愛と情熱の革命戦記

猫々左翼の闘争日誌

三光作戦①

2008年08月17日 21時00分02秒 | 侵略戦争でなにが行われたか
しんぶん赤旗 2008年8月11日付


 ことしも「8・15」がやってきます。戦後63年がたったいまも世界ではたえず、平和憲法を持つ日本では、自民・公明政権がアメリカの戦争に参加していくたくらみを強めています。国内外で筆舌につくしがたい犠牲を強いたあの侵略戦争はどういうものだったのか、今年も、さまざまな角度から、その実相に迫ります。

 人の背丈ほどに伸びた高粱の畑の中。ニコッと笑いかけてきた子どもの顔がいまでも忘れられません。1歳をすぎたばかりと思われる赤ちゃんでした。

 赤ちゃんの傍らには脇腹から血を流した母親が倒れていました。赤ん坊は血に染まったおっぱいを小さな手でなで回していました。母の手はしっかりと赤ん坊の足をつかんでいました。

 「肝がゾッとした。おじげ付いたが嫌な気持ちを吹っ切ってその場を離れた」。坂倉清さん(87)=千葉市=は中国・山東省での罪業を振り返りました。

 「銃ではあったけど、自分の手でやった(殺した)初めての人だった」

 1941年6月、4ヶ月の初年歩兵訓練を終えて、初めて実戦に出たときのことでした。当時21歳。作戦から帰ったあと、頭に浮かんだのは出兵のとき小さかった妹の顔でした。
 
 残虐行為は毎日のように繰り返されました。心は次第にまひしていきました。

 同年8月初旬、小さなでのことです。小隊長が農民らしき5人の中国人を「池に放り込め!」と命令。自ら先頭にいた男をけ落としました。

 「はい上がってくるやつは踏みつぶせ!」小隊長は怒鳴りました。そして、池の周りに兵士たちが群がり、銃床で突いたり、腰の剣を抜いて振り下ろしました。坂倉さんは民家から持ち出したてんびん棒ではい上がってくる男たちを突きまくりました。

 「兵隊は上官の前で点数を稼ぎたいんです。あの頃には初めて人を殺したときのような気持ちは全くなかった」

 家屋の焼き打ちや略奪、拷問など、いわゆる三光作戦は日常茶飯事でした。脱穀したばかりの高粱を燃していたとき、家からおじいさんが出てきました。

 「燃やすな!」と身振り手振りで訴える労人に「撃ち殺すぞ!」と銃を向けた坂倉さん。

 「憎々しい顔をしていてね。自分も百姓出身だから、火をつけながら『なんでそんなことすんだ』と思った。でもやっぱり、みんなやっていると『負けてはいられない』と思ってやってしまった。大勢でやる心理は怖い」

 坂倉さんを「日本鬼子(リーペンクイズ)」に仕立て上げたもの―。自身は幼少時の時の軍国主義教育と「殴る、ける」が常態化していた軍隊教育だったといいます。

 子どもたちに伝えたいことがあります。

 「戦争につながる火種が出たら、小さくてもすぐに消してほしい。私のようにだまされないでほしい。『害』とは被害だけでなく、加害もある。日本の加害行為を知ってほしい。戦争をとめるためには戦争の真実を知らなければいけない」


 (本田真希)

 つづく




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