12月29日。もう年末ですが、この数日、とても幸せな時間を過ごしています。
日本にいたときに最も欲しかったものは何かと言われると、「時間」だと思います。もちろん、今年度の前半の半年の日々は最大限に充実していたとは思いますが、とにかく追い立てられていた状況でした。読書は大好きですが、9月末までの読書量は激減し、読みたい本だけが溜まっていく状況にありました。いろいろと勉強しなくてはならないこともあるのは自覚していましたが、そのための時間も創り出せず、執筆すべき論文も溜まっていく一方でした。
フランスでの時間は、自分が好き勝手に使えるわけではなく、健全な家族生活を営むために私がやるべきことも相当にあります。しかし、家族があってこその私だし、家族のための時間が無駄、とも全く思いません。ですが、私が心底満足するためには、研究者・教育者としての自身が少しでも向上するために、貴重な時間を有効に使えていると実感することが不可欠です。多くの方々に支えられて実現している時間だからです。
26日に日本からの船便がようやく届き、多くの書籍も届きました。また、日本の研究室から送ってもらった新規購入の書籍や、専門書等もほぼ同時に届き、書棚に整理しました。
読みたい本があまりにもたくさんあり、しかもそれを読む時間が与えられている。生まれて初めての経験と言ってもよいかもしれません。学生時代には残念ながら能力不足のため、これほど読みたい本がありませんでした。これが幸せな時間である理由の一つ。
もう一つは、現在の論文執筆が非常に楽しいこと。自身初めての、建設マネジメント分野の論文集に投稿予定で、「施工状況把握チェックシートによるコンクリート構造物の品質向上と協働関係の構築」というタイトルで執筆しています。年末年始の休暇なのですが、連名者とも頻繁にやりとりしながら、私がドライビングフォースになって執筆が進んでいます。
この論文の4章を先ほど書き終えましたが、「施工状況把握におけるチェックシートを活用した監督員の役割」(仮題)という章タイトルで、施工状況把握チェックシートの効果を示す概念図も作成しました。また、このシートによる協働的な対話の事例も複数記載しました。フィロソフィーに溢れた原稿になりそうです。
ジャーナル論文を書いていて心底楽しい、と思えているのは今回が初めてです。これが幸せな時間である理由の二つ目です。
解説文等を楽しく書いたことはありますが、締切りの無いジャーナル論文の原稿を暇を惜しんで楽しみながら書いた経験は私にはありません。連名者に早く読んでほしくて、楽しく書いています。
コンクリートの論文ももちろん楽しくないわけではないのですが、フィロソフィーをふんだんに論じるというよりは、技術的に細部を詰めていく作業が苦行に近く、心から楽しいという感覚ではありません。もちろんコンクリートの技術も非常に重要で、この苦行のプロセスを通じて自身の多くの能力が鍛えられることは十分に認識しています。
この辺りにも、私が今後どのような方向性に進むべきかが表れているように感じます。
この週末に、仕事に集中させてもらえる家族に感謝していますが、家族とのコミュニケーションも十分にとっています。昨日は家族でMonopolyのボードゲームをやったし、次女に乞われて日本から届いた絵本をたくさん読んであげました。
昨夜、寝る前に、次女が「パパと寝たい。絵本読んでもらう。」と言って、ママや長女と一緒にいたベッドから移動してきました。イソップの小話をたくさん読んであげて寝ました。日本にいたときに、次女が私だけと寝たい、と言った記憶はなく、とてもうれしく思いました。
それが、幸せな時間である理由の三つ目です。
今日の午後は、次女のスクールのお友達の家族(韓国人)が遊びにやってきます。
明日、30日からは、クレルモン・フェランという街に家族で旅行。奥さんの親友家族と会います。私は、奥さんの親友と一緒に仮装して10kmマラソンに出場するようです。昨日、5kmほどセーヌ川沿いをジョギングしておきました。
新年はクレルモン・フェランで迎えることになりますが、激動の2013年をゆっくりと振り返り、新年に備えたいと思います。
12/21-22は、一人旅をしてきました。オーギュスト・ペレの再建したル・アーブルの街を好きなだけ散策しました。第二次大戦後の再建にはコンクリートの建築物が使われたので、私にとっては大変に勉強になる散策でした。
ノルマンディ橋はバスで通ったので、十分には見学できませんでしたが、渡った先の港町のオン・フルールにも訪れ、3月の下見としては上出来だったかと思います。
12/23-24は、子ども二人を連れて、アミアン大聖堂、シャルトル大聖堂の二つの世界遺産を連続で訪れ、ゴシック大聖堂の勉強をしました。
やるときは記憶に残るぐらい徹底してやろう、ということで4日連続で3つの世界遺産を巡りました。
その間、いわゆる研究からは離れましたが、昨日、27日から再び論文執筆を始めました。同時に、種々の勉強も開始し、「ファウスト」の第二巻の続きも読み始めました。本来の留学生活に戻ったと言えます。
「勉強」には、日本にいるときには十分に勉強できない、コンクリート工学分野の論文を収集したり読んだり、建設マネジメント分野の論文の勉強なども含まれます。
昨日は、改めて無知だなあ、と少し焦りに近い気持ちを感じました。時間はあっという間に過ぎていくので、たくさん勉強しなくては、という焦りもあったのかと思います。
しかし、結局、気持ちが落ち着いたのは、「施工状況把握」の論文の執筆を進め、一つの章を書き上げた後でした。
無知で当然。どの研究者も、その最も得意とするスキルで、常にそのことを考えて研究に取り組んでいるわけだから、他人の研究成果がすごく見えるのは当たり前。自分が興味を持った研究は、勉強して自分の知識にしてしまえばよい。特に、私自身は知識を生み出すことが得意な研究者というよりは、知識を活用することが得意な研究者なのだから、むしろ無知をありがたく思うべきでしょう。
一方で、私自身にしかできないことがそれなりにあるのだから、牛歩であろうと前に進むしかないと思います。それが分かっているから、上記の論文を執筆することで気持ちが落ち着くのだと思います。
上記論文は、私にとっては、建設マネジメント分野に入っていく重要な転機だと認識しています。これまでとかなりタイプの異なる勉強も必要となっています。法律や、行政の基準類などです。でも、その勉強を心地よいと感じます。
しかし、私の「マネジメント」はコンクリート構造物と密着したマネジメントであり、コンクリート工学の技術的な最前線の情報にも当然に通じている必要があります。 SWATの技術を深度化していく過程、構造物のひび割れ制御に関する研究を遂行していく過程、で他の一級の研究者たちの情報を吸収し、実践的に知識を活用することが私に求められていることだと考えます。
よって、以前よりも勉強すべきことが多いと自覚しており、それが「焦り」につながったのでしょうか。
日本に戻ると十分に勉強する時間は取れないことは分かっています。
一歩でも勉強を進めれば、後退にはならない、と前向きに捉え、前進したいと思います。
今日も、施工状況把握の論文の別の章を書き上げることと、SWAT英語論文の構成の確定と執筆開始、を目標に年末の休日をスタートしたいと思います。
留学と言えば、藤原正彦さんの若き日のアメリカ留学「若き数学者のアメリカ」(抱腹絶倒ものです)と、「遥かなるケンブリッジ」は面白い本ですが、私自身もいつの日か来るであろう留学のイメージを持つためにも参考になった本でした。オランダに留学した小松君にも薦めて読んでもらったかと思います。
また、留学と言えば、明治の頃の我々の大先輩方のエピソードを数多く聞きます。「私が一日勉強を怠れば、日本の近代化が一日遅れる」という覚悟で勉強したと言われる古市公威など。
40歳でフランスに留学している私自身の時間の過ごし方については常に考えます。公の人間のつもりですが、自分自身の心と対話して、間違っていないか、後々後悔しないか、ということを考えながら、しかし惰性にも流されながら、今のところは充実した時間を過ごしているように思います。
もっと若いころに留学したらいろいろと悩んだのだろう(藤原さんのように)と思いますが、40歳ということの一つのメリットは、悩むことがほとんど無い、ということです。もはや前に進むしかない、と言う方が正しいでしょうか。
とてもとても古市先生のように身を削って勉強する、ということはできない。日本の技術力が当時とは異なることもその一因かと思います。
では、私はサボっているのかというとそうでもないように思います。
いろんな本を読んでいるし、子どもたちも連れていろんなところに訪れていますが、すべては私が求めている何らかの方向性に合致する行動であり、総体的に学んでいるように感じます。1、2年くらい前からの感覚ですが、ほぼすべての行動が、自分の中ではつながっていると感じているので、何を行うにしてもそれなりの意味付けが可能だし、すべての行動は前に進んでいくために何らかの意義を持っていると感じながら生きています。
今、ル・アーブルにいますが、やはり来てよかった。一人で歩き回れる、ということは非常に多くのことを感じながら、好きなところには何度でも立ち寄れます。やはり、ル・アーブルに実際に来ないと、オーギュスト・ペレの愛は感じられなかったように思う。コンクリートの教会や鉄筋が腐食した建物に愛情を感じます。こんな素敵な材料の研究に携わることができて、私も幸せだと思います。
ル・アーブルに来る前に、内藤廣先生の「形態デザイン講義」を読んでおいて本当に良かった。そして、その本のおかげで、オーギュスト・ペレのル・ランシー教会に行っておいて本当に良かった。すべてがつながりながら、今に至っています。
ル・アーブルへの旅の道中では、村上春樹の「遠い太鼓」を読んでいます。彼が40歳になる前に3年間、ヨーロッパで過ごした時の風変わりな旅行記ですが、彼の感じ方は大変に参考になります。
フランス滞在期間中に自分の中で重要度の高い論文をあらかた執筆してしまおうと思っている私にとって、全く格は違いますが、「ノルウェイの森」「ダンス・ダンス・ダンス」をヨーロッパ滞在中に執筆した村上春樹の正直な旅行記は大変に参考になります。
今の私のフランスでの過ごし方を、村上さんの文章は肯定してくれるようにも感じます。
とても古市先生のようにはなれませんが、凡人なりに全力で、総体で感じて、それを生かせばよいと思えます。
今日は、レンタカーがどうしてもできなかった(日曜日は営業していない)こともあり、バスを使ってノルマンディー橋を渡り、Honfleur(オンフルール)という非常に風光明媚な港町に行ってみるつもりです。ストライキもしているようなのでどうなるか分かりませんが、ベストを尽くしてきます。
このブログは、私の両親も見ているようですが、まあ気にせず書きます。
私も父親ですが、私にももちろん父親はいるわけです。
私の父親は決して寡黙な人ではなく、むしろおしゃべりだと思いますが、私が幼少から育ってきた過程で非常にたくさんコミュニケーションをした、という印象ではありません。私が子どもたちとコミュニケーションしすぎる父親なので、 そういう印象を持つのかもしれませんが。
人間とは後悔する生き物ですから、なるべく後悔しないように、やるべきと思うことは後回しにしない、と様々な本に書かれています。私もそのようにしたいと常々思っています。
今朝、次女をスクールに送っている途中で、なぜかふと、父親のことを考えました。母親には最大限の感謝の意を日頃から伝えているつもりですが、父親にはそれと比べると少し足りないかな、と自省しているからかな、思いました。普通の父と息子の関係よりは、相当にコミュニケ―ションしているとは思いますが。
ですが、私が父から言われた言葉で非常に心に残っているものがあります。父は終戦の日の直前の7月に生まれています。
私が甲陽学院中学校に入学する直前のことでした。子供部屋に父親が来て、私をイスに座らせ、語り始めました。概要は以下です。
「立派な中学校に行くのだから頑張って勉強してくれ。だけど、一つだけ聞いてほしいことがある。自分が小学校の頃、とても貧しくて(兄弟がたくさんいたので)、お弁当のときに給食の味噌汁を付けてもらうことができなかった。お母さんから「すまないけど、我慢してくれ」と言われた。 とてもみじめな思いだったけど、お前たちはそのような境遇ではない。その境遇に感謝して、しっかりと勉強してくれ。」
というような趣旨でした。味噌汁のくだりでは、父親が泣いていました。
今朝、この父親のメッセージを思いだし、パリを歩きながら私も涙が溢れました。私が一所懸命頑張ろう、と思う気持ちを持てる基盤には、父親の愛情や母親の愛情、祖父母の愛情などがあります。
学校の昼ご飯に味噌汁も飲めなかった父親に比べ、私の境遇はあまりにも恵まれています。先人や親族、家族の支えの上に、まさに最先端に立つ資格を与えていただいているわけですから、どうやって貢献できるかということを考え続ける責務が私にはあると改めて思います。
なかなか父親には面と向かってこのようなことを伝えられませんが、ブログを借りて伝えたいと思います。ありがとうございます。頑張るよ。
11月に本格渡仏してから仕上げた文章が3つ目になりました。
最初は、目視評価法の解説文。「建設物価」という雑誌の2月号に掲載されるそうです。もちろん、復興道路の品質確保と絡めたマネジメント的な読み物にしておきました。タイトルは、「目視評価法を活用したコンクリート構造物の品質向上マネジメント」としました。
二つ目は、山口県のひび割れ抑制システムの効果を技術的な面から分析したもの。土木学会論文集に投稿しました。執筆を始めてからかなり時間が経ってしまいましたが、その間に我々の研究も大いに進み、それらの成果も含んだ内容に仕上がったと思います。「ひび割れ抑制システムによるコンクリート構造物のひび割れ低減と表層品質の向上」というタイトルで、現在査読中です。
三つ目は、先ほど仕上げて投稿しましたが、2014年6月にノルウェーで行われる国際会議、CIC2014(Concrete Innovation Conference)に投稿した論文です。"Quality Assurance Management of Revival Road in Tohoku Region after the Great East Japan Earthquake" というタイトルです。目視評価の判定基準、施工状況把握チェックシートも初めて英訳しました。
日本では、私の時間マネジメントが十分でないのか、努力が足りないのか、両方でしょうが、なかなか論文を執筆する時間が確保できません。文章を書く時間は取れますが、図表を自分で作成する時間が確保できない、というのが真相でしょうか。フランスではしこしこと自分で作業する時間がたくさんありますので、大チャンスです。私自身の勉強にも大いになります。
上記は私が筆頭著者ですが、これらとは別に、
"Mechanism of Improvement of Crack Resistance of Slag Concrete with High Alite Cement"という論文を、Namさんが土木学会論文集へ、
「若材齢で曲げひび割れが生じたRC梁の収縮特性を考慮した時間依存変形機構の分析」という論文を、小松君が土木学会論文集へ、それぞれ投稿しました。
論文ですので、査読で落ちるかもしれませんが、内容に価値はあると思っていますので、諦めずに公表されるよう努力を続けます。
私自身も、和文英文でとりあえず一本ずつ論文を執筆完了しましたので、勢いに乗って優先順位の高いものから執筆を加速させたいと思います。
次のターゲットは、和文は「施工状況把握チェックシートによるコンクリート構造物の品質向上と協働関係の構築」で土木学会論文集F4(建設マネジメント),です。すでに共著者とのやりとりを開始しています。
英文は,SWATに関するものをしっかりと執筆しようと思います。
何事も「積重ね」ですが、論文は積重ねの最たるものの一つのように感じます。子どもたちのお弁当作りも、今日の午後に予定されている次女との水曜日散歩も、すべては積重ねなのですが、論文執筆の積重ねは、慣れると癖になりそうです。地道な作業の積重ねで、何もないところに作品が生まれ出るもので、着想、実践の段階で心からベストを尽くしていれば、世のために役立つ作品となります。
今日も、上記二つの論文の執筆を少しでも進めようと思います。
内藤先生の「形態デザイン講義」を読み終わりました。大変に深い内容で、私のフランス滞在期間を充実させるヒントも数多くいただきました。
このブログを読んでおられる方もぜひ一読されることをお薦めしますが、内藤先生ご自身も最も難しいと言われている「時間の翻訳」について。
「翻訳」の意味は本を読んでいただければ、と思います。
建築物、街、インフラを造る、ということは長い時間それらはそこに留まるわけで、我々現代人に最も欠けていることの一つが、その時間をイメージすること。特に、時間が経過した将来から現在の方向を見てイメージすること。
私たちインフラに関わる同志たちも、100年先をイメージすることは非常に難しいと話し合っていますが、私は100年先をイメージするためには100年前をイメージするように心がけています(内藤先生もそうおっしゃっている)。それでも100年先をイメージすることは不可能に近いし、ましてや、100年先から「待つ」感覚で、現在をイメージすることはこれまでもやったことがありませんでした。
私の本分は教育であると思っています。エンジニアだし、なるべく実務に近いところで自分の能力を最大限に発揮したい、とももちろん思うし努力するけど、やはり教育が私の仕事だと今朝も思いました。
教育においては、「時間の翻訳」を無意識に行ってきたように思います。また、将来から「待つ」ということについても、少しはやってきたように思います。
その一つが、学生に対するメッセージ。
私がいろいろな方から教えていただいたことの中にも、そのときには分からなくても、経験を重ねるごとに身に染みるように分かってきたことがいくつもあります。また、ふっと、その言葉を思い出すこともあります。
これこそが、言葉が我々を「待つ」という感覚であり、私たち教育者は、将来を支える学生たち若者を待ち続けるような言葉を、将来に向かって投げなければならない。
また、今現在の状況を改善することのみに没頭するのではなく、今取ろうとしているアクションが、中期的、長期的にどういう効果をもたらすのか、「時間の翻訳」を考えながら、研究室の改善や自身の研究プロジェクト活動などを行ってきたつもりではあります。
いずれにせよ、「時間」についてもっと考え、感じながら生きていこうと思います。
内藤先生から本の中でヒントをいただいていますが、音楽は時間の芸術であり、最高レベルに純度の高い思考形式である、と。音楽の構成、旋律、リズムなどがエンジニアリングで言うところの何に相当するのか、ゆっくりと考えてみたいと思います。
日本にいたときは、朝、長女と通学する時間がとても貴重なコミュニケーションの時間であったことは、このブログでも何度も書いてきました。今でも、通学バスの乗り場に向かうときに二人で歩くときは、大事な二人のコミュニケーションの場ではありますが、フランスでは圧倒的に次女と二人で過ごす時間が増えています。
自宅から次女のスクールまで徒歩で20分以上かかります。スクールから長女の通学バスの場所までお迎えにいくときは30分くらいずっとおしゃべりしながら歩いていると思います。
今朝も次女と歩いていたわけですが、いろんなことを話しました。
昨日の日曜日にマルシェで子どもたち二人と買い物をしたのですが、最後、ジャガイモを買うのを子どもたちにやらせてみました。長女は日本人学校に通っているので、フランス語の勉強もしていますが、直接フランス人とやりとりすることに躊躇します。一方で、次女はインターナショナルスクール(プレスクールのようなもの)に通っており日本人はいませんので、徐々に度胸が付いてきています。ジャガイモを5つ買うというだけなのですが、結局長女は尻込みし、次女が片言のフランス語で買っていました。
それがとてもうれしかったようで、「ママにあのこと教えてね」と何度も私に言ってきます。今朝もその話が出てきたので、「すごかったね。今度は、ジャガイモもきちんとフランス語で言ってみよう(物を指さすのではなく)。パパもジャガイモ、フランス語で何ていうか知らないから。」というと、とてもうれしそうにしていました。
4歳の次女ですが、英単語もたくさん覚えており、おそらくリスニング能力も付いてきているのだと思います。 「4歳で英語もフランス語もできるようになってすごいね。なかなかいないと思うよ。」と言うと、意欲を高めているようでした。
その後、突然、「百人一首をやりたい」と次女が言いだしたので、「春すぎて・・・」の持統天皇の歌を教えました。「秋の田の・・・」天智天皇、はすでに覚えています。
暗唱して、歌の意味も教えてやりました。意味が分かると言葉の意味も少し分かってきたようで、上手に覚えられるようになりました。
冬のパリの早朝に、持統天皇の歌を歌いながら次女と歩く。悪くありません。
今日は帰りも次女をお迎えに行きますので、柿本人麻呂の歌をやろう、と約束しておきました。
教育とは簡単ではありませんが、根本は意欲を持たせてやることだと思います。
我々のように大学、大学院の学生や、すでにプロとして社会で戦っている人間の教育は、褒めるだけではうまくいかないと思いますが、それでも根底には意欲を持たせてやることが最も大切で、最も伸びる指導法だと思います。
仕事の種類にもよるのかもしれませんが、適切な批判を浴びながら完成度を高めていくプロセスが必要な仕事もたくさんあります。我々の仕事にはそのような側面もあります。
ちなみに昨夜は、奥さんが外で仕事だったので、子供たち二人と川の字で寝たのですが、寝る前に少し私の気分が優れなかったので、「他の二人の良いと思うところを挙げる」というゲームを三周して、みんながとても良い気分になって寝ました。長女が感想を言いたい、とのことで、「自分でも気付かなかった自分の良い点が分かってよかった」と言ってました。
子どもとの時間で教育とは何か、を学んでおります。
文章力は重要と思いますが、身に付けるのは難しい。
フランスに来てから学生たちの文章を添削する機会が非常に増えているように思います。論文の取りまとめの時期の学生だったり、投稿論文だったり、facebookグループでの研究指導だったり。
適切な文章を書かないと、考えていることが読み手に伝わらない。それが最大の問題であって、美しい日本語を書く、という意味ではありません。特に、論文は誤解の無いように伝わらないといけないので容易ではありません。
私も一字一句添削を受ける、という機会はこれまで多くありませんでした。ので、私の文章は、読書、書き方に関する本を通して学んだことや、論文投稿での査読での意見、アドバイスを通して学んだこと、多くの学生たちの文章を添削する過程で学んだことなどによりブラッシュアップされてきました。我流ですので、至らない点も多くあろうかと思います。でも、誤解の無いように伝わることが最も大事だと割り切って、分かりやすい文章を書くように心がけています。
学生にとっては一字一句添削を受けるということが良いのか悪いのか分かりませんが、私と連名で論文が出ていくわけで、40歳という年齢を考えると、私の指導力が評価されていると認識すべきで、やはりこの時期はでき得る努力をすべきと思っています。「フィードバックループ」という概念がありますが、いつまでもその人の心に残り、自身の考えを正しい方向に導いてくれるような教えを、学生にプレゼントすることが教師の役割と思っています。一字一句の添削もしていますが、その合間に、どうすれば良い文章になるのか、というアドバイスを、できればフィードバックループになり得るアドバイスを、心がけているつもりです。
一方で学生は、年齢、経験を適切に重ねると文章力は自然に身についてくると思うので、文章の至らなさを嘆くよりは、前に進む研究力、開拓力の方を大切にしてもらいたいと思います。
形だけ美しい文章で、中身が何も無い、ということの方がよほどむなしいことだと思いますので。
結論としては、愛が重要です。
その愛をどうやって持つかが大事になります。
まずは自分自身を愛すること。これが簡単ではない。大したことのない自分を愛することは簡単ではありません。どんなに美しく見える人だって、年老いて、美を失う過程は逆にもっと苦しいかもしれない。私には想像が付きませんが。
私のように美しくもなく、優れていない点も多々あり、しかし少しは見どころもある、といった凡人が、特に壮年以降、老いていく過程で自分自身を愛し続けるためには、「捨てたもんじゃない」と自分自身を受け入れるしかない。そう思えるためには、人それぞれにいろんなやり方、過程があるのでしょうが、捨てたもんじゃないと自分自身の運命を覚悟とともに受け入れ、自分自身を愛し、周囲に貢献できる自分であるよう自身に投資を続けるしかないと思う。
自分自身の周囲の大事な人たちや、自分の住む家、地域、国土、国についても基本的には同じ。
日本のような自然災害の多い、他の点でも他の国とは異なる点が非常に多い国に生まれた運命を受け止める。運命愛。同胞を愛する。その上で何ができるか。何をするか。
どちらが先なのかは知りませんが、自分自身、家族、周囲の大事な人々、組織、地域、郷土、国土、国家を愛し、そのために貢献できるようにありたい。
フランスという国も、私のような日本人を住ませていただいてありがとうございます。愛とは違うと思いますが、感謝の念、敬意の念を持って接したいと思います。それでよいのだと思います。ただし、フランス人でも私の周囲にいる人々には愛情を感じます。
内藤廣先生の「形態デザイン講義」の5章を読み進めています。相変わらずのめり込んで楽しく刺激を受けながら読んでいます。
これだけのめり込むのには理由があると思います。おそらく、私が内藤先生の考え方、教え方等にあこがれているのだと思います。
非常に多くの書物をこの本の中でも紹介されています。すべて、ではないですが、その多くを私も購入して読もうとしています。この本と出会わなかったら私の人生で決して読まなかったであろう本がほとんどです。その出会いが心からうれしい。
私も、自分自身の講義や講演などで書物の紹介をしますが、その点も似ているように思います。あこがれる、ということは共通性が根本にあります。
この「形態デザイン講義」ではとにかく受講者の若者たちに伝えたい熱情に溢れていて、その姿勢も私が共感を受けるものです。私の一番の売りと言ってもよいかもしれない。
私も多くの方々に教えをいただいて、自分を築いていきながら、後進を指導する立場にもあるわけですが、内藤先生のような姿にあこがれている今の自分があります。
私は実務者ではないけれど、決して象牙の塔にこもる研究者ではない。自身ではどちらかというと実務者に近いイメージを持っています。
徹底して現実の世界で経験し、同志と連携することで少しでも世の中が良くなるように我々のできることを実践し、そこから体得したことを教育という形で還元する。
凡人ですからコンクリートのことをしっかりとやるだけで多くの年月がかかっていますが、本当にコンクリートのことを全うしようとすると、視野を広げなくてはならないし、歴史や文化、経済などのことも知らないとできないように思います。
先ほど、ゲーテの「ファウスト」(岩波新書)の上巻を読み終わりました。ファウストを読むときは、ベートーヴェンを聴くようにしています。二人は仲が良くなかったような噂を聞きますが、ベートーヴェンの交響曲、協奏曲を聴きながらファウストを読むとしっくりきます。本当は仲が良かったのかしら。上巻よりも、下巻のゲーテの生涯が詰まっているそうなので、最終局面ではCivil Engineerという職に就いていることに感銘を受けるとは思いますが、読んでいる時間にも幸せを感じながら読み進めたいと思います。
内藤先生に戻りますが、とにかくこの先生の言うことには説得力がある。博識とバランス感覚と、実務の経験に裏付けされた確信、自信があるのだと思います。
私も非常に未熟ながら、話に説得力がある、とが周囲の評判なので、その素質?を生かして、自身のあこがれる方向に成長していければと思います。
たくさん勉強することも大事だけれど、実践の場を多く与えていただけていることが私の説得力の根源だと自覚しています。これから実践の場は広がる一方だと思いますが、山口システム、復興道路の品質確保という、コンクリート分野では超大物のプロジェクトに最前線で関わらせていただいていることに、再度感謝の念をいだきつつ、今日土曜日は内藤先生の本の5章以降、ファウストの下巻(第2部)を堪能したいと思います。
私のPanasonicのLet's Note一台により,相当なことができ,大変にありがたく思っています。このPCが一台あることで,私がフランスでできることの幅は格段に広がります。質が高まるかは別問題ですが。
内藤廣先生の「形態デザイン講義」を読んで、戦後、高度経済成長期の「化学革命」のことをおぼろげながら認識はしていましたがもう少しはっきり認識し、そして現在は確実に「情報革命」の時代であることを再認識しました。私が高校生のときにはパソコンなど持っている人はいませんでしたので、その進化を肌で感じてきた世代の一人です。
内藤先生は情報革命により、これまでの様々なboundaryが溶解していくであろう、と言われており、数十年先には人間が新たな状況に至る、と予想されてもいます。シミュレーションが人間の自然観を変えるかもしれない、とも言われています。
私が現在、フランスでの生活で感じていることは、高度な情報化のため、場所が離れていることのデメリットをほとんど感じない、ということです。空間による制限からほぼ自由になっているように思います。実際、日本の多くの知人、友人は私がフランスにいるのか、日本にいるのかよく分からないくらいに普通にメールをやりとりしています。ブログやfacebookから情報発信もできます。
今は自宅のソファで、土曜日の朝食後にこのブログを書いていますが、私の太ももには少し体調の悪い次女が甘えて寝そべっています。こんなソファがオフィスの机とほぼ同じ仕事環境になってしまう。これは高度な情報化のおかげです。
一方で、このような情報化の時代に、母国から離れて外国で勉強することの意義とは何だろう、と常々思います。
それを滞在期間を通じて考え、感じていくことが滞在の目的なのだろう、とも思います。
一つ、確実に感じるのは、フランスにいるからこそ興味を持てることがたくさんある、ということです。そもそも、日本にいる限り、フランス語を勉強しようというモチベーションは私には絶対に持てない。 10月や11月に一時帰国した際にも、日本にいる間は全くフランス語を勉強する気になりませんでした。
つい最近は、ゴシック建築にも強い興味を持って勉強を始めましたが、アミアン大聖堂、サン・ドニ教会など、実際に行ってみたい気持ちを非常に強く持ちます。
当たり前ですが、所属している研究所IFSTTARの研究についても勉強を開始しましたが、これもフランスにいるから。
今朝、欧州の土木遺産に関する解説書を読んでいましたが、昨年学生たちと訪れたイギリスのアイアン・ブリッジについて読んでいました。深い解説がなされていましたが、これも実際にアイアン・ブリッジを見たから勉強しようと思えます。
高度な情報化で場所から自由になっているのに、やはり人間は場所と深くつながっている。
誰でもできるバーチャルな経験が本質ではなく、時間とお金をかけて手間暇かけて経験することがやはり大切だと感じる。
しかし、それにしても情報化というのは便利で、勉強したいと自分が思うことをほぼ自由に勉強できます。現在の私の場合、自分で持参した図書、PC内の情報、クラウドにストックしてある情報、 インターネット経由で取得する情報、日本のスタッフに依頼して送ってもらう情報、日本の研究室宛で購入して空輸で送ってもらう本、Kindleなどにより、勉強したいすべての情報を入手できています。これだけ駆使すれば当たり前ですね。
問題は、このような高度な情報環境に身を置いて、またフランスに身を置いて、何ができるか、ということだと思います。手段ばかり高度になり、結局情報に溺れて堕落し、何もなさない愚人にならないよう、常に考え、感じながら大事な時間を過ごしたいと思っています。
勉強したいこと、やりたいことが次から次へと現れて、アクティブな状態になってきました。
インフラ遺産巡りがかなり順調になってきて、まずはパリで家族と日常生活を送りながらでも訪問できるところをたくさん攻めてみたいと思います。ゴシック、ロマネスク建築、土木遺産などの本も買ってきており、それらを参考書に、実践的に勉強を重ねたいと思います。パリから近い、サン・ドニの教会、ベルサイユ宮殿が次のターゲットでしょうか。
読書は複数の本を並行して読んでいる状況で、現在は「逝きし世の面影」「形態デザイン講義」「ファウスト」「PC構造の原点フレシネー」「保守とは何だろうか」「公共調達研究」などです。どれも非常に面白く、束縛するものは何もありませんので、興味の赴くままに勉強したいと思います。読書する意欲も無くなっていた9月ごろに比べると別人のようです。
研究の上での勉強も意欲が増してきており、ようやく、所属している研究室の論文を読む段階になってきました。遅れた理由はいろいろと理由はあるのですが、少しずつ研究所、研究室の研究について勉強を進めていきたいと思っています。また、建設マネジメントの分野の論文収集も開始し、あまり時間をかけないようにさっとreviewしたいと思います。コンクリートの勉強もあまりおろそかにならないようにしたいです。
研究論文の執筆も、これは滞在期間中ずっと続ける話なので、息切れしないよう、マラソンのつもりで少しずつ積重ねたいと思います。 今週末に国際会議論文が一つ完成しそうで、その後、和英のジャーナル論文の執筆に取り掛かります。
フランス語のスピード・ラーニングも、途切れるときもありますが、4巻に入っており、非常に少しずつではありますが、フランス文化が身に付いているように感じます。
家庭の基盤が整ってきたので、少しずつ対外的な活動を増やしていこうと思っています。人に会うことが重要なので、少しずつ段取りを開始しています。JR東日本のパリ事務所に大学の先輩がいることが分かったので、1月に訪問することになりました。
1月には私の指導学生が二名、やってきますので、その準備も始めています。
勉強したいこと、やりたいことがたくさんある、というのは素敵なことなのですが、あれもこれも、にならないよう、後で振り返って良い時間だったなと思えるよう、着実に積み重ねたいと思います。
内藤廣先生の「形態デザイン講義」を読み始め、むさぼるように読んでいます。
しばらく前に石田先生に「構造デザイン講義」をご紹介いただいたのが内藤先生の本に出会った最初でしたが、その後、石田先生の結婚式で内藤先生と少しだけ直接お話しする機会もあり、以来、大ファンになってしまいました。
この「形態デザイン講義」はすごい。本物の教養人のすごさを目の当たりにさせられます。単なる教養人ではなく、デザイナーとして超一級の先生ですから実践に基づく言葉がとても重い。
いろんな建築物、構造物、人、書物を紹介してくださっているので、大変に勉強になります。全7章のうち3章を読み終わりましたが、本を5冊程度注文しました。日本から送ってもらいます。
人間には師が必要です。同志も必要ですが、師はとても大切です。
何度もブログに書いてきていますが、私には多くの師がすでにありますが、内藤先生も心の中での師と思っています。私自身のものの見方、考え方に相当に大きな影響を及ぼしているからです。
藤井聡先生も私にとってそのような存在だと思っています。
コンクリートのことしか知らないコンクリートばかから少しずつ枠を広げて、自分が本来希求している姿に近づこうと努力していると認識していますが、その過程でこれらの先生方の考え方、発信される情報は大変に貴重な道しるべになります。
留学期間中にやりたいことは増える一方ですが、それでよいのだと思います。
研究においても、何においても、フィロソフィーが大切だと思います。
まだ研究のフィロソフィーを語るには早すぎると思いますが、これまでの研究で一つ学んだことがあります。
土木学会の表層品質の研究委員会では私も幹事として参画しましたが、非常に多くのことを学ばせていただきました。その過程で、我々の開発した表面吸水試験も育てていただきました。
私が開発者となっている、表面吸水試験と、目視評価法。
それぞれ異なる技術ですが、共通点があります。それぞれ、測りたいものを直接測っている、ということです。
構造物表面からの吸水抵抗性を測りたいので、それを直接測るのが表面吸水試験。
構造物表面の出来栄えを直接測りたいので、目視という究極の非破壊ですが、直接目で測定するのが目視評価法。
その他いろいろな測定手法が開発、研究されていますが、本当に測りたいものを直接測っているものは少ない。もしくはほとんどない。本当に測りたいものを何かに置き換えて測っているものが非常に多い。
これは重要なポイントだと思っています。
簡易な試験が現場で求められるのは分かるが、本当に測りたいものから逃げて簡易化を図っても、発展性は乏しいと思います。
この辺りの私の見解が正しいのか、そうでないのかは、これからの実務プロジェクトで検証されていくと思いますが、測りたいものに真っ向勝負で挑んだ表面吸水試験、目視評価法の発展性が非常に大きいことを、私は実務プロジェクトの中で学んでいます。
特に目視評価法については、いろいろと文句を言われたこともありますが、大抵の文句を言う人は文句を言うことが目的(ものよりも、その先にある人に不満がある場合がほとんど)なのであまり相手にしませんが、相手にしない理由は私が明確なフィロソフィーを持っているからです。文句の言い合いほど不毛なことはありませんので、言い合いはしません。私は実務プロジェクトで淡々と結果を出していくつもりです。
二つの手法が、復興道路を中心に本格的に試されようとしています。ここからが正念場だと思いますので、真っ向勝負を続けたいと思います。
facebookでは子どもたちのために作ったお弁当の写真を記録に残しておりますし、ブログでも何回か書いていると思いますが、私は料理が好きなようです。
今日は子供二人のお迎えで、スーパーで夕食の食材を買ってから家に帰りました。
どうも長女の機嫌が悪く、対話をしてみましたが帰宅しても非常に機嫌が悪く、少し扱いに困る状況でした。
次女は、私の夕食作りを手伝う!と言っていたのですが、静かだなと思って彼女の部屋をのぞいてみると眠ってしまっていました。
少しくつろいだ後、夕食を作ろうと長女に声をかけたところ、かなり機嫌も直っていて、手伝ってくれました。
夕食を作りだすとどんどんと楽しくなってきたようで、二人で盛り上がりながら仕事を分担して手際よく進めました。
今日は、ハムも入ったポテトサラダ、サーモンのムニエル(バター醤油で仕上げ)、ボイルエビと白米です。
パリで食べるジャガイモが非常においしく、そのおかげもあってポテトサラダは非常においしくできました。
子どもと料理をすると、よく会話するし、手際良く仕事をするということがどういうことなのかを語り合いながら楽しく仕事できるし、おいしい料理をつまみ食いもできるし、とにかく楽しいです。
私が料理を好きな理由は、創作力が試されること、ちょっとした工夫をいくらでも施せること、手際よくやる訓練になること、健康にいいものを自らも、家族にもおいしく食べてもらえ、喜んでもらえること、毎回の成果が味という厳然たる評価を受けること、家族の健康が増進されること、などでしょうか。土木工学の研究とも何か通じるものがあります。
今日は料理をしながら、私が料理が好きな理由も長女に伝えました。上手に仕事をするやり方を父親から盗みなさい、とも伝えました。
奥さんは帰宅が少し遅いので、三人でワイワイと楽しくおいしく夕食をいただきました。また、私が上記と同じような理由で楽しくお弁当作りをしていることも二人に伝えました。楽しい夕食でした。
すっかり機嫌の直った長女にお風呂の準備もしてもらい、その間に私は若干の仕事です。
ちょっとレパートリーが増えると格段に料理は楽しくなるので、少しずつ技を増やしていこうと思います。