お歌壺中庵を引払ひ三番町待合蔦の家跡へ移転する筈なり、壺中庵にて打語らふも今宵が名残なれば夕餉して後徃きて訪ふ、去年十月の末こゝに住まはせてより早くも半歳は過ぎぬ、夜半家に帰る、」

「三月廿五日 快晴、東南の風吹きすさみて烟塵濛々[えんじんもうもう]たり、午後笄阜子来訪、余が旧著下谷叢話を贈る、晡時風稍[やや]しづかになりしかば銀座太牙楼に赴き葵山子に会ふ、晩餐をなし初更別れて三番町に赴く、お歌既に西ノ久保の家より引移りて在り、蔦の家といふ屋号を改め幾代となす、これは余が旧作の小説夏姿といふものの中に見えた[えたる]名なればなり、手拭屋の手代来たりて弘めの手拭の下図を示す、されど山の手の亡八家業は余の如き褊狭なる趣味を以てなすべき事にあらざれば万事世俗一般の好みに倣ふこととす、十一時過自働車を呼びて家に帰る、」

この日、荷風は、夕方風が静かになったので、銀座太牙楼に行き、葵山子に会い、晩餐をし、初更(午後7時~9時)に別れて三番町に赴くと、お歌は既に西ノ久保の家より引っ越しをしていた。蔦の家という屋号を改めて「幾代」としたが、これは、(荷風の)旧作「夏姿」に見られる名である。手拭屋の手代が来てお披露目の手拭の下図を示したが、山の手の亡八家業は自分のような偏狭な趣味を以てやることではないので、万事世俗一般の好みに倣うことにした。十一時過に自働車を呼びて家に帰った。

「三月廿六日 朝来風雨、午後に至りて霽る[はれる]、彼岸前より雨なく庭の草木塵にまみれ居たりしが驟雨[しゅうう(にわか雨)]のため生色忽勃然として花香更に馥郁[ふくいく]たるを覚ゆ、雨後の夕陽明媚なり、暮夜三番町に赴き夕餉をなし二更の頃家に帰る、細雨糠の如し、」

引っ越しの次の日、暮れてから三番町に赴き夕食をし、二更(午後9時~11時)の頃家に帰ったが、霧雨がこぬかのようだった。

3月28日に、次のように、警察に営業引継ぎ届けを出している。

「三月廿八日 ・・・、昼飯すませて後お歌と共に麹町まで歩む、営業引継ぎの願書を麹町警察署に出すといふ、三丁目角にて別れ家に帰る、・・・」

麹町警察署は、現在と同じ、新宿通りの始点(半蔵門)近くで、二人は、三番町から御厩谷坂を上下し、袖摺坂、永井坂を上下して歩んだのだろうと想像したい(現代地図)。

「四月初一 旧閏三月十一日 曇りて風甚寒し、午後笄阜子来訪、晡下お歌来る、相携へて銀座に出で藻波に登りて晩餐をなし、十一屋その他にて待合客用の杯盤雑具を購ひ、江島印房にて仕切判を注文し三番町に赴きて宿す、」

荷風は、この日、歌とともに銀座に出かけ、十一屋その他で待合客用のさかずきやさらなどの雑具を購入し、江島印房で仕切判を注文した。

「四月初四 ・・・、晩間お歌訪ひ来りて是日午後待合喜久川の亭主を伴ひ自働車にて中野高円寺に住める家主をたづね三番町家屋貸借の契約をなせし由語る、また弘め手拭染上りたりとて持参す、麻の葉つなぎの中にいく代といふ家名を白く抜きたるなり、但し余が意匠せしにはあらず、手拭屋にてなせしものなり、三更の頃お歌帰る、送りて門外に出づるに幾望の月皎々とと照りわたりふきすさむ風の冷なることさながら寒月の夜の如し、枕上に松の葉をよむ、過日琴曲家中能島氏よりたのまれたる歌詞をつくらむがためなり、」

この日、お歌は、中野高円寺に住んでいる家主を訪ね家屋の貸借契約をしたと語り、また、染め上がった弘め手拭を持参した。麻の葉つなぎの中に「いく代」という家名を白く抜いたものであるが、荷風のデザインではなく、手拭屋によるものであった。

以上のように、待合営業開始に向けて準備が着々と進んでいる。

「四月十一日 ・・・、薄暮お歌来りて三番町待合開業の許可状明日あたり所轄の警察署より下げ渡さるべしと言ふ、夕餉すまして後銀座に出で物買ひて帰る、お歌わが家より更に自働車を命じて三番町に帰れり、風甚冷なり、枕上鷗外全集翻訳の小説を読む、」

この日、お歌から待合開業の許可状が明日あたりに出ると聞かされた。

秋庭太郎は、歌女のもとにはいまなお、三月二十八日付麹町警察署の関根歌名義の待合茶屋営業許可書が残っている、と記している。

「四月十二日 空よく晴れ渡りしが微風冷にして花盛の頃とも思はれず、衰老のわが身ばかりかくやと思ひしに、若き人も今日は風さむしといへり、終日何事をもなさず、読書をする気力もなし、唯寐つ起きつくして日をくらし三番町に徃くべき時の来るを待つのみ、さて三番町に徃きても別に面白きこともなく心浮立たず、火燵[こたつ]によこたわりて煙草くゆらしお歌の針仕事するを打見やりつゝやがて家に帰るべき時の来るを待つのみなり、世の諺に死ぬ苦しみと云ふことあれど薬飲み飲み命をつなぎて徒に日を送るも亦たやすき業ならず、此夜高輪楽天居に句会ありと聞きしが赴かず、」

このころ、荷風は、あまり体の調子がよくなかったようで、一日中何もせず、読書をする気力もない。ただ寝て起きて日をくらし三番町へ行く時を待つだけで、三番町に行っても別に面白いこともなくこたつに横になって煙草をくゆらし針仕事をするお歌を見ながら家に帰る時を待つのみである、などと記している。

幾代茶の間のお歌 「四月十三日 ・・・、晩間三番町に行く、昨夜深更に及び嫖客[ひょうかく]登楼するもの三人ありしと、此の夜も夕方より客来りしとてお歌よろこび語る、林檎を食して三更後家に帰る、」

前日から予定通り営業を始めたようで、初日に深夜になってから客が三人来て、この夜も客が来たとお歌はよろこんで話した。

このように、お歌の希望であった幾代の待合営業が始まった。
(続く)

参考文献
「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「考証 永井荷風(下)」(岩波現代文庫)

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荷風とお歌(1)

2014年12月05日 | 荷風

永井荷風は、西久保八幡町の壺屋裏の壺中庵と名付けた陋屋に関根歌を囲った。前回の記事のように昭和2年(1927)10月のことである。

荷風は、新年(昭和3年(1928))を迎えると、早速お歌を伴って雑司ヶ谷霊園に父の墓参りに出かけている。

『正月二日 晏起既に午に近し、先考の忌日なれば拝墓に徃かむとするに、晴れたる空薄く曇りて小雨降り来りしかば、いかゞせむと幾度か窓より空打仰ぐほどに、雲脚とぎれて日の光照りわたりぬ、まづ壺中庵に立寄り、お歌を伴ひ自働車を倩ひて雑司ヶ谷墓地に徃き、先考の墓を拝して後柳北先生の墓前にも香華を手向け、歩みて音羽に出で関口の公園に入る、園内寂然として遊歩の人なく唯水声の鞺鞳たるを聞くのみ、堰口の橋を渡り水流に沿ひて駒留橋に到る、杖を留めて前方の岨崖を望めば老松古竹宛然一幅の画図をなす、此の地の風景昭和三年に在って猶斯くの如し、徃昔の好景盖し察するに余りあり、早稲田電車終点より車に乗り飯田橋に抵り、歩みて神楽坂を登る、日既に暮れ商舗の燈火燦然として松飾の間より輝き出るや、春着の妓女三々伍ゝ相携へて来徃するを見る、街頭の夜色遽に新年の景況を添へたるが如き思あり、田原屋に入りて晩餐をなし、初更壺中庵に帰りて宿す、』

正月二日は父禾原の祥月命日である。前年までは一人だけの墓参りであったが(以前の記事その1その2)、今年は絶好の連れができたのに、どうも空模様がよくない。晴れた空が薄曇り小雨が降ってきたが、どうしたものかと窓から何度も空を見上げていると、ようやく雲が切れて日が差してきた。そんなやきもきした感じが伝わってくる。墓参の後、関口の公園(いまの江戸川公園)に入り、駒留橋に至ったが、前方の崖を眺めると、老松古竹が一幅の絵のようである。この地の風景は、この昭和三年でもこのような有様であるので、むかしはさぞかし絶景であったと想像するに難くない。飯田橋に行き、神楽坂を上り、田原屋で夕食にしたが、以前からのお決まりのコースである。

翌月の5日には次の記述がある。

『二月五日 雪もよひの空なり、日高氏の書を得たれば直に返書をしたゝめて送る、薄暮お歌夕餉の惣菜を携へ来ること毎夜の如し、此の女藝者せしものには似ず正直にて深切なり、去年の秋より余つらつらその性行を視るに心より満足して余に事へむとするものゝ如し、女といふものは実に不思議なものなり、お歌年はまだ二十を二ッ三ツ越したる若き身にてありながら、年五十になりてしかも平生病み勝ちなる余をたよりになし、更に悲しむ様子もなくいつも機嫌よく笑うて日を送れり、むかしは斯くの如き妾気質の女も珍しき事にてはあらざりしならむ、されど近世に至り反抗思想の普及してより、東京と称する民権主義の都会に、かくの如きむかし風なる女の猶残存せるは実に意想外の事なり、絶えて無くして僅に有るものと謂ふべし、余曾て遊びざかりの頃、若き女の年寄りたる旦那一人を後生大事に浮 気一つせずおとなしく暮しゐるを見る時は、是利欲のために二度とはなき青春の月日を無駄にして惜しむ事を知らざる馬鹿な女なりと、甚しく之を卑しみたり、然れども今日にいたりてよくよく思へば一概にさうとも言ひ難き所あるが如し、かゝる女は生来気心弱く意地張り少く、人中に出でゝさまざまなる辛き目を見むよりは生涯日かげの身にてよければ情深き人をたよりて唯安らかに穏なる日を送らむことを望むなり、生まれながらにして進取の精神なく奮闘の意気なく自然に忍辱の悟りを開きゐたるなり、是文化の爛熟せる国ならでは見られぬものなり、されば西洋にても紐育市俄古あたりには斯くの如き女は絶えて少く、巴里に在りては屢[しばしば]之を見るべし、余既に老境に及び藝術上の野心も全く消え失せし折柄、且はまたわが国現代の婦人の文学政治などに熱中して身をあやまる者多きを見、心ひそかに慨嘆する折柄、こゝに偶然かくの如き可憐なる女に行会ひしは誠に老後の幸福といふべし、人生の行路につかれ果てたる夕ふと巡礼の女の歌うたふ声に無限の安慰と哀愁とを覚えたるが如き心地にもたとふべし、』

お歌は毎晩のように夕食の惣菜を持ってやってくるが、この女は芸者をしていたものに似合わず正直で親切である。昨秋よりずっとその質や行いをみてきたが心より満足して自分に接しているようにみえる。女というものは実に不思議なもので、お歌は年まだ22~23ほどの若い身なのに、年50にもなりしかも病気がちの自分をたよりにし、悲しむ様子もなくいつも機嫌よく笑って毎日を送っている。むかしはこのような妾気質の女も珍しくはなかったが、最近になって反抗思想が普及してからは、東京という民権主義の都会に、このようなむかし風なる女がなお残っているのはじつに思いがけのないことで、絶えて無くなったがわずかにあるというべきである。自分はかつて遊び盛りの頃、若い女が年寄りの旦那一人を後生大事に浮気一つせずにおとなしく暮しているのを見る時、これは利欲のために二度とはない青春の月日を無駄にして惜しいと思う事を知らない馬鹿な女であると、はなはだこれを卑しんだ。しかし今日にいたってよくよく思えば一概にそうとも言えない難しいところがある。このような女は生来気心が弱く意地張りが少く、人中に出てさまざまな辛い目を見るよりは生涯日かげの身にてよければ情深き人をたよってただ安らかに穏なる日を送ることを望むのである。生まれながらにして進取の精神がなく、奮闘の意気がなく、自然に忍辱の悟りを開いている。これは文化の爛熟した国では見られないことである。されば西洋でもニューヨーク、シカゴあたりにはこのような女は絶えて少く、パリにあってはしばしば見ることができるだろう。自分はすでに老境に達し、芸術上の野心もまったく消え失せているとき、かつまた、わが国現代の婦人の文学政治などに熱中して身をあやまる者が多いのを見て心ひそかに慨嘆するとき、ここに偶然このような可憐な女に巡り会ったことは、本当に老後の幸福というべきである。人生の行路につかれ果てた夕べに、ふと巡礼の女が歌をうたう声に無限の慰安と哀愁とを覚えるような心地にたとえることができる。

荷風は、旧来の日本女性の特質につき若い頃はこれを貶めるような考えを持っていたが、いまやそうむやみに否定などすることができず、むしろ好ましい特質としている。お歌をそんな旧来の女性と捉え、最大級の賛辞を呈している。前年9月17日の日乗(前回の記事)にも似た記述があるが、それよりも徹底している。

こういったことになると、荷風は、妙に決めつけ断定するようなところがあるが、お歌のことでは、気に入ったとか、惚れたとか、そういった単純だが基本的な感情に基づいているのである。そして、これは、江戸懐古といった旧いものに愛着を感じる荷風独特の感性に由来することも忘れてはならない。総じれば、お歌が旧来の女性の特質を持っていることの嬉しさからやってくるというべきか。

いずれにしても、この末文の「人生の行路につかれ果てたる夕ふと巡礼の女の歌うたふ声に無限の安慰と哀愁とを覚えたるが如き心地にもたとふべし」という喩えが当時の荷風の心情をもっともよくあらわしている。
(続く)

参考文献
「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「考証 永井荷風(下)」(岩波現代文庫)

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軽井沢と荷風(10)

2014年09月21日 | 荷風

前回の記事に続き、軽井沢再訪三日目の昭和2年(1927)8月26日の日乗の原文とその私訳は次のとおり。

『八月廿六日 午前正宗白鳥ホテルに来り久米氏を訪ふ、余旅中其情郎を喪ひたる梢子の心中を推察し久米氏と共に勧誘して強ひて街を散歩す、一同土宜を購ふ、梢子は勝気の女と見え今朝は悲しみを面に現はさず、款語平生の如し、昼餉の卓を倶にす、午下二時の列車にて久米氏梢を扶けて帰京す、是日晴れて暑し、』

「8月26日 午前正宗白鳥がホテルに久米氏を訪ねてきた。私は旅行中その情郎を喪った梢さんの心中を察し久米氏と共に誘ってむりやりに街を散歩した。みな土産を買い求めた。梢さんは勝気な女のようで、今朝は悲しみを表情にあらわさず、打ち解けて話しふだんのようである。昼食を一緒にした。午後二時の列車で久米氏は梢を助けて帰京した。この日は晴れて暑かった。」

北沢氏急逝の次の日、残された梢を久米正雄と一緒に慰めたが、本人は外見はいつのとおりで、午後に久米氏と帰京した。

続いて、8月27日、28日の日乗は次のとおり(原文)。

『八月廿七日 午後むし暑し、此地にて今日の如き溽暑[じょくしょ]は稀に見る所なりといふ、樹下に森先生の蘭軒伝を読む、巻中木曾道中の記事あるを以てなり、』(溽暑:むし暑いこと)

『八月廿八日 正午軽井沢を発し薄暮帰京、是日残暑焼くが如し、』

27日には読書をしてゆっくりしたようであるが、28日に帰京してしまった。最後の二日間は日乗の記載量がぐっと減っている。特に帰京の日は一行で済ませ、前回と違ってきわめて短い。東京の日常と同じになってしまい、記述すべき事柄もなかったのかもしれないが、それよりも気力が低下したのであろう。詩心の喪失である。知人の突然死で衝撃を受け、その後始末にも係わって疲れ、友人の左団次(松莚)が不在で、おまけに避暑に来たのに連日残暑が厳しく、軽井沢に滞在する理由も必要もなくなった。結果的に、荷風にとって軽井沢再訪は、疲れることだらけで、こんなことなら来るんじゃなかった。

ところで、荷風は、日記「断腸亭日乗」を大正6年(1917)9月16日から書き始めているが、以降、昭和20年(1945)3月10日の偏奇館終焉までに東京を離れたのは、今回記事にした昭和2年(1927)8月の軽井沢行きと、大正11年(1922)9月、大正12年3月の京都行きの三回だけと思われる。荷風は旅行嫌いだった。

大正11年(1922)9月27日の日乗は次のとおり。

「九月廿七日 夜九時半の汽車にて松莚子の一行と共に京都に行く。」

左団次一行と京都に行くが、左団次所演の知恩院における野外劇を七草会の他のメンバーとともに声援するためであった。演目は「織田信長」で、配役は、信長が市川左団次、木下藤吉郎が市川寿美蔵、明智光秀が阪東寿三郎、足利輝姫が市川松蔦であった。観客が十万人も集まり、大変な人気だったという。

おもしろいことに、荷風は、10月5日朝東京に戻っているが、その4日後の10月9日の夜ふたたび京都に向かっている。後の軽井沢のときと行動パターンが似ている。

近藤富枝「荷風と左団次」カバーシート 軽井沢行きは、左団次との約束で、一回目の十日間の滞在のとき七回も左団次と散歩などで会っているが、上記の京都行きも左団次絡みである。旅行嫌いでも左団次のこととなると別人のようになる。

荷風と左団次はかなり親密な友人同士であった。左のように、近藤富枝著「荷風と左団次」のサブタイトルが「交情蜜のごとし」となっているが、まさにそのようなものであったのであろう。

軽井沢から帰京した後、荷風は、関根歌にのめり込んでいく(以前の記事)。

参考文献
「新版断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「考証 永井荷風(上)(下)」(岩波現代文庫)
近藤富枝「荷風と左団次」(河出書房新社)
川本三郎「荷風と東京」(都市出版)

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軽井沢と荷風(9)

2014年09月20日 | 荷風

前回の記事に続き、次の日、昭和2年(1927)8月25日の日乗の原文とその私訳は次のとおり。

『八日廿五日 蚤起[そうき]、鶴屋に松莚子を訪ふ、今暁浅利丸岡の二生を伴ひ自働車にて晃山に去りしといふ、咲松桔梗の二門弟東京に返送すべき荷づくりをなしゐたり、ホテルに帰り来るに北沢氏今暁急病遽[にわか]に発し、土着の医師を招ぎ注射をなし一時静穏なりしが、今また医師来りて再診中なりとの事に、驚きて其室に抵り見るに、面色既に土の如く猶温味はありしかど呼吸は絶えゐたり、聖路加病院の池田国手も来りしかど既に施すべき術なしといふ、妓こずゑ殆為すべき所を知らず、余百方之を慰撫し先電報を諸方に発す、晩間に至り北沢家の人人次第に集り来り、深夜亡骸を自働車にて運び去れり、この際北沢氏の細君と愛妓との応接稍[やや]もすれば円滑ならず、居合すもの心を労すること尠[すくな]からず、久米正雄氏日活会社々員某々氏等深更ホテルに到着す、一同遺骸を見送らむとて庭に出るに、細雨霏々[ひひ]四顧暗澹として満目の光景太だ愴然[そうぜん]たり、久米氏食堂にて梢と共に語りあかさむと言はれしが余既に疲労に堪えず、先に辞して寝につけり、』

「8月25日 朝早く起き、鶴屋に左団次を訪ねたが、今日の明け方浅利、丸岡の二君を連れて自動車で日光に行ってしまったとのことである。咲松、桔梗の二門弟が東京に返送する荷づくりをしていた。ホテルに帰って来ると、北沢氏が今日の明け方にわかに急病を発し、土地の医師を招き注射をし一時静穏となったが、今また医師が来て再診中であるとの事に驚き、その室に行って見ると、顔色が既に土のようでなお温味はあるが呼吸は絶えており、聖路加病院の池田医師も来ているが既に施すべき術がないという。妓こずゑはほとんどどうして好いかわからない。私はあらゆる面からこれを慰めたが、先んじて電報をあちこちに発した。夜になると、北沢家の人々が次第に集まって、深夜に遺体を自動車で運び去った。このとき、北沢氏の細君と愛妓との応接がややもすると円滑でなく、居合す者に心労をかけたことが少なくなかった。久米正雄氏、日活会社々員某々氏等が夜遅くホテルに到着し、一同が遺骸を見送ろうと庭に出ると、霧雨がしきりに降っていて四方が暗く静かで見渡す限りの光景がただうす暗い。久米氏が食堂にて梢と共に語りあかそうと言われたが、私は既に疲労に耐えられず、先に辞して寝についた。」

軽井沢再訪の次の日、荷風は、早速、左団次を鶴屋に訪ねたが、その明け方に自動車で日光に去った後であった。むなしくホテルに帰ると、北沢氏が急病を発していた。北沢は、荷風と相識の日活会社の重役で、前回散歩のとき偶然に会い(以前の記事)、今回も上野で偶然会った(前回の記事)が、急死してしまった。愛人(梢)を連れての避暑であったが、荷風は、この梢を慰めたり、あちこちへ電報を発したりで、忙しかった。本妻も駆けつけ、梢と対面し、周りがはらはらどきどきしたようである。かなり疲れ、久米氏に誘われたが、部屋に帰って、寝についた。荷風としても、偶然とはいえ一緒に避暑に来た知人の突然の死はショックであったろう。
(続く)

参考文献
「新版断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「考証 永井荷風(下)」(岩波現代文庫)

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軽井沢と荷風(8)

2014年09月19日 | 荷風

前回の記事に続く。昭和2年(1927)8月24日の日乗の原文とその私訳は次のとおり。

『八月廿四日 残暑忍ぶべからず、山中の清凉を思ふこと恰も蕩子[とうし]の前夜別れたる情婦を思慕するものに似たり、再びスートケースを提げて倉皇として上野停車場に赴くに、図らずも日活会社の北沢氏愛妓を伴ひて来るに会ふ、同じく苦熱に堪えずして北行すべしと云ふ、倶に失笑して列車に乗る、高崎駅を過る頃炎熱㝡[さい]甚しかりしが、倉賀野を過ぎ松井田駅に抵り近く妙義山を仰ぐや、流汗忽去り嵐気人をして蘇生の思をなさしむ、余数年前までは痩せ細りし身の、さして苦熱に呻吟[しんぎん]することなかりしが、今年に至り遂に世間一般の人の如く避暑をなすに到りぬ、是亦衰老の為す所なるべし、或は震災後市中の熱鬧[ねつどう]従前の東京よりも甚しくなれるか為か、是日空澄み渡りて山影の鮮なること三日前帰途につきし日にもまさりたり、当時徃復の途上雲にかくれて見えざりし赤城榛名の諸山も今日はよく望まれたり、鉄道沿線の壠圃[ろうほ]には粟[あわ]熟し稲には花さき赤蜻蛉むらがりて飛べり、秋色変転の速なること驚くべし、一同相携へて軽井沢ホテルに入るに庭上虫声喞々[しょくしょく]たり、離山の彼方に棚曳く夕照の雲東京にて見るものとは其色全く異りたり、食後軽井沢集会堂に赴きて活動写真を看る、』

「8月24日 残暑を忍ぶことができず、山中のさわやかな涼しさを思うことは、あたかも放蕩者が前夜別れたる情婦を恋しく思うことに似ている。再びスーツケースを持って急ぎあわてて上野停車場に行くと、図らずも日活会社の北沢氏が愛妓を連れて来たのに会った。同様に暑気の苦しさに耐えられないから北行すべきと云い、ともに失笑しながら列車に乗った。高崎駅を過ぎる頃暑気がもっとも厳しかったが、倉賀野駅を過ぎ松井田駅に至り、近くに妙義山を仰ぐと、流れた汗がたちまち引き、冷たい空気が人を生き返らせる思いにした。私は、数年前までは痩せ細った身で、さして暑さに苦しみうめくことなどなかったが、今年に至り、ついに世間一般の人のように避暑をするに到った。これはまた老いて体力が衰えたためであろう。あるいは、震災後、市中のにぎやかさが従前の東京よりもひどくなったためか。この日、空が澄み渡って山影が鮮やかなことは、三日前帰途についた日よりもまさっている。その時、往復の途上で、雲にかくれて見えなかった赤城山、榛名山も今日はよく望むことができる。鉄道沿線の畑には粟が熟し稲には花がさき、赤とんぼがむらがって飛んでいる。秋の景色の変化の早いことには驚くばかりである。一同一緒に軽井沢ホテルに入ると、庭さきで虫がしきりに鳴いている。離山の向こうに長くかかった夕焼けの雲は、東京で見るものとその色がまったく異なる。食後、軽井沢集会堂に行って活動写真を見た。」

荷風は、この日、残暑に耐えられず、山中のさわやかな涼しさを思い出し、急いで上野駅に行き軽井沢にふたたび向かった。東京の暑さに我慢しきれなくなったようである。数年前までは痩せ細った身で暑気に苦しむことはなかったが、今年になって避暑をするのは老いたためなどと記述しているが、今回の行動の照れ隠しのように思えてくる。

今回は、妙義山ばかりでなく、前回雲で見えなかった赤城山、榛名山もよく見え、沿線の畑の熟した粟、花のさいた稲、むらがって飛ぶ赤とんぼを見て、秋の景色の変化の早さに驚いている。前回(以前の記事)ほどの記述量はないが、車窓からの景色を楽んでいる。

ホテルの庭さきで虫がしきりに鳴き、離山の向こうに夕焼けの雲が長くのび、その色は東京で見るのとまったく異なると記しているが、やはり思い切ってもう一度来てよかったという感じが伝わってくる。ところが、次の日、大きな事件が起きる。
(続く)

参考文献
「新版断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「考証 永井荷風(下)」(岩波現代文庫)

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軽井沢と荷風(7)

2014年09月18日 | 荷風

前回の記事のように、荷風は、昭和2年(1927)8月20日軽井沢から東京に帰ってきた。その後の21日~23日の日乗(原文)は次のようになっている。

『八月二十一日 朝八時起出でゝ窓外の樹木を見るに塵をあびたる葉の色の汚きこと目立ちて見ゆ、午前の中は風ありしかば思ひしよりは暑からず、薄暮風月堂に赴きて食事し、太牙に憇ふ、日高氏来る、』

『八月二十二日 快晴、秋風颯々[さっさつ]として庭樹をさはがす、鷗外全集の第五巻出でたり、数年振りにて始めて配本せしなり、編纂者の怠慢驚く可きなり、巻中収載の小説青年を読む、浴後銀座に出で風月堂に食し、太牙に憇ふ、夜風絶えて暑し、』

『八月二十三日 邦枝氏別所温泉より書を寄す、一茶の墓に詣うでしとて露草の露はらはらとこぼれけりといふ句をしるしたり、晩間湘南舎に飲む、』

帰京した次の朝、窓の外の樹木を見ると、塵(ちり)をあびた葉の色が汚いことが目立って見えるなどと昨日まで過ごした所と比べるような記述がみえる。風月堂や太牙(タイガー)に行ったり、読書をしたり、日高と会ったりと日常にもどったかのようにみえるが、荷風は、次の日、思い切った行動に出る。
(続く)

参考文献
「新版断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「考証 永井荷風(下)」(岩波現代文庫)

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軽井沢と荷風(6)

2014年09月17日 | 荷風

前回の記事に続く。軽井沢九日目の昭和2年(1927)8月19日の日乗は次のように短い。

「8月19日 快晴で、薄暑で昨日のようである。始めて浅間山を望むことができた。午後ホテルの庭に出て樹の下の椅子に座って物を書こうと試みたが眠気を催すばかりで書くことができない。たださわやかな風が快く感じるだけである。今日まで毎日筆を取ろうと思っても取ることができなかった。山間の空気に馴れないためである。」

この日も快晴、薄暑で、ようやく浅間山を望むことができた。しかし、軽井沢に滞在して9日にもなるのにとうとう筆を取る気になれなかった。

次の日、十日目(8月20日)は次のとおり(原文)。

『八月二十日 空晴れ空気は澄み渡りて四方の翠巒[すいらん]昨日にもまさりて更に鮮明となりぬ、空の色日の光東京にて見る十月の如し、旅館の後庭に出づるに今朝は浅間山の烟も見えたり、昼餉の頃松莚子門弟と共に来りて余の帰京を送らる、余是夕五時の汽車にて帰京する筈なればなり、邦枝氏別所温泉より電話にて安否を問はる、晡時茶を喫して将にホテルを出発せむとする時、北沢氏新橋の阿嬌こずゑを携へて来る、笑語すること少時にして車来りしかば東京の再会を約して停車場に赴く、熊の平横川の二駅を過る時空晴れて夕陽明かなりしかば、妙義の全景を心のゆくまゝに望み得たり、磯部駅にて日全く暮れたり、車中にて呉文炳氏に逢ふ、統計学の泰斗呉文聡先生の男なり、呉氏其同行の人板橋氏を紹介せらる、能く談じ能く笑ふ人なり、夜十時二十分上野に着す、』

私訳は次のとおり。

「8月20日 空は晴れ空気は澄みわたってまわりのみどり色の山々は昨日よりもさらに鮮明となった。空の色、日の光は東京の十月に見るようなものである。旅館の後庭に出ると今朝は浅間山のけむりも見えた。昼食の頃左団次が門弟とともに来て私の帰京を送ってくれる。私はこの夕方5時の汽車で帰京する予定であるからである。邦枝氏が別所温泉から電話で安否を問うてきた。夕方茶を飲んでちょうどホテルを出発しようとした時、北沢氏が新橋の美人こずゑを連れてやって来た。笑いながら話すとまもなく車が来たので東京での再会を約束して停車場に行った。熊の平、横川の二駅を過ぎる時、空が晴れて夕陽が明るいので、妙義山の全景を心のゆくままに望むことができた。磯部駅で日はまったく暮れた。車中で呉文炳氏に会ったが、統計学の大家である呉文聡先生の息子である。呉氏から同行の板橋氏を紹介されたが、よくしゃべりよく笑う人である。夜10時20分上野に着いた。」

この日、荷風は、軽井沢から帰京した。前々からの予定であったのか不明であるが、日乗には記述されていないので、唐突な感じがする。だが、上記のように、前日、今日まで毎日筆を取ろうと思っても取ることができなかったがこれは山間の空気に馴れないため、と記述しているが、これには、明日帰るのに、といった後悔の念が幾分か含まれていたのかもしれない。

その車中では、熊の平、横川の二駅を過ぎるとき妙義山の全景を充分に望むことができたと車窓からの風景を記している。

ここまで十日間の軽井沢滞在の日乗を原文または私訳で引用したが、やはり記述量は、東京にいるときよりもかなり増えている。非日常性の中にいたせいかもしれないが、これから荷風はかなり花鳥風月に関心を持っていたことがわかる。そのため知識も豊富である。現代人よりもずっと自然志向が強いと感じるが、荷風にとってそれは特別なことではなく、自然なことであった。
(続く)

参考文献
「新版断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「考証 永井荷風(下)」(岩波現代文庫)

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軽井沢と荷風(5)

2014年09月15日 | 荷風

前回の記事に続く。軽井沢八日目の昭和2年(1927)8月18日の日乗はまたちょっと長めである。以下、原文。

『八月十八日 蚤起[そうき]、食前日高氏に托すべき全集本の序言を草す、午前日高氏萬平旅館より来る、昼餉を倶にす、食後自働車を買ひ臼井[碓井]峠に登る、町のはづれに渓流あり、橋畔一老樹のもとに古碑あり、馬をさへながむる雪のあしたかな芭蕉翁なる文字を見る、橋を渡れば一路羊膓[ようちょう]として林間を攀づ、尾崎愕[咢]堂が荘園の門前を過ぐ、荘園の広さ六千坪なりと自働車運転手の語る所なり、山径を登り行くに休茶屋あり、見晴亭といふ、猶登り行くこと二十分はがりにして峠のいたゞきに達す、左の方に熊野権現の古祠あり、華表殿堂古色蒼然[そうぜん]たり、皇族下馬の高札を立てたり、礼拝して後尸祝[ししゅく]に請うて厄除の護符を購ふ、祠前細径を隔てゝ平坦の地あり、見晴の台と称す、洋人二三名樹下に茶を煮て食事をなせり、台の上に立ちて眺望するに峰巒重々として眼下に起伏し、鶯の声遠近に反響す、前方に一帯の連山あり見晴の台と相対す、連山の後方に当り嶄然[ざんぜん]たる奇峯其状犬牙の如きもの雲間に出没す、其形よりして妙義山なるを知る、見晴の台を下り来路に出づれば右方に木柱を立てたる門の如きものあり、門を入りて登ること数十歩、再び平坦の地あり、眺望の広豁[こうかつ]見晴の台に優る、公園地の札を立てたり、空気清澄にして耳底自ら物の鳴りひゞくが如き心地す、日高氏を顧みて問ふに又然りと荅ふ、自働車にて来路を下りて万平旅館に帰る、道程僅かに二三十分に過ぎず、是夕日高氏五時の汽車にて帰京す、国木田夫人小糸画伯亦帰京すと云ふ、是日快晴日の光強し、軽井沢に来りて始めて薄暑を覚えたり、夜松莚子を其の旅亭鶴屋に訪ふ、丸岡生東京より松莚子の自働車に乗り臼井峠を越えて夜十時頃到着す、』

旧軽井沢渓流 旧軽井沢芭蕉碑 旧軽井沢教会 旧軽井沢街外れ橋(旧中山道) 最近の記事で、日乗の私訳のみを載せ、読みやすくなったかもしれないが、そうすると、荷風独特の文体が持つ調子のよさや格調の高さが損なわれるような気がしてくる。でもこれは致し方ない。

以下、私訳である。(写真は、この夏に撮った中から関係のありそうなものを選んだ。)

「8月18日 朝はやく起き、食前に日高氏に託すべき全集本の序言を書いた。午前日高氏が萬平旅館より来て、昼食を一緒にとった。食後自動車を頼み、碓井峠に登った。町のはずれに渓流が流れ、その橋のほとりの一老樹のもとに古碑があり、馬をさへながむる雪のあしたかな、という芭蕉翁による文字が見える。橋を渡れば一本道が曲がりくねって林間を登っている。尾崎咢堂(尾崎行雄)の別荘の門前を過ぎたが、自動車の運転手の話では、別荘の広さが六千坪あるとのことである。

旧軽井沢別荘地 旧碓氷峠見晴台 旧碓氷峠見晴台眺望 旧碓氷峠見晴台から妙義山 山道を登っていくと休憩茶屋があり、見晴亭という。さらに登って20分ほどで峠の頂上に着いた。左の方に熊野権現の古い社があり、鳥居・殿堂がいかにも古びて見える。皇族立ち寄りの高札が立っている。礼拝してから神官に頼んで厄除の護符を買い求めた。社の前の細い道を隔てて平坦の地があるが、見晴の台という。洋人二三名が樹の下で茶を沸かし食事をしていた。眺望すると、峰や山なみが重なって眼下に起伏し、うぐいすの声が遠近に反響する。前方に一帯の連山があり見晴の台と相対し、連山の後方に一段と目立つ奇峯の犬の牙のようなものが雲間に出没したが、その形から妙義山であることがわかった。見晴の台を下り来路に出ると右方に木柱を立てた門のようなものがあり、門を入って登ること数十歩で、また平坦の地があった。眺望が広々とひらけていることは見晴の台よりもすぐれ、公園地の札が立っている。空気が澄みわたり清らかで、耳底から物の鳴りひびくような心地がし、日高氏にふり向いて聞くと、同じですと答えた。自動車で来路を下り万平旅館に帰ったが、道程はわずかに二三十分に過ぎなかった。この夕方、日高氏が5時の汽車で帰京した。国木田夫人と小糸画伯も帰京したとのこと。この日は快晴で日の光が強く、軽井沢に来て始めてちょっとした暑さを感じた。夜左団次をその旅館鶴屋に訪ねたが、丸岡君が東京より左団次の自動車に乗って碓井峠を越えて夜十時ころ到着した。」

この日、荷風は、朝はやく起きて、さっそく全集本の序文を書いている。日高と昼食後、自動車で碓氷峠に登っているが、この道は、旧軽井沢銀座から続く旧中山道であろう(現代地図)。熊野権現前の小道から出た見晴の台と、見晴の台を下って木柱を立てた門を入った先の平坦の地との違いがよくわからない。この夏に旧軽井沢の見晴台に登ったとき(以前の記事)、見晴台の手前にそのような門があったような記憶があるが、神社の方には行かなかった。この日乗で荷風が記した、見晴の台よりも眺望のすぐれた平坦の地が、現在、見晴台としている広場(二枚目の写真)のような気がする。
(続く)

参考文献
「新版断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「考証 永井荷風(下)」(岩波現代文庫)
2014山と高原地図19 浅間山 軽井沢(昭文社)
県別マップル20 長野県道路地図(昭文社)

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軽井沢と荷風(4)

2014年09月12日 | 荷風

前回の記事に続き、軽井沢六日目の昭和2年(1927)8月16日の日乗は次のようになっている。

「8月16日 朝7時に起き出て、ホテル帳場の寒暑計を見ると華氏60度(=摂氏16度)を示している。さわやかで涼しいことである。しかしいまは既に山中の気候にもなれてきて大いに食欲が増進してきたことがわかる。軽井沢に遊ぶものは必ず初めは気候の激変に或者は下痢をし或者はめまいを感じるが、その後は心身がしだいに爽快(そうかい)となるのが常であるという。午後左団次とホテル裏手の野道を歩いた。夕食のとき食堂で偶然野間五造翁が令嬢を伴って来ているのに会い、食後翁と広間で語り合った。翁はむかし福地桜痴が日々新聞社長であるころ、その部下の一記者であったという。行李の中からその最近の著作である立法一元論を取り出して贈ってくれた。この日、夕方から時々にわか雨が降った。窓前で雨に濡れた楓(かえで)の葉が燈火に照らされた色を見ると、青緑が染みるようである。この地の草木を見るとすべてその緑色の淡くしてあっさりして明るいことは、東京の草木が暗緑であることと似ていない。英米の田園を望むようである。洋客がこの地を愛すること宜(むべ)なりというべきである。」

荷風は、気候にも慣れて食欲も増進してきたと記し、軽井沢に滞在すること六日目にしてようやく調子が出てきたようである。雨に濡れたかえでの葉が灯りに照らされてその青緑が眼にしみ、この地の草木はみな緑色が淡く明るく、暗い緑色の東京の草木とまったく違うと称賛している。

次の日、七日目(8月17日)は次のとおりである。

「8月17日 北沢氏と国木田夫妻と食卓を一緒にして昼食をとった。午後突然日高氏が東京から来たのに会った。改造社全集本に関する急用があったためである。私はこの山間に来てはやくも一週間で、都の俗事を耳にせず、心自ずから穏やかになっているときで、あたかも長い夜の夢より覚めたようなここちがした。夜日高氏と町を歩き、土産を買った。」

この日の日乗はかなり短い。日高が急用で軽井沢にやって来たのに驚き、この山間に来てもう一週間になり俗事から離れ心が自然に穏やかになっているこのとき「恰長夜の夢より覚めたるが如き心地したり」などと記述している。日高は、この頃荷風の秘書のような存在で(以前の記事)、その改造社全集本「永井荷風」の序文を求めに来たのである。
(続く)

参考文献
「新版断腸亭日乗」(岩波書店)
「荷風随筆集(上)」(岩波文庫)
秋庭太郎「考証 永井荷風(下)」(岩波現代文庫)

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軽井沢と荷風(3)

2014年09月11日 | 荷風

前回の記事に続く。軽井沢四日目の昭和2年(1927)8月14日の日乗は、以下のように、ちょっと長い。

8月14日 朝7時に起きたが、たらいや口すすぎの水が清らかで冷たく骨にしみる。ダン夫妻が町の西にそびえる離山(はなれやま)の山麓に秋草がたくさん咲き乱れているので摘みにいきませんかという。自働車に同乗して行くと、この辺は見渡す限り平坦で高い木がない。低木雑草の間に、女郎花、吾亦紅(われもこう)、甘草(かんぞう)、擬宝珠(ぎぼうし)、藤袴(ふじばかま)、撫子(なでしこ)、野菊、山萩(やまはぎ)などが咲き乱れている。一人で離山の中腹まで登ると、みどりの山の峰が四方をぐるりと取りまき、軽井沢の人家が緑の樹々の間に見え隠れしている。この地は風なく空気が澄みわたって清らかであることは言うまでもない。低木の間で頬白(ほおじろ)がしきりに鳴く。時々、鶯(うぐいす)の遠くに近くに鳴く声が聞こえる。幽邃(ゆうすい)の様子はとても文章にできない。そもそもこの地の鶯は幽谷(ゆうこく)を出て高木にもどる心がなく深くその跡を雑木・野草の間に晦(くら)らます。これを現代の文士の虚名のためにしばられる者と比べれば、はるかに賢いと言わなければならない。私は鶯を聞いて遠慮する所は少しとする。正午にホテルに帰ったが、またもや下痢のため客室で横になった。小糸画伯が来た。ダン氏は妻と一緒に夕方五時の列車で帰京した。夕方左団次が書籍商竹田を伴ってやってきた。竹田は私が下痢であることを聞き町に行き懐炉を購入してくれた。夕食後庭に出ると月が明るい。旧暦七月の十六日の夜であろう。皆さんと一緒に街路を歩き、竹田が知っている一骨董商の店頭を過ぎようとすると、しらが頭の主人が出て来て次のようなことを言った。私の店は、この軽井沢にいることもう20年になり、むかし飯盛女が住んでいた家で、柱が太く、階段も広く、座敷の間取りもみな十畳ほどである。先生(荷風)が宿泊している軽井沢ホテルは、本陣の跡である。この地は明治40年頃水害にあい、この街路は濁流が氾濫して歩くことができず、近郊の別荘も流失するものが多く、大木もみな根こそぎ流された。同じ年、疫病が蔓延(まんえん)したため、以来、渓流で不浄のものを洗うことが厳禁された。」

ダン夫妻と一緒に車で離山(現代地図)のふもとまで行って眼にした数々の野草、一人で中腹まで登ったとき聞こえてきたほおじろ、うぐいすの鳴き声に感動している。そして、うぐいすにこと寄せて、虚名にしばられる現代文士の批判におよんでいる。荷風一流の比喩である。骨董商から聞いた明治40年頃の軽井沢の水害についても記している。

次の日(8月15日)の日乗は次のようにちょっと短い。

「8月15日 晴れて冷気はきのうのように厳しくはなく、寒暑計を見ると華氏74度(=摂氏23度)を示している。客舎の後庭に椅子を持ちだして楓(かえで)の樹の下で沢旭山の漫遊文章を読んだ。午後左団次とその門弟たちと街を歩き、一陶器店に入った。浅間焼を売っている。また、楽焼もある。その質は墨田の百花園で製造するものよりもやや硬い。左団次とともに、机上の皿を手にとって揮毫した。帰りにせり市を見たが、競売商の中には洋人もまじっていた。顧客は和洋人のほかに支那人も交じって大変混み合っていて、すこぶる珍しいながめであった。毎年8月末になると軽井沢の雑貨商はみな投売をするとのこと。」

この日も左団次と街を散歩している。左団次とは、歌舞伎役者の二世市川左団次(本名 高橋榮三)で、明治13年(1880)生まれ、荷風よりも一歳年少であった。断腸亭日乗に「松莚(子)」としてもよく登場するが、これは俳号である。荷風は帰朝後の明治42年(1909)に小山内薫の紹介で知りあって親しくなり、大正3年(1914)新橋の芸妓八重次と二回目の結婚をしたとき、左団次夫妻が媒酌人となっている。左団次の悩みは脚本不足と企画の枯渇で、そのため生まれたのが七草会というブレーンで、荷風も一員で左団次を支えたという。
(続く)

参考文献
「新版断腸亭日乗」(岩波書店)
「荷風随筆集(上)」(岩波文庫)
秋庭太郎「考証 永井荷風(下)」(岩波現代文庫)
川本三郎「荷風と東京」(都市出版)
近藤富枝「荷風と左団次」(河出書房新社)

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軽井沢と荷風(2)

2014年09月07日 | 荷風

前回の記事に続いて、軽井沢二日目の昭和2年(1927)8月12日の日乗によれば、荷風は朝7時に眼が覚めた。食堂でオートミールを飲み、ホテルの庭を散歩した。宿泊客のダン夫妻と知り合いとなったようで、ダンは、日本生まれの半洋人で、洋琴の名手であり、その妻は村山鳥径の娘で、断髪し洋装で立ち振る舞いが軽快なことは米国の少女のようである。左団次たちと昼食をとった後、左団次の案内で近郊を散策している。その途中、水泳池で洋人と日本人学童の水泳を見たが、その様は30年前自分が両国の水練場で学んだものとはまったく違って西洋風となっている。古風を廃絶する風潮は、学術・文芸だけでなく飲食や遊技に至るまですべてに及んでいると文明批評をしている。

両国の水練場とは、荷風が中学のころ夏休みに水泳を習った大川(隅田川)端の水泳の練習場のことである。これは随筆「夏の町」に詳しい。次の記述から荷風は神伝流という流派の水泳術を習ったことがわかる。

『自分が水泳を習い覚えたのは神伝流の稽古場である。神伝流の稽古場は毎年本所御舟蔵の岸に近い浮洲の上に建てられる。浮洲には一面蘆が茂っていて汐の引いた時には雨の日なぞにも本所辺の貧い女たちが蜆を取りに出て来たものであるが今では石垣を築いた埋立地になってしまったので、浜町河岸には今以て昔のように毎年水練場が出来ながら、わが神伝流の小屋のみは他所に取払われ、浮洲に茂った蘆の葉は二度と見られぬものとなった。』

次の日(8月13日)、早く起きてホテル門外の街を歩いていると、日活活動写真株式会社の北沢氏と偶然に会い、その案内で萬平旅館後方の密林を歩いた。中村橋という橋があり、水が枯れて砂石の間に月見草がたくさん生えている。楡(にれ)や槙(まき)の大木が多く、林の中の小径をまわり道してテニス場のわきに出た。北沢氏の紹介で、はじめて国木田独歩の息子の乕雄氏夫妻と話をした。夫人は女優六条氏の妹であるといい、断髪で洋装である。ホテルの食堂で昼食を一緒にとった。夕方左団次が門弟たちと来たのでまた林間の静かな小径を散歩した。この夜、体調を崩したようで、二回下痢をしたとある。

萬平旅館とは、旧軽井沢銀座から東へちょっと入ったところに万平ホテルというのがあるが(現代地図)、ここと思われる。
(続く)

参考文献
「新版断腸亭日乗」(岩波書店)
「荷風随筆集(上)」(岩波文庫)
秋庭太郎「考証 永井荷風(下)」(岩波現代文庫)

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軽井沢と荷風(1)

2014年09月06日 | 荷風

前回の軽井沢の記事を書いたときに気がついたが、永井荷風は昭和2年(1927)8月軽井沢に避暑に赴いている。偏奇館時代の荷風が東京を離れるのはめずらしい。荷風の日記「断腸亭日乗」によれば、8月11日に上野を発ち20日まで滞在している。これが気に入ったのか、24日に再訪し、28日に帰ってきている。

その出発の昭和2年(1927)8月11日の日乗は次のような記述になっている。長いが全文を引用する。

『八月十一日 前夜風月堂にて久しく口にせざりし珈琲を飲みたるが故にや、熟睡すること能はざりしを機とし、昧爽[まいそう]に起き出で旅装をとゞのふ、山形ほてるより辨当のサンドヰツチを取寄せ、十時四十分の汽車にて上野を発し軽井沢に向ふ、乗客幸にして輻湊[ふくそう]せず、是日空薄く曇りて溽暑甚し、赤羽駅を過ぎ荒川の鉄橋を渡る、緑楊蘆荻[ろてき]の眺望名所絵に見る所の川口渡頭徃昔の風光を想起せしむ、荷花的歴たり、余曾て日光に遊びしことありしかど既に二十年前の事なれば鉄道沿線の風景にして記憶に留るもの今や殆無し、たまたま、心頭に浮び来るものは近年熟読せし江戸儒家の遊記のみ、今朝家を出る時倉皇として机辺の乱帙[らんちつ]中より沢旭山の漫遊文章を把りて行嚢に収め来りしかば、之を繙き且読み且又風景を観望す、然れども武州平蕪[へいぶ]の眺望殊に看るべきものなし、熊谷駅を過るや隂雲四散し、桑圃渺茫[びょうぼう]たる処西北の方に当たりて始めて山影を望得たり、秩父の連山なるべし、桑圃の間胡麻甘藷玉蜀黍繁茂す、農家の籬[まがき]辺木槿[むくげ]花盛にひらくを見る、合歓紫薇の花も亦灼然たり、倉賀野駅を発するに老杉丁々一条の道路を挟んで連立するを見る、往昔の街道なるべし、丘陵道の西方に起りて蜿々[えんえん]扶輿す、須臾[しゅゆ]にして高崎の停車場に抵る、午後二時なり、携へ来りしサンドイツチを食ふ、高崎を発するに一帯の河流あり、河原広く水少し、西方の丘阜漸く近く、山腹皆耕されて田圃となれるを見る、桑圃は既に尽きて稲田となれり、稲葉青々として波の如し、再び河を渡る、石多くして水激す、山も亦迫り来つて風早くも渓谷の涼味を帯びたり、磯部駅を過ぐ、驟雨[しゅうう]沛然[はいぜん]として灑[そそ]ぎ来る、既にして雨少しく歇むや天辺忽一奇峰の突起するを見る、妙義山の南角なるべし、列車松井田駅を過るや雨霽れて雲間に妙義山の全景を望み得たり、横川駅を出でてより隧道を通過すること幾回なるを知らず、漸くにして軽井沢の停車場に着す、雨霏々[ひひ]として歇まず、車窓より赤帽を呼び行李を運ばしめんとする時、三田英児走り来りて余を迎ふ、盖し余上野を発する時松莚君に打電し旅舎のことを依頼したるを以てなり、自働車にて先松莚氏が宿泊せる鶴屋に抵り、再び三田氏に導かれて軽井沢ほてるに入り旅装を解く、雨猶歇まず、冷風肌を浸す、窓を鎖し一睡して車中の疲労を休む、日忽暮れ山気いよいよ肌に沁[し]む、「おとろへや家を出て知る山の秋、」「秋の日の髭剃る中に暮れにけり、」駄句を思う時食事の鐘聞えたれば衣服を改めて食堂に赴く、旅客の食卓に座するものを見るに大抵は西洋人にして帝国劇場歌劇興行の際常に見受くる者四五人もあり、食事将に畢りし時松莚氏令閨[れいけい]三田生を伴ひて来る、松莚子の東道にてホテル門前の街路を歩む、商舗は皆洋人を顧客となすものにして骨董仏器錦絵を陳列するもの七八軒あり、箱根宮下辺の光景と異る処なし、汁粉屋に憩ひ松莚子が旅舎の門前にて別れ帰り来りて直に枕に就きぬ、』

荷風の日記文は、それほど難しくはないが、旧字体や漢文調や荷風独特の用語などのため、いちいち調べなければならず、読みにくく、ちょっと親しみにくい。そこで、下に私訳を載せる(読みやすくなっていると信じて)。

「8月11日 前夜風月堂で久しぶりにコーヒーを飲んだためか熟睡できなかったが、これを機に、朝早く起きて旅支度を整え、山形ホテルより弁当のサンドイッチを取り寄せた。10時40分の汽車にて上野を発し軽井沢に向かったが、乗客は幸に込み合わなかった。この日空が薄く曇って大変むし暑かった。赤羽駅を過ぎ荒川の鉄橋を渡るが、緑のやなぎ、あし、おぎの眺望が、名所絵に見られる川口の渡し場の昔の景色を思い起こさせる。はすの花が鮮やかである。私はかつて日光に遊んだことがあったがすでに20年前の事なので記憶に残っている鉄道沿線の風景は今やほとんどない。たまたま心に浮かんでくるものは近年熟読した江戸儒家の遊記だけである。けさ家を出る時急いで机の周りにちらばっている本の中から沢旭山の漫遊文章を手にとって行李に収めて来たので、これをひもとき読んで、風景をながめ見渡した。しかし、武州の広い野原の眺望には特に見るものがない。熊谷駅を過ぎると空をおおっていた雲が四方に散り、桑畑がはてしなく広がっていて西北の方にようやく山影を望むことができたが、秩父の連山であろう。桑畑の間にごま、さつまいも、とうもろこしがよく茂っている。農家の間垣のあたりにむくげが花を咲かせているのが見え、ねむの木やさるすべりの花もまた盛りである。倉賀野駅を出発すると、老杉二列が一本の道路を挟んで並び立っているのが見えるが、むかしの街道であろう。丘陵が道の西からうねり曲がってのびている。しばらくして高崎の停車場に着くが、午後二時である。持ってきたサンドイッチを食べる。高崎駅を出発すると、一帯に川が流れており、河原が広いが水が少ない。西方の丘がようやく近くなるが、山腹がみな耕されて田畑となっているのが見え、桑畑はすでに終わり稲田となり、稲が青々として波のようにうねっている。ふたたび川を渡ると、石が多く水が激しく流れ、山もせまってきて風ははやくも渓谷の涼さを含んでいる。磯部駅を過ぎると、にわか雨がはげしく降りかかってきた。すでに雨が少し止んだが突然頂上に一奇峰が突き出ているのが見える。妙義山の南角であろう。列車が松井田駅を過ると雨が止んで雲間に妙義山の全景を望むことができた。横川駅を出てから隧道を通過すること幾度かわからないほどで、ようやく軽井沢の停車場に着いた。雨がしきりに降り止まない。車窓から赤帽を呼び行李を運ばせようとした時、三田英児が走ってきて私を迎えてくれた。これは私が上野を出発する時松莚君に電報を打ち旅館のことを依頼したからである。自動車で先に松莚氏が宿泊している鶴屋に行き、再び三田氏に案内されて軽井沢ホテルに入り旅支度を解いた。雨はまだ止まず、冷風が肌にしみこむ。窓を閉じひと眠りして車中の疲れをいやした。日が暮れるとたちまち冷気がいよいよ肌にしみる。「おとろへや家を出て知る山の秋、」「秋の日の髭剃る中に暮れにけり、」などと駄句が思いうかんだ時、食事の鐘が聞えたので衣服を着替えて食堂に行くと、旅行客が食卓に座っているがこれらを見るとたいていは西洋人で帝国劇場の歌劇興行の際に常に見かける者が四五人もいる。食事がちょうど終わった時松莚氏が令夫人と三田君を連れてやって来た。松莚子の案内でホテル門前の街路を歩いた。商店はみな西洋人を客とするもので骨董、仏器、錦絵を陳列する店が七八軒あるが、箱根の宮下のあたりの光景と異るところがない。汁粉屋で休憩し松莚子の旅館の門前で別れ帰って来てすぐに眠りについた。」 

荷風と左団次@軽井沢 写真裏両名署名 この日、荷風はいきなり朝はやく旅支度をし上野を発って軽井沢に行くが、友人の市川左団次(松莚)夫妻がここに避暑に来ていて、左団次と約束があったからであった。あわただしく出かけた様子だが、偏奇館近くの山形ホテルから昼食の弁当にサンドイッチを取り寄せたことなど準備がよい。

車窓からの風景の描写がなかなか好く、やなぎなどの緑の葉、はすやねむの木やさるすべりやむくげなどの夏の花、桑畑などの田園、農家のつくるごま、さつまいも、とうもろこしなどのことを書き連ね、川が激流し、雨が降ったり止んだり、妙義山の奇峰が見えたりなどの風景の変化が真に迫ってくる。こういった車窓からの風景の描写は荷風の得意とするところで、たとえば、昭和18年(1943)10月27日三鷹の禅林寺に行くために渋谷から吉祥寺まで電車に乗っているが、このときの描写も好い(以前の記事)。

一枚目は、このとき軽井沢で撮った荷風と左団次の写真である。二枚目は、両名が署名した写真の裏である。

左団次は、鶴屋に宿泊しているが、現在、旧軽井沢銀座の商店街の外れにあるつるや旅館と思われる(現代地図)。また、旧軽井沢銀座近くに旧軽井沢ホテルというのがあるが(現代地図)、ここが荷風が泊まった軽井沢ほてるであるかどうかちょっとわからない。日乗の記述と位置的にはよく合っている。
(続く) 

参考文献
「新版断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「考証 永井荷風(下)」(岩波現代文庫)

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