「進歩する建設の本音と建前」 伊藤 美輝
土木技術は、日々進歩している。1960年代にNATM工法が開発され、山脈を超えて交通網が形成され、日本の発展に寄与した。2000年代にはエクストラドーズド橋が初めて日本で施工され、橋梁の幅を広げている。近年では、3Dプリンターを用いてコンクリートを打設する取り組みも行われている。
しかし、「新しくかっこいいものを作って終わり」でいいのだろうか?本日の講義でもお話しいただいた通り、土木構造物は世紀を超えて残り続けるポテンシャルを持つものだ。「作った後、残り続けさせられるか」も重要な観点である。もちろん、人が問題なく使えるレベルで残り続けることが要求される。
そのため、維持管理が重要だ、ということはこの15回の講義を通じて肝に銘じることができた。(正直、この授業を受けるまで維持管理はオマケのようなものだとどこか思っていた自分がいたので、その認識を改められて本当に良かった。)
しかし、維持管理の難しいところは、オーダーメイドで作られた土木構造物であるため、維持管理もオーダーメイドでやる必要がある、という点だ。しかも、維持管理の場合、「構造」×「使用条件」×「気候」×「材料」…様々な要素を考慮する必要があるため、設計や施工の時よりも多くの組み合わせを考慮して、その構造物に合った措置を行わなければならない。
この組み合わせの数は膨大なものだろう。それ一つ一つに「このパターンはこれが解です」と用意されていたら、驚きである。しかも、冒頭で触れた通り、土木構造物は年々新しい構造や工法が生まれている。構造と維持管理の方法は1対1対応ではないため、この土木技術の発展スピードに、維持管理の対応方法の研究スピードが追い付けるはずがない。つまり、維持管理はその場その場で対応を考える必要があるのだ。
しかし、人の命を預かる土木構造物。「直感でこの修繕が良いと思ったのでそうしました」なんて言えるはずがない。維持管理の選択には「根拠」が必要だ。ここが、本音と建て前を生む原因になっていると感じた。
本音は、「進歩して変わりゆく土木技術、それぞれに明確な維持管理の解は見つかっていない。だから、調査に時間を使うか、直感でも判断させてほしい」である。しかし、貴重な税金を使う以上工期を長くはできず、根拠もないのに修繕にお金を使うことはできない。こうしたジレンマの中で、もっともらしい理由で工期を短縮したり、予算をおろしてもらうために、建前ワードが使われるのではないだろうか。建前ワードとは、「建設から50年経ち『老朽化』で悪くなりました」「『経年劣化』で錆びました」というようなものである。年数経てば悪くなるよね、という世間一般常識の論理ですべて片づけられてしまうのだ。
このようにしてお金と修繕の理由がもらえれば、修繕を実施することができる。
この建前の問題点は、これを「建前」だと技術者が分からず、本当に建前が理由で修繕の必要があると思い込んでしまうことである。上田さんもおっしゃっていたが、土木構造物の劣化には経年以外の理由が必ずある。それが何であるのかをきちんと見極めて修繕しないと、お金と時間をどぶに捨てることになってしまう。
それでは、この問題点はどのように乗り越えられるだろうか。私は、とにかく「現場ファーストの精神」を持つことが必要だと考える。まず、現場をじっくり観察し、使用条件や構造物の挙動などを見る。これによって、「修繕方法」ではなくまず「変状の原因」と「性能への影響」を判断する。これをしてから初めて、示方書や教科書を読み、対応・修繕方法を考えるべきだ。もちろん、時間があれば上田さんが行ったように、実験を重ねて対応を考えることもしたい。これによって、現場で今必要とされる対応がきちんと判断できると想像している。
建前が前に来て、現場に行った際に「鉄筋が露呈してます、経年劣化ですね」と判断してしまうと、本当に効果のある修繕方法やお金の使い方を見失ってしまうだろう。
土木の維持管理には、分かっていないことが多い。その本音を隠すための建前を、建前と認識し、「分かろう」と努力する姿勢が、土木技術者に求められていくだろう。
「土木と社会学」 西浦 友教
土木はどのように社会に貢献していくことができるのか。私自身、最近このことについて今一度考えることがある。都市基盤学科に入学したことで、社会基盤インフラの重要性を十分とは言えないがある程度までは理解した。さらに、その社会基盤インフラが多くの人々の生活を支え、暮らしをより良いものにしていることも日々実感している。しかし、冒頭で述べた「土木はどのように社会に貢献していくことができるのか。」の問いの中に含まれる「社会に貢献」に必要な要素として、人間が生活の中で実感する社会基盤インフラの貢献力と同水準で重要となるのが、社会学に基づく意識であると感じるようになった。
個人と個人、集団と集団、あるいは個人と集団などのような社会生活のなかでの人間同士の関係のあり方、社会のしくみそのものを探る学問が社会学であるが、この社会学の意識が細田先生の言う「頭を使え。本質に目を向けろ。」という警告にも通じていると私は受け取っている。土木を学んでいる私たちに限ることなく、多くの人が実感することのできる社会基盤インフラのもたらす貢献力であるが、このような、言わば「物理的」な貢献のみに土木を学んでいる者が満足することで、教科書のようなマニュアルに頼った対応しか取ることができず、本質に気が付かない維持管理がはびこるのではないかと考える。
土木を学んでいる者が、社会基盤インフラのもたらす「物理的」な貢献力のみに満足しないために重要になるのが社会学の意識であると述べたが、その例として、ドイツの社会学者であるマックスウェーバーの主張、「自分の仕事に専念して誇りをもつことは、確実に高い生産性をもたらす態度だ」という考え方がある。この考え方こそ、「物理的な貢献力のみへの満足」と対をなす意識であるように受け取れる。もちろん、マックスウェーバーの主張にある「自分の仕事に専念して誇りをもち、確実に高い生産性をもたらす態度」を取ることはそう簡単ではない。しかし、社会や大学など自分が身を置く環境において身の回りの人から「自分の仕事に専念して誇りをもち、確実に高い生産性をもたらす態度」を感じ取る機会は少なからず存在する。社会に出た際、教科書のようなマニュアルに頼った対応しか取ることができず本質に気が付かない人になることなく、自分の仕事に専念して誇りをもち確実に高い生産性をもたらす態度を取り続けることができる人になるため、学生という社会に出る前の訓練の場を大切にしたい。それにあたって、細田先生の言う「学生はいくら失敗したって良い」という言葉がとても後押しになると感じている。そのような環境の下、土木と社会学の関係性に目を向けながら成長していきたい。
「何のためのメインテナンスなのか」 佐藤 鷹
インフラは維持管理の時代だという。土木に関連するメディアを流し見ても、建設後50年を経過するインフラ数の増加グラフや、既存構造物のリニューアル工事の情報が頻繁に目に飛び込んでくるように、世間で目下注意が注がれているのは、かつて造り出されたインフラが今後どのように振舞っていくのかという、至極受動的なもののように感じてしまう。新たに造られるインフラがどのようなものであるかというような、ある種華やかなで主体的な情報を目にする機会が、先の受動的なそれよりも少ないというのは疑いようもないだろう。少なくとも、ここまでメインテナンス工学の授業を受けてきた私には、メインテナンスこそ現代土木の宿命のような、そんな縛り付けの雰囲気さえ感じられてしまっていた。
何のためのメインテナンスなのか。それは「社会・経済活動の下支え」というインフラ供用の大目的を果たすためであろう。その目的のために我々はインフラの修理・点検を丹念にやり抜くのである。しかしさらにここで多くの人々は、その修理・点検というメインテナンスをより丁寧なものにするために、一層の時間をかけようということに思いが及ぶかもしれない。これは一見すると、豊富な時間というものがより丁寧な作業機会を提供してくれるため、結果的にインフラの寿命を延ばし、先に挙げた「社会・経済活動の下支え」という目的達成に資してくれるように思えてしまう。豊富な時間が修理・点検の精度を押し上げてくれるのではないかという期待が人々に覆いかぶさる。
しかしながらこの論理展開には誤りがあるといっていい。その誤りとは、時間をかけるということが「修理・点検の精度を上げる」という別の目的のために出てきたという事実である。すなわち「社会・経済活動の下支え」という大目的達成の手段であるはずのメインテナンスが、新たな目的になってしまっているのである。目的と手段を取り違えてはならない。我々は「社会・経済活動の下支え」のためにメインテナンス工学を学び、「社会・経済活動の下支え」のためにインフラの修理・点検をやり抜かなければならないのである。単に「修理・点検の精度を上げる」ために時間をかけていてはいけない。
したがって我々は、メインテナンスの重要性が叫ばれる時代であっても、「社会・経済活動の下支え」というインフラの大目的を決して忘れてはならないのである。逆に言えば、これさえ胸の裡に掲げておきさえすればよいといってもいいだろう。そうすれば、維持管理の時代だといわれる現代であっても、メインテナンスの時間はかけ過ぎず、新しい技術やインフラを生み出すという当然の考えが自然と出てくるようになる。そういう主体的で華やかな考えは、現代においても間違いなく不可欠なものといっていい。メインテナンスが宿命などというのは全くのお門違いで、そういう主体的な活力こそ日本の新たな原動力となるのである。
これまでの授業ではメインテナンスの基準が性能ベースであるということを学んできた。しかしながらこの言葉はメインテナンスそのものにも適う言葉でもあるだろう。ひび割れが構造物に影響を及ぼすか否かというように、そもそもメインテナンスが日本の社会・経済活動という大きな構造に資するか否かというような具合である。仮にそれでメインテナンスそのものが性能ベースで必要ないと判断されれば、その時間を新たな技術開発やインフラ建設に割いてやればよい。「何のためのメインテナンスなのか」というこの単純すぎる問いは、あるいは今後のメインテナンスの在り方を見つめ直す、存外重要な羅針盤なのかもしれないとも思ったりしている。
「維持管理の変遷」 飯田 理紗子
ここ数ヶ月ほど、我が国における数多くの橋梁や道路などのメインテナンスについて学んできた。今から50年ほど前の高度経済成長期以降にインフラが大量に建設され、近年は既存のインフラの点検や維持管理をしっかりと行う重要性がしきりに叫ばれている。我々の住む社会をこれから先も維持し、さらに発展させていくためには、便利かつ安全性に信頼のおけるインフラが求められる。しかしその一方で、時間やお金には限りがあるため、すべてのインフラについて、何から何まで点検したり補修作業を行ったりすることは到底できないことである。我が国には数えきれないほどたくさんのインフラが存在しており、今後さらにインフラの老朽化が進んでいくことを踏まえると、こういった数多くの既存のインフラを少しでも効率的に管理していくことが重要であるだろう。そこで、今こそ従来のインフラの維持管理システムを見直し、必要な作業・不要な作業を見極める時であると考えるようになった。今回の論文ではその理由を示すと共に、今後インフラをどのように扱うべきか述べていこうと思う。
我が国におけるインフラの整備に関する歴史は長く、古くから数多くのインフラが人々の生活を豊かにしてきた。ここでは、日本の歴史上のインフラの維持管理の例を挙げながら、そこから学べることを示す。まず、奈良時代に定められた、養老律令の「営繕令」のうち「津橋道路条」について例を挙げる。この時代、橋や道路について毎年9月半ばから10月中に修理を終わらせるように定められており、もし通行ができないほど損傷が激しい場合はすぐに人手を一気に投入することにより少しでも早く復旧することが目指された。ここから1000年ほど経った江戸時代に整備された五街道は、参勤交代を行う大名のみならず一般人の通行にも利用されることが多く、街道に関する大工事は大名を中心に行った一方で、日々の維持管理は沿道の宿駅や村によって行われた。また、下水道についても各町で協力して下水溝の清掃や補修が行われたと言われている。
国を統一することで軍事的にも強い国家をつくることが主な目的であった奈良時代は、インフラは「国を強くするもの」という位置づけであったのに対し、江戸時代には「人々の生活に欠かすことができないもの」という位置づけに変化しているように感じた。もちろん、どちらの位置づけもインフラの果たすべき役割であることは間違いないが、その時代ごとのインフラの背景を理解することは、そのインフラの扱い方を理解することに繋がると考える。つまり、インフラの数や使用材料、目的、それを利用している人など様々な観点を踏まえると各時代でこれらが異なっているため、インフラの維持管理方法はその時代に合わせて適宜柔軟に考えていく必要があるのではないだろうか。
では、今後既存のインフラについてどのような目的を持ちながら維持管理すべきだろうか。インフラの老朽化が進んでいるなかで高効率化が求められているため、重要なことは「何を省力化すべきか」「人々にどのように扱ってもらうか」の2点であると考える。今回の講義では、橋梁の伸縮装置には非排水型のものを取り付けることで構造物の「隙」を減らすことに関するお話があった。伸縮装置を通り抜けた水が橋の外に排出されることで腐食の機会を少なくすることに繋がるため、橋の点検が短時間で済んだり補修の手間が少なくなくなったりする。しかし、構造物中になるべく水を侵入させたくない、という思いがあるにも関わらず構造物に排水計画すら定められていないと、点検時に隅から隅まで「隙」の有無を調べなければならなくなり手間や労力がかかってしまう。これより、点検や維持管理を行う際には、宝探しのようにどこに壊れそうな箇所があるかについて調べることに全力を尽くすのではなく、予め計画を立てておくことで壊さない努力をすることに尽力することが重要であると言える。また、このような合理的な維持管理システムを構築していく場合、その一方で手薄になってしまうインフラが必ず出てくることが考えられる。よって、そうした構造物については前回講義に登場した福島県の事例や、前段落で紹介した江戸時代の事例のように、住民と協力して維持管理を行うように試みる取り組みも同時に進めていくことも必要であるだろう。このように、時の移り変わりと共に変化していくインフラの置かれる状況に敏感になることにより、メインテナンスの在り方をその都度考え直していくことが今後重要になってくるのではないだろうか。
参考文献
・国土交通省「社会インフラの歴史とその役割」
https://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h25/hakusho/h26/html/n1111000.html (閲覧日:2023年1月20日)
・大宝令新解 第3冊(第5-7巻)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/926859/1/80 (閲覧日:2023年1月20日)
「"30"と"50"。数字に隠されたメッセージ」 伊藤 美輝
維持管理の授業では、必ずと言っていいほど「建設後長い年月が経過し、老朽化が進んでいます」というコメントと共に、インフラの経過年数とその数を示すグラフを掲載したスライドが出てくる。本日の授業でも、「維持管理の抱える課題」という内容の冒頭で該当する内容のスライドが出てきた。しかし、本日の講義では違和感を感じたことがある。それは、建設後「30年」経過する道路に着目していたことだ。普通、建設後「50年」が指標にされやすい。それなのになぜ30年を指標にしたのだろうか。
まず、「50年」という指標の意味を考える。
以前、東工大の伊藤雄一先生が横浜国大にて「橋の老朽化と安全 -建設後50年を超過した構造物は危ない?-」という題目で講義を行った。そこで、伊藤先生は「健康診断を行っても、50年経過したら悪い橋が増えている、というわけではなかった」と話していた。「高齢化は事実だが、老朽化とイコールではない」と主張する。その理由として、構造物は取り換え不可能な部品はないので、取り換えを考えて設計されて居れば寿命は来ない、と述べていた。そして、最後に50年の理由として、設計施工ミス、維持管理が行き届いていないものに「年だからしょうがない」ともっともらしい理由が付けられるから、と話した。悪い桁であれば10年くらいで事故を発生させる、とも。
まとめると、50年で寿命が来るのではなく、健全でなくなった部品を取り換えれば何年でも持つ、ということである。つまり、「50」という数字にはあまり意味がないということである。統計的には50年経つと劣化割合が増加するのかもしれないが、全ての構造物に当てはまるわけでもない。ただし、構造物が劣化していくのは事実なので、そこの修繕費用を獲得するために、「50年経ったので」と分かりやすい指標を用いることで、経費を獲得できる、というメリットがあるのでは、と想像した。
それでは、今回はなぜ「30年」という指標を用いたのか?一般人からすると、「30年ならまだ大丈夫だから修繕必要ないのでは」と思われてしまいそうである。
ここで、私は従来の、水みちのできやすい「矢板工法」を用いたトンネルがNEXCO中日本の管轄内には多いから、30年という指標を用いているのではないか、と予想した。矢板工法は、継ぎ目が多いので、そこが弱点となりやすいという説明があったためだ。
この予想を裏付けるため、間渕ら(2016)*1がトンネル台帳のデータを整理した論文を読んだ。それによると、現在供用中のトンネルについて、建設後20~30年経過した矢板工法のトンネルの内、Ⅱbより悪い判定を受けた割合は50%ほどである。これは、NATMのそれの60%とさほど変わらない。さらに、30~40年経過した矢板工法のトンネルはⅡbより悪い判定を受けた割合が80%であるが、40年、50年と経過年数が大きくなるほど悪い判定を受けたトンネルが少なくなる。これは、恐らく「矢板工法は変状が起きやすい」という事実を職員が把握していて、修繕に力を入れているためではないだろうか。
このデータだけでは、修繕によって判定が改善している可能性があるので、平成26年の判定と、それ以前の最新の判定結果を比べて、悪化している割合を示したデータも参考にしてみる。前の判定からの経過年数が書かれていないので、断定はできないが、矢板工法の方がNATMより「悪化した」「やや悪化した」というトンネルの本数が約2倍多く、特に漏水では顕著に多いことが分かった。これより、NATMよりも矢板工法の方が、劣化しやすいということが言えるだろう。
これより、やや強引だが、「NATMより矢板工法は短期間で劣化する」と結論付けた。そのため、矢板工法のトンネルが多いから「30年」という短い指標を用いているという推測は、あながち間違いではないと考えた。
以上の推論から、一つのことを学んだ。それは、「技術者は一律の修繕年数ではなく、個々のインフラに合った修繕年数を適用できる必要がある」ということだ。今回の例の「工法」以外にも、「インフラの種類」「周辺環境」「施工状況」「設計条件」等でも修繕の間隔は変わってくるだろう。「50年」といった分かりやすい一律の指標は、一般の人々を説得するには必要だが、全てのインフラの機能を維持する使命を持つ技術者は、この視点を忘れないようにするべきだと感じた。
<参考文献>
*1 間渕利明, 稲本義昌, 高木 繁, 上原勇気. 道路トンネルの定期点検結果の概要と傾向分析. 土木技術資料, 58-8, 2016. https://www.pwrc.or.jp/thesis_shouroku/thesis_pdf/1608-P020-023_mabuchi.pdf
『自由に対するエネルギー』 河野ひなた
メインテナンス工学や昨年度受講した土木史と文明の講義では毎回のレポートが課されているが、週に一回こうして自分の考えや感じ方をアウトプットする機会があるのは恵まれたことだと感じている。というのも、考えをアウトプットすることは大変である。まず、ぼんやりと考えて思っていることを明確にすることが大変である。明確にしたら今度は自分の伝えたいニュアンスで伝えるために適切なことばを選ぶ過程へと移る。理系の人間であってももちろん、人に伝わるように言語化する能力は必要である。そして書いているうちに話と話がつながらない点や矛盾が起きているとそれを修正する……といった作業が必要となってくる。一般に疲れる作業であるアウトプットをこうして課題として出されることで、やるべきこととなって義務感が生まれる。特に私のような面倒くさがりで、何事も後回しにしがちな人間には効果的である。
レポートの内容に関しては、講義内容,質疑応答から学んだ知識を踏まえて書くとされていて、内容が縛られておらずいわば自由である。このとき、福田恆存の「私の幸福論」の内容に触れた説明にもあったが、自由に書いて良い、何字でも制限はない、好きに書いてくれと言われても困ってしまうものである。そうした時に、各回の講義のテーマに基づいて文章を書けるのはやはり文章を書くには絶好の機会である。
実際、自分の意見を色濃く反映したレポートの評価が高いことからも、先生や、先生に限らずその他の人が読んでいて面白いのは、自分の意見があって伝えたいものがある文章だろう。本講義は知識をつけるための講義であるとともに、自分の思ったことを自分の言葉で言語化する練習にもなっている。人が何か文章を書くときは何かを伝えたいときである。レポートだからといって嫌々書かされるのは勿体無い。私は一般的でない特殊な考え方や持論を持つことがあり、それらの話をどううまく絡めて話せるか、隙あらば話してやろうといった気概で文章を書いている。きっと細田先生も同じだろうと講義を聞いていて感じている。
この論文形式のレポート課題について考えを述べたが、これを書いたのは細田先生による講義がゲストの専門家の先生の講義と比べて掴みづらいといった意見があったためである。専門的な知識を持って知識を増やすことも大切であるが、こうしてレポートに持論を展開する余白があるのが細田先生の講義であると感じている。いわば自由を成り立たせる枠である。
さて、今回の技術的なメインテナンスの話では、ひび割れに注目したメインテナンスについての話であったが、性悪説や性善説という例えも上がった。
メインテナンスにおいて手間のかかるのは、施工不良による初期欠陥がほとんどだという話を聞く。仕事の手を抜く人や欠陥を招いてしまった人が悪人であるかという話は置いておいて、性悪説を唱えて厳しい検査基準を設けるのは仕方のないことであると考える。それは人間のつくりとして、もともとやる気に満ちているようにはつくられていないからだと考えている。
先日、災害の起こった際の人の心理について述べた本(「人はなぜ逃げおくれるのか──災害の心理学」)を読んだ。その本には、避難行動が遅れる原因として、人間はストレス緩和のために突然降りかかってきた危機や異常に対して鈍感につくられているとあった。先ほども述べたように、元来人間は勤勉に働くようにできていないため、現場において施工時における作業が完璧に行われてないとするのは、妥当な判断であるのではないかというのが私の考えである。
現場の工夫として細かな作業項目を決めることで、何の初期不良もないきれいな構造物ができるだろう。ただ、細かく作業項目が定められていては仕事をしていても窮屈である(と少なくとも私は感じる)。そもそも思考の必要ない作業は将来的に機械に任せてしまえばいいとも考えている。人間の関わる仕事であるならば思考の余地が残るものをと考えてしまう。ただ、福田恆存の例にもあったように、考える余地があるもの自由にできる幅のあるものには、欲求・能力・責任がないと自由に動くことができない。仕事に対する情熱やエネルギーがないとその自由はただの無為になってしまうのである。仕事への個人の意識の差がこのような事態を生んでしまっているが、仕事に対する姿勢はそれぞれであるのでミスの可能性の少ない仕事を皆皆に行ってもらうのは難しいという結論に至った。
「講義を通して何が変わったか。」 大木 陽介
土木史と文明Ⅰ、Ⅱを通し、私が得た知見は何だろうか。それはやはり「ストック効果という概念の獲得」に集約される。
私たちは日々、様々なインフラに囲まれ、また支えられている。しかし、それを自覚し続けるのは難しい。それらはいつしか「当たり前」になっているからである。電車が時間通りに走っていること、車に乗ってどこへでも行けること、お店には毎日新し商品が入荷すること、そのどれもがインフラ無くしてはあり得ないものであることに、私たちは気づかない。例えば新しくできた道路であれば、暫くはその利便性に感心するかもしれないが、すぐに忘れてしまう。しかし、それらはいずれも、誰かが作ったものであり、また誰かがメンテナンスし続けているものである。そのことに意識を向けると、身の回りにある「先人の遺産」に目が向き、感謝の気持ちやこの国への誇りも芽生えるはずだ。
また、別の側面としては質の悪いインフラは害を吐き続ける、という事も挙げられよう。既にあるものに対し、「そういうもの」として流すのではなく批判的思考で疑問を持ち、また改善すべきものについては放置するのではなく、思い切って改善しなければならない。この考えに至ったのは講義の半ば辺りだったが、経路依存性と言う言葉が出てきたときには「まさにこれだ」と驚いた。
改めて考えれば、―CMで知ったのだが―毎日の深夜‐早朝に鉄道レール総点検が行われているなどと言うことは、驚嘆すべき献身であり、感謝すべきことである。逆に、一向に進まない道路、鉄道の整備については、しっかりと批判の目を向けなければならない。それらは決して不変ではない。メンテナンスを怠れば朽ちるし、改良することもできるはずだ。
最後に、ストック効果について学ぶには、2つの方法があると思う。1つはこの講義のように、その背景にある苦労、犠牲、そしてその成果を学ぶこと、そしてもう一つは、それを失うことである。しかし、「失ってはじめて気づくありがたみ」などと言う愚は絶対に避けなければならない。そこで、学校教育の出番であろう。「未知の世界と引き合わせる」という事が、学校と言う場の最大の教育効果だと、私は思う。
あとがき
私は理工学部の数理科学EPの所属であり、一般教養として受講した。そのため、他の受講生に比べ土木に関する知識では劣っていたと思う。(何せ、受講前は全くと言うほど土木に興味が無かった。時間が丁度良いという理由で、気まぐれから登録したのである。)しかし、それを補おうと調べ、自分なりに思索を巡らせた結果、論文の幾つかはブログに取り上げて頂くことが出来た。「計算」が今の自分の本業ではあるが、その分自由に、かつ一生懸命考え、それを先生にぶつけることが出来るこの講義は充実していた。
「土木工学を選ぶ理由」 朱 新達
土木工学の黄金時代は終わったか? 日本のような先進国であれ、中国のような新興国であれ、土木工学というような専攻は以前ほど人気がなさそうである。土木工学という専門を選択した人数の低減していることがわかるように、土木工学の人気は高くない。しかし、人数の減少のみ結論を出すのは謹慎であるか。実際に、業界の発展は、人気があるかどうかだけでなく、その業界で実際に研究を行っている人々の力に依存するはずである。 日本で就職するときに、仕事と専門の関連性は想像のように高くなく、逆に大学との関連性が高いことがわかる。同様に、土木業界に関しても、求められる人手は必ずしも土木専門家であるとは限らない。 一部分の仕事は技術性が低く、誰でもできる仕事である。しかし、土木業界の雇用者数が減少したからといって、土木業界が沈没期にあるとは言えない。 たとえば、機械工場には多くの機械作業員が必要であるが、実際の機械技術者は少数かもしれない。 大学に行く人は、必ずしも将来のキャリアは自分の専門は同じであるわけではない。社会は篩ようなものであり、本当に才能がある人のみが残される。現在の社会状況を考えると、土木工学を本気で学び、社会のために価値を創造したいと考える残りの人材の質は確実に高くなる。つまり、本当に土木を学ぶために大学に入学する人は、必ず土木のどこの分野が好きだと確信する。
もし土木が嫌いな人や、何をしてもいい人がこの専攻に入ったら、学校の職務怠慢だと考える。 それは資源を浪費するだけでなく、本当に土木工学を学び、社会に価値を創造したい人々の未来を奪うと思う。
大学の専攻に対する意識の欠如は、現在の高校教育の不十分さの一部だと考える。 多くの人は、大学に入学するまで、自分の特長と自分がやりたい仕事はよくわからない。もちろん、自分は自分を知ることは大変難しいことであるが、少なくとも自分の愛好がわかるべきである。 現在、最も人気のある専攻は心理学、情報学、情報工学である。毎年にたくさんの人は情報工学に入学したが、この中に本当に情報工学に興味がある人の数はそんなに多くないと考える。なぜならば、大衆は盲目的にメディアに従うからである。 この専攻に入っていれば、好むと好まざるとに関わらず、将来必ず豊かな人生を送れると考えるからである。しかし、現実は必ずしもそうではない。 同じ原則がさまざまな選考に適用される。 日本の医学部で学ぶ人は本当に医学が好きなのであるか?本当に病気を治し、命を救うという心で医学部を選択したのであるか? それとも、子供の頃から成績はずっと優秀なので、医学部に進学するのは当たり前のことであろうか?私の考え方では、この社会の人々は一般的に2つの生き方をしている。 一つは主に物質を追求すること、もう一つは主に精神を追求することである。現実世界で両方の良いものを持つことは不可能である。私は、人生をかけて物資を追うことに反対しているわけではない。しかし、社会全体から見れば、誰でも本当に自分の好きなことをやり、自分の才能を最大限に発揮し、個人の幸せな成果という目標を達成すれば、豊かな社会と言えると考える。宇沢弘文著「社会的共通資本」にもある:ゆたかな社会とは,すべての人々が,その先天的,後天的資質と能力とを充分に生かし,それぞれのもっている夢とアスピレーション(大望,向上心)が最大限に実現できるような仕事にたずさわり,その私的,社会的貢献に相応しい所得を得て,幸福で,安定的な家庭を営み,できるだけ多様な社会的接触をもち,文化的水準の高い一生をおくることができるような社会である。人生は、自分が好きなことをやるべきである。
「歴史の教科書に高杉晋作を載せよ」 横山 大翔
私は塾講師として社会を教えている。受験に合格させるための勉強を教えるので、教科書に沿って教えていかなければならない。教科書に載っていることは偏っている内容も多くもどかしさを覚えることも往々にしてある。特にそれを感じるのが幕末について教える時だ。今日授業で触れた「高杉晋作」は教科書で大きく取り上げられることはまずない。しかし、私は幕末の第一功労者は西郷隆盛でも木戸孝允でも坂本龍馬でもなく、高杉晋作であると考えている。
高杉晋作は長州藩の家臣の嫡男として生まれたものの、やんちゃで横暴な性格だったそうだ。ところが、運命の師、吉田松陰に出会って人生が変わる。吉田松陰の松下村塾では、身分関係なく学びたい人が学ぶ場であったそうだ。藩の学校とは違い、個性を伸ばすことや議論をすることに焦点が置かれ、ライバル久坂玄瑞と競い合いその頭角を現していった。この後、吉田松陰は安政の大獄によって処刑されるが、これがきっかけで高杉は幕府に不信感を持つ。
成長した高杉は藩の命令で上海に渡る。そこで、アヘン戦争で負けて実質的にイギリスの植民地となっている清の様子を目の当たりにして、日本が変わらなければならないことを悟る。これが、高杉が倒幕運動に動き出す直接的なきっかけとなる。帰国後、弟分であった伊藤博文とともにイギリス公使館を焼き討ちしたなどのエピソードは有名だ。
ただ、このころ長州藩は苦境に立たされていた。長州藩はもともと京都で権力があったが、8月18日の政変や池田屋事件により失墜した。その権力を盛り返そうと翌年、長州藩は天皇へ直訴するため京都へ兵を出した。高杉は反対したが、かつてのライバルであった久坂が軍を起こした。しかし、京都で薩摩や幕府軍に敗北を喫し、長州軍は総崩れとなった。禁門の変と言われる。この結果長州は幕府の敵となり、また朝敵ともなってしまった。これにより幕府による第一次長州征伐が始まり、長州藩は幕府に降伏した。
一方それより少し前に、藩内での尊王攘夷運動の高まりから、関門海峡を通るアメリカ、イギリス、フランス、オランダの船を次々と砲撃していた。しかし翌年、報復として4か国連合艦隊が下関に現れ、下関を占拠された。下関戦争という。
この時点で、長州藩は欧米4か国と朝廷と幕府を敵に回しており、悲惨な状況であったのは言うまでもない。ここまでくると藩が崩壊するのが普通だが、高杉晋作はこの絶望的状況の長州藩を立て直す。第一次長州征伐、下関戦争は1864年だが、3年後に1867年に幕府を倒すのだから、3年間でとんでもないことが起きているのが分かると思う。
まず、高杉晋作は4か国連合艦隊との和平交渉に乗り出す。彼は降伏する側であるにもかかわらず一切引かなかったという。砲撃は幕府の方針によるものというのをひたすら貫き、賠償は幕府に請求することになった。また、彦島の接収も条件に合ったが、古事記を引用し日本の領土は渡せないことうを伝えこの条件もはねのけた。最終的に外国と仲良くなり、外国の最新鋭の武器を多く手に入れることができた。敗戦処理とはとても思えない状況である。彼は手に入れた武器を使い、奇兵隊を組織した。というのも長州は幕府に負けて以降、幕府に恭順な勢力が藩政を仕切るようになっており、高杉はこれを討伐する必要があったからだ。彼は上海で見た光景から、今の幕府のまままでは植民地になることを悟っており、幕府を倒すために立ち上がったのだ。奇兵隊は武士だけではなく、農民や町人も混ざっていて、兵数も500人ほどだったが、最新鋭の武器と、松陰直伝の西洋式の戦術の数々を徹底的に叩き込んでいたため最強であった。長州藩の本拠である萩城を乗っ取り、恭順派を一掃した。また木戸孝允など各地に逃げていた優秀な長州藩士を呼び戻し藩の改革を進めた。これにより再度幕府に対して敵対する態度をとった。幕府も黙ってみているはずがなく、第二次長州征伐が確定した。第一次長州征伐から2年後の1966年のことである。
この時点では山口vs全国という状況であるが、ここで薩摩を幕府側から寝返らせることに成功する。薩長同盟である。強力に味方を獲得した長州は攻め込んできた幕府軍を圧倒した。高杉によって西洋式に鍛え上げられていた長州軍はたったの2年間で幕府をも凌ぐ戦力になっていたのだ。幕府をたたきのめし、さらには幕府側の重要拠点小倉城を落とすことに成功した。
そしてあとは教科書にある通り、幕府は大政奉還をして、明治維新を迎えた。残念ながら高杉は大政奉還の直前に結核にかかって非業の死を遂げる。しかし高杉の盟友木戸孝允や弟分の伊藤博文は明治政府で大きく活躍することになる。
高杉がいなかったらおそらく長州藩は幕府の犬に成り下がっていただろう。もしそうなれば薩長同盟が成立することもなく、幕府が倒れることもなかっただろうから日本の近代化はかなり遅れることになっただろう。また交渉で弱腰な態度をとっていたら、外国に山口県の一部が取られていただろう。それこそ下関が香港のような形になっていたかもしれない。そういう意味では今の日本が日本たるのは、高杉晋作が逆境の中でたった500人を率いて立ち上がった奇兵隊のおかげであると考えている。たかが500人だが、高杉晋作という風雲児が起こした波は時代を大きく変えた。そういう意味で高杉晋作は歴史の教科書に載るべきである。どうしても教科書は実績ベースになるため、長生きした人が有利になるが、歴史上には短くも濃い人生を送った人は多い。歴史という教科が過去の人物に「活物同期」するためのものであるならば高杉晋作は間違いなく教科書に載るべき人である。
「情報に溺れないために」 松田 大生
細田先生の15回にわたる刺激的な講義が終わり、振り返ると私は様々なことへと講義を通して、またこれまでの「論文」の執筆を通して思考を巡らせてきた。講義テーマである土木のことから、私たちが住んでいる国日本が置かれている状況やこれまでの歴史のこと、そして私たちが学ぶ意味やこれからどう生きるべきなのかなど、そのテーマは多岐にわたる。その中で、私は最後の「論文」の題材に「情報」を選んだ。私は多大なパワーを持つ情報には信頼性が重要だと思っている。細田先生も私たちが全く知らないような話や情報を与えてくださる際には必ず情報ソース(特に書籍において)を明言していらっしゃった。自分の思想や行動の原動力となり、時に他人を動かすことが可能である「情報」の持つパワーは絶大である。その情報について、私の現在の所感を書き綴っていきたい。
私たちが生きている現在は行動な情報が飛び交っている社会である。誰しもがスマートフォンやタブレットといった情報端末を持ち歩きTwitterやLINEといったSNSでやり取りをする。世の中で起きていることから近くのスーパーマーケットのセールの情報まで手元にある情報端末とインターネットの環境さえあれば入手できる。情報伝達の手段が手紙を運ぶことしかなかった時代、東京大阪間が飛脚で3日や日本欧州の航路が1〜2ヶ月ほどかかり、情報伝達にも上記の時間を要した時代から考えると私たちは情報を入手することに関してとても恵まれている時代に育ったと言ってよいだろう。
過度に情報化され、誰しもが情報を手軽に発信することができる現在において、私たちが情報を取捨選択しなければならないという問題点が生まれた。私たち学生でも関係ある部分だと中身のない「いかがでしたか?サイト」やフィッシングサイトや通販の偽サイト、そして悪意を持って発信されるデマやフェイクニュースが挙げられるであろう。これらに関してはある程度のインターネットにおける経験を重ねたり知識があったりすると避けることができる。だが、こういった情報の取捨選択の意識は現在情報にまみれた社会を生きて、そしてそのインターネットから得た情報を根拠に自分の社会的や政治的等の立場を決めることができる現在、必須の能力と化してきているのではないだろうか。
また、悪意のない情報においても情報を発信する機関や人々は人間である以上、必ずと言っていいほどある程度はバイアスがかかってしまう。例を挙げると大手メディアの報道姿勢などであろう。具体名を出すと産経新聞は保守系となり朝日新聞はリベラル系であるなどである。私たちはそういったことを頭の片隅に入れ、特定の発信機関のみの情報をうのみにするべきではなく、様々なメディア等が発信した情報をそれぞれの立場などから生まれ得るバイアスを考慮して精査すべきである。これはTwitterなどのSNSで情報発信を行う個人から情報を得る場合も同じである。その人がどのような社会的・政治的な立場であり、どういう思想の持ち主であるのか、またそのソースは信頼性が足るものであるのかなどを考慮するべきである。
他にも、大手メディアなどの機関においてもある程度恣意的に情報を出してくることもある。実例を挙げると望遠レンズの圧縮効果がかかった写真を用いて大げさに視覚的に訴えるような記事を掲載した新聞社がある。これは、ベイブリッジの付近を飛行する米軍のヘリコプターを望遠レンズで撮影し、圧縮効果がかかりヘリコプターがベイブリッジに極度に接近していて危険だという記事を掲載した。この記事はネットを中心に恣意的にかつ事実とは異なることを記事にし、偏向報道をしたと非難され、炎上した。このように、メディアは大衆に情報を発信できるという立場を利用して世論を作ろうという意図が見えることもある。
非科学的な内容を含んだ情報も多く発信されている。特にいわゆる陰謀論を信じている人々がこういった情報を発信し、信じていることが多い。最近話題になったものに関しては新型コロナウイルスのワクチンに関するデマであろう。コロナウイルスのワクチンにはマイクロチップが含まれており摂取すると操作や監視される云々、摂取すると光を帯びるだの磁力を帯びるだの散々な非科学的なデマがばらまかれてきた。こういった笑止千万なデマは画像とともに拡散されることが多く、それを根拠と言い張る人もいるが現 在は画像加工ソフトなどでこういった画像は一瞬で製作可能である。こういった悪質な非科学的なデマを信じないためには情報の受け取り手の学や教養が必要である。話が少しそれるが、非科学的なウソを信じないためにも私たちは教育を受けているのであり、こういった非科学的な情報を信じて発信してしまう人は、「私はこれまで学んだことを生活に活かせていません」と自己紹介しているようなものであり、そのような人からは次第に同じような考えを持った人以外は離れていってしまうであろう。
これまでいくつか情報を集める上での注意すべき点を挙げてきた。これらを踏まえたうえで私はこれからこの情報社会を生きていく中での必須の行動は、様々な情報を比べて吟味することであると思う。上で私は発信する側には多少なりともバイアスがかかっていると述べたが、これは情報の受け取り手においても同じであり、自分の考えと一致すること、自分の思想や立場と同じような視点から発信される情報のみ収集し、都合が悪い情報を全てウソやデマなどと断じてしまうといったことが起こり得る。上記のようになると、視野が狭くなる、単一の視点でしか物事を判断できなくなる他、同じような立場等の情報発信者が悪意を持ってデマを発信してもそれは正しい情報である、というバイアスがかかってしまうといったことが考えられる。そうならないためにもメディアだけでなく書籍等を含めた様々なソースで情報を得なければならない。ニュースひとつにしても政治的立場が真逆である朝日新聞と産経新聞の記事を読み比べる、Twitter等を用いているのならば左右両方の立場からニュースにコメント等をしている人がいるため、そういった意見を参照することなどが可能であろうか。自分と反対の意見を持っている人、反対の政治的立場を持っている人の意見を参照することは時には腹立たしくなったり、拒否反応を覚えたりするかもしれないだろう。だが、多角的に、広い視野で、第三者目線で自分そのものと一旦切り離して情報を集めるにはぜひとも身につけておきたいスキルであるように思う。
様々な意図をもって発信されている情報。それらの意図に振り回されずに、誤った情報を切り捨てて正しい情報を探し求めることができれば、情報社会の中で自分を見失うことなく生きていけるであろう。私も一つの考えに固執することなく、目の前にある自分に都合のいい情報が全て正しいと思うことなく、様々な視点から多様な情報を集めていこうと考えた。
「日本のメディア」 松崎 花乃
メディアは、送り手と受け手を仲立ちして、情報を伝える役割を強調したものといえる。伝えるというと中立的で公平な役割のように聞こえるが、社会学での古典的な実験に、伝言ゲームがある。最初の発信者が発する内容は、やがて何人かの中間媒体を経過して最終目的者に伝わったとき、その内容は発信者の内容と異なるという実験だ。メディアを何段階も経ることで伝言の内容が変容することはよく知られている。だからこそ、メディアには正確さ、公正・公平さが求められる。
しかし、メディアは人びとを傷つけるどころか、デマを流し戦争を仕掛け、ときに人を殺すこともある。一方、心の底から他人を感動させ勇気づけ不正な世の中を変えることもある。そうした「伝える」過程でコンテンツが変容したり、送り手の思惑に利用され色がついた情報になったりすることは社会が経験上知っていることだ。
内閣が電波通信管理するのは、自由主義諸国の中では日本だけである。例えば、BBCを擁する英国では、2002年にそれまであった放送通信の免許付与や監督の役割を担う5つの機関をあらたに統合し、独立規制機関が担っている。隣の国の韓国では、1998年放送行政を所管していた公報処が解体され、2000年独立行政組織のKBCが誕生し、8年後、大統領直属のKCCに組織替えした。自由主義諸国の中ではオーストリアが日本と同様、内閣管理と記憶していたが、調べ直したら、このヒトラーが出生したこの国は2010年に法律が改正され、独立規制機関が誕生した。
社会主義諸国では放送行政は内閣あるいは共産党直下の機関が担う。中国では、放送行政は国務院に属するSARFTが監理する。放送局は国営テレビの中国中央電視台が担う。北朝鮮も同様、放送行政は内閣のラジオ・テレビジョン委員会が担うが、国営放送の朝鮮中央テレビや万寿台テレビ、ラジオの朝鮮中央放送には、朝鮮労働党から直接指示がある。
日本にとって放送メディアが誰のために存在するのか。日本の総理は日本を「自由で開かれた国」と標榜し、中国や北朝鮮の国々を批判する。しかし、放送行政を誰が担っているかという民主主義の成熟度合いを示す。1930年代の米国はもとより、オーストリアも韓国も台湾も20世紀末から21世紀初頭に、放送法制を独立行政委員会方式に改めている。つまり、日本の放送行政は中国や北朝鮮のような全体主義の国の仕組みと同じなのだ。
国境なき記者団が2002年以来発表している国別「報道の自由ランキング」によれば、2021年、日本は67位と低迷している。この20年間を点検すると最高位は2010年の11位、それが2013年第二次安倍晋三内閣になった途端、急落し53位になる。2016年72位まで下がり、最近は60台後半である。本当に日本は「自由で開かれた国」なのだろうか。
2019年テレビの広告収入は、インターネットの広告収入に追い抜かれた。15世紀の活版印刷の発明、19世紀末からの電気通信の発達、20世紀末からのインターネットなどデジタル通信革命と、メディアが変革するたびに社会は変わり、時代は進んでいく。
インターネットは情報伝達や意思表示はできても、人間が生きる喜び、心の底から揺さぶる感動を伝えることができるだろうか。インターネットの世界では、最近ネットフリックスとかアマゾンプライムといって映画やドキュメンタリーが幅広く受け入れられているのはそうした映像コンテンツがもつ素晴らしさのためではないだろうか。
権力監視されるメディア、インターネットの元では、健全な民主主義は育たないのではないだろうかと思う。
「変化を力に進むまち。横須賀市」 松崎 蒼斗
ここまで、横須賀の歴史や土木施設がもたらしたストック効果にテーマを絞って、レポートを作成してきた。横須賀市のホームページによると、横須賀の歴史は444年まで遡れるようであるから、今までのレポートで紹介できたものはほんの一握りである。今回は歴史に目を向けるのではなく、横須賀の未来について、地域に分けて想像してみたいと思う。
最北の追浜地域では、バスタ計画やそれに伴う市街地再開発事業、国道357号線の延長が計画されている。
バスタ計画とは、公共交通のターミナルを全国各地に整備し、それぞれの地域のハブとしての機能を集中させるプロジェクトである。神奈川県のバスタとして、横須賀市北東部の追浜地域に整備することが決まっている。現在の追浜駅周辺はバスターミナルなどがなく、国道16号線沿いにバス停が点在しており、タクシー乗り場についても駅から横断歩道を渡った先の商店街の沿道にあるなどのやや不便な形になっている。さらには、駅前に国道16号線が通っていることもあり、歩行者空間の確保がなされていないように感じる。バスタ計画や市街地再開発事業によって、市内外からの通過交通の増加、駅前再開発によるランドマークの整備、歩行者空間の確保が見込めると考えられる。
国道357号線いわゆる湾岸道路と呼ばれる路線である。現在は、千葉県千葉市中央区を始点として、横浜市金沢区八景島までが開通している。八景島から横須賀市夏島を結ぶ区間については長いこと未開通が続いており、三浦半島3市1町が国とかけあい、2018年7月に着工に至っている。この計画により、横須賀市の東側の幹線道路となっている国道16号線に次ぐ第二国道としての役割を担うことになり、平時にも有事にも利益をもたらすことだろう。
横須賀市中心部、横須賀中央地域では、市街地再開発事業が近いうちに行われることになっている。
横須賀中央地域は中央駅前大通りと国道16号線に挟まれた地域が商業集約地域、国道16号線からよこすか海岸通り側には、市役所、裁判所、警察署などの官庁集約地域といった構図なっている。最近まで、警察署や税務署、裁判所の移転がされ、官庁集約地域の再開発がされてきたように見えるが、今後は商業集約地域の再開発が計画されている。さいか屋跡地、三笠ビル商店街、プライム横須賀街区などの6地区が再開発促進地域として指定されている。プライム横須賀街区に関しては、再開発計画が策定されており、商業施設を複合したタワーマンションが整備される予定である。
浦賀地域では、移転された旧浦賀警察署跡地の活用、住友重工から移譲された浦賀船渠の利活用が早急の課題である。
浦賀警察署は1926年に浦賀駅から徒歩約5分の場所に設置された。しかし、建物の老朽化などによって名前はそのまま久里浜へと移転された。しかし、浦賀警察署という名前で久里浜にあるため、多くの混乱を招き、今年の4月に「横須賀南警察署」に名称を変更することになっている。浦賀にある旧浦賀警察署跡地は、市が県に対して移譲の要望を出しており、警察施設が整備されるなどのうわさが出ていた。しかし、隣接する浦賀行政センターの駐車場と歩行者空間の確保のために活用されることになっている。
浦賀船渠は、1899年に整備されたレンガ積みのドライドッグであり、世界に見ても4か所しか現存していない貴重な施設である。日本では、浦賀船渠のほかに、同地区旧字川間にある川間船渠のみが現存している。川間船渠はマリーナ施設として活用されており、常に海水が満たされている。しかし、浦賀船渠は普段は解放されておらず、年に数度ある開放日に内側やそこを見学することができる。上地克明現市長になってからは、ルートミュージアムの一つとして活用され始めている。浦賀地域はそのアクセスの悪さや、利便性の悪さから衰退の一途をたどっている。横須賀市の南東部の中心地は、久里浜地区にとって変わられている。観光地として活用するのではなく、住人ファーストのまちづくりの推進をできるように検討を加速してほしいと感じる。
久里浜地域では、横浜F・マリノスの練習場の誘致、うわまち病院の移転などが計画されている。
横浜F・マリノスは、ホームタウンを神奈川県横浜市、大和市、横須賀市に置くJ1所属ののプロサッカークラブである。トップチームの練習拠点は、横浜市港北区の新横浜公園を利用していたが、横須賀市久里浜のくりはまみんなの公園に練習場を整備し利用する計画が立っている。F・マリノススポーツパークとして天然芝のフルサイズサッカーグラウンドが2面整備され、今月本格的に稼働し始めている。もともと、横須賀市の都市公園の一部であったため、横須賀市南部のスポーツ拠点として、活用されていくことを願いたい。
横須賀市の開発や移転の特徴として、発展する地域と衰退する地域の格差が大きいような気がしている。浦賀警察署が移転されたことも一つであるが、浦賀から久里浜へと行政の手が移動していることにやや違和感を感じる。浦賀警察署が浦賀にあった当初も浦賀という地域はやや衰退をしていたのは事実である。そこで、人々の流れを少なくとも作っていた警察署を久里浜へ移転してしまったのは間違いであったのではないかと感じるのだ。さらには、うわまち病院の移転についても同様である。横須賀中央駅から平坂を上った先の上町から、京急久里浜駅から尻こすり坂を上った神明町へと移転されるのである。うわまち病院が作った人の流れによってうわまち銀座商店街が機能し、今もなお商店街としての形を保っているともいえる。税務署などの官庁や病院などの施設は人の流れを創るため、移転などをするのであれば、人の流れを創っていることでもたらされていた効果についてもしっかりと考慮する必要があるのではないだろうか。
タイトル:「YOKOSUKAビジョン2030」から抜粋
横須賀再興プラン2022―2025|横須賀市https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/0830/upi/jisshikeikaku/documents/000-jissikeikaku2022-2025_compressed.pdf
追浜駅交通ターミナル整備事業(国道16号)|国土交通省関東地方整備局横浜国道事務所:https://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/yokokoku_index114.html
「自分が伝える番になったら」 本田 玲美
人それぞれ、ここの大学に入ったきっかけや理由は違う。私が都市基盤学科に入りたいと思ったのは、高校生の時漠然と建築に興味があってオープンキャンパスに訪れ、時間に余裕があったので都市基盤学科の模擬講義に立ち寄り、そこで目の前の世界がパッと広がるような印象を受けたのがきっかけだった。それまでは理系のどんな学部が自分に合っているのだろうと悩んでいたが、講義を受けてからここ以外は考えられないというほど興味が大きくなっていった。およそ3年前から土木工学を学び始め、様々な教養や新しい情報を日々取り入れることができている。もうすぐ就職活動する人もいて、まだまだ土木の初心者ではあるものの、いよいよ今持っている知識を武器にして戦えるようになりつつあると思う。
私の家族は皆文系で、勉強の話ではあまり共感してもらえないのだが、都市基盤学科に進むことが決まった時に一番喜んでくれたのは祖父だった。祖父は東北大学工学部の土木出身で、調べると先週の講義に登場した竹村公太郎氏の先輩にあたることが分かった。以前まで住んでいた家が近かったこともあり、私は小さい頃から頻繁に会っていて大変お世話になっている。パワフルな人でいつもお酒を飲んでいて周りを困らせてしまうイメージがあり、働いていた当時のことをあまり知らなかったのだが、最近は土木について語り合えるようになった。祖父が大学生の時代はまさにインフラ整備が急ピッチで進められていた時で、土木技術者の需要が高かったという。エネルギー事業を展開するエッソで都市開発に携わっていたそうで、「ここは俺がかかわったところだ」「あそこは友だちが経てたビルだ」と誇らしげに話す。また、渋谷の再開発についての興味深い話をしてくれたり、共通でお気に入りのビルの解体工事の番組のことで盛り上がったり、意外と面白いことばかりだ。普段は破天荒な人だが、これまで確かに日本をつくってきたのだと分かり、尊敬できる優しく素敵な人だと感じるようになった。
この講義を通じてたくさんの偉人が成し遂げたことを知り、歴史に触れ、活物同期できた。古代までさかのぼって今ある社会がどのようにできたのかを示し、またありがたい教訓を授けてもらった。講義で紹介されるくらいだから世の中に溢れる出来事の中でも超重要なものばかりだが、もっと身近なところに経験を直接聞くことができる存在がいることに気づき、幸せなことだと思った。論文で何度か「伝える」ことについて書いてその必要性が記憶に新しいからこそ、これからもより多くのことを伝えてもらいと思うし、私もそれを自分の糧にしたい。きっと祖父も伝えられる相手がいることが嬉しいと思う。そしてゆくゆくは私も経験を積んで、誰かに伝える番が来るだろう。先生のように大勢の人には伝えられないかもしれないが、身近な人だけにでも誇りを持って語りたい。
「土木は素晴らしいんだよ。私はこんなことをやったんだよ。」そう言える日が来るように、日々挑戦、成長するのみだ。
「歴史を多角的に見る、とは何か」 堀 雅也
土木史と文明の授業を15回受けて、様々な事柄を調べながら論文を書くことで数多の発見があった。また、少なからず考えが変わった部分もある。今回は15回に亘る「土木史」の総仕上げとして、特にこの考えが変わった点について述べる。
この授業の中で、私は2人の人物に大きく感動した。信濃川の放水路である大河津分水を開通させた青山士と、台湾の台南に烏山頭ダムを整備し、嘉南大圳と呼ばれる水路網を建設した八田與一である。このうち青山士に関しては、人名は習わずとも大河津分水の存在や価値は広く国民の知るところとなっており、中学受験では小学4年の段階で知っているべき事柄として大河津分水が挙げられていた。また、地名としても2006年まで西蒲原郡分水町が存在しており、現在でも駅名や地名に使われていることからも、今後も当分語り継がれる事であろう。一方、八田與一や嘉南大圳に関しては恥ずかしながらこの授業で初めて聞いた。恐らくほとんどの学生も同じであろうし、教科書やテレビで話題に挙がることも非常に稀であると思われる。振り返ってみれば、海外の辺境に住む日本人を取り上げるバラエティ番組がある一方で、海外で活躍した日本人が取り上げられることは非常に少ないと感じた。
授業でも取り上げられた自虐史観という考え方にも通ずるものがあるが、日本には極端に太平洋戦争で歴史を区切るきらいがあると感じている。この区切り方は、確かに歴史を語る上で重要な面の1つではあるだろうが、これによって「戦前」と「戦後」の二元論的な議論が随分と発生していると見受けられる。更に、このように「戦前」「戦後」として区切るのであれば、1930年代後半辺りの戦前と1950年頃の戦後を比較して論じるのが適当であろうが、大抵「戦後」と扱われるのは高度経済成長に入ってから、すなわち日本全体が工業化という大変化を遂げた後の話であるように思えてならないのだ。無論この1960年代と1930年代を比較して得られるものは、最早戦争など関係無く、ただ国際的に工業化が進んだ、そして日本でも工業化が進んだ、これだけの事である。これを持ち出して、「戦争のない平和な世界」こそ工業化に必要な物であるかのような論は、21世紀に入ってからも戦争を継続しているアメリカや中国を前に破綻していると言うほかない。結局この論は戦前、特に昭和初期を貶めることが目的化しており、正しい歴史の伝達が行われていない可能性を強く感じたので、この数か月、日本の近代史について様々な文献を基に学習を重ねた。
その中で大きく感じたことは、外地や海外領土などにおいて残した功績は「軍事目的であった」としてタブー扱いされ、問題点のみがクローズアップされているということである。一例として、「京釜線や京義線は軍事目的で建設されており、これは朝鮮半島、ひいては現在の韓国・北朝鮮に利益を与したとは言えない」という主張が存在した(似た主張があろうことか日本のメディアにも存在する※)。軍事目的で建設された鉄道を認めないのであれば、あの横浜にも乗り入れている横須賀線はどうなるのか。軍事目的で建設したのだからこれは兵器だなどと誰が断ずることが出来ようか。ヨーロッパの国々は戦争に向けて鉄道を張り巡らせ、ロシアは極東侵略のために長大なシベリア鉄道を敷き、いずれも実戦で活躍したが、これらは軍事目的という曖昧なレッテルを未来永劫貼られて行くのか。少なくとも私はそのような言説を海外で見た事がない。確かにロシアは鉄道を秘密施設とするために軍事施設として運用していた時期が長いが、それは決して鉄道の功績を認めていない訳では無く、それどころか名誉ある施設として扱われていたと言えよう。ドイツの鉄道網やアウトバーンも同じく、ヒトラーが建設し、戦争に活用され、緊急時の戦闘機用滑走路になったこれらですら大切に扱われているではないか。このような日本でしか見ない理論が平気で教科書にすら登場し、結果として現代のような当時の遺産を負の遺産として扱う文化が醸成されてしまったのは、大変嘆かわしいことである。
そもそも、日本が海外に建設した鉄道は軍事目的であったのだろうか。京義線や満鉄安奉線については軍事色が強く、実際当初は樺太と同様に軽便規格で作られた物であったが、それ以外の路線は殆どが沿線を発展させるための鉄道であった。前述した2路線すら、日本と朝鮮、満洲、清改め中華民国を結ぶ大動脈としてどんどん整備が進められ、現代版シルクロードのような、戦前版アジアハイウェイのような国家間連絡鉄道となって行ったのは歴史が示す通りである。いくら大連港が整備されて特急「あじあ」が走ろうと、中華民国に直接アクセスできる航路が開かれようと、下関・釜山・奉天経由での中華民国へのアクセスは根強い人気を誇った。日中戦争が始まってもなお旅客輸送は行われていたどころか、戦争が始まってから日中間を直通する急行「大陸」「興亜」が相次いで設定されたほどである。戦争中に両国を結ぶ鉄道網が発達した例は世界を見ても殆ど存在しないであろう。
未だ朝鮮が大韓帝国で、中国が清だった頃の1906年に発表された「満韓鉄道唱歌」に『ああ清国も韓国も 共に親しき隣国ぞ 互に近く行きかひて 研かん問題数多し』(漢字は新字体に改めた)と歌われている通り、日本と朝鮮、中国の3か国間はかつてより親しく、小競り合いこそすれ、大きな戦争は永らく発生していなかった。日清戦争が起きる前で言えば、白村江の戦いや元寇、朝鮮出兵がせいぜいであり、ヨーロッパの様な血で血を洗う戦いはアジアには存在していなかった。日清戦争後も、何度か戦争はあったものの国家間交流は盛んであり、前述したように旅行者の往来も欠かさず存在したし、「満支旅行案内」という今で言うガイドブックすら出版されるほどの人気旅行先であった。これについては現代でも変わらず、いずれもビジネスや旅行で多くの人が行き来している。土木史の授業を受けている教室にも中国や韓国からの留学生がおり、彼らの書く文章のレベルの高さには常々驚かされるものがある。政治的には対立を余儀なくされていても、このような民間レベルでの交流は盛んなのがこの3か国の特徴とも言えよう。
そのような中で行われた韓国併合は、現代では強制的な植民地化と習うことが多いが、本当にそのような背景があったのだろうか。当時の朝鮮総督は伊藤博文であったが、彼は非常に現地への理解を大切にしていた。70年前のアヘン戦争や、着々と進むアジアのヨーロッパによる植民地化を危惧したいわば同盟国相手の集団的自衛権のようなものであり、その後の大東亜共栄圏構想に通ずるものと考えて差し支えないのではないだろうか。そのための鉄道建設であり、都市の近代化であり、港湾や空港の整備があったと言えるだろう。実際、現在韓国に存在する長距離路線のうち当時建設されなかったのは中央線くらいであり、大枠は日本の領土だった間に完成しているのである。満洲においても同様に、殆どの路線は満洲国時代に建設されており、通譲線、通霍線、集通線など輸送密度の低い路線が多少増えたのみである。これは当時のうちに必要な分だけ建設を済ませたためであると言えるのではないだろうか。
太平洋にはパラオというとても小さな島国がある。第一次世界大戦までドイツの植民地であり、その後委任統治領として日本に帰属することとなった島々である。この委任統治領というのは様々な理由を付けて国際連盟が認める実質的な植民地なのだが、ここでは経済的・社会的に発展させることが義務とされた。そのため、それまで宗主国だったドイツが全くもって放棄していたインフラ建設を始め、以降日本とパラオは非常に親密な関係を築くこととなる。パラオに到着してまず渡るKBブリッジという橋は鹿島建設がODAで建設したものであり、日本とパラオの友好の象徴として現地で扱われているそうだが、時代が違うだけで当時も同じようにインフラ整備を行っていた。自虐史観によって戦前の日本の行いを全て悪事として扱ってしまったが故に我々が色眼鏡を付けてしか見られなくなった当時の開発援助は、今で言うODAとなんら変わりないのである。
現地の目線と当時の日本の目線、この2つが合わさって初めて歴史は正しく映るが、残念ながらいずれも現代では欠けてしまっている。前者は中々伝わって来ず、後者は時代背景によって問答無用で抹殺される。そうして連合国の目線のみで語られた、歪な近代史のみが歴史として扱われている。これを打破するためには、先述した2つの目線からみた歴史を探り当てるほかない。勿論、全ての人が喜ぶ政策など存在しないので、一定数本当に悪法となった例もあるのだが、その「悪」は連合国目線での「悪」ではなく、現地の目線による「悪」である必要がある。このアジアにおいてヨーロッパは、侵略こそすれあくまで第三者なのだから。
タイトルに設定した「歴史を多角的に見る」という考え方であるが、これは中々世の中で簡単に享受できるものではない。「勝てば官軍」という言葉も示すように、現在に残る歴史は勝者が語った歴史に過ぎず、敗者は大抵歴史を伝えることが出来ず消えていくためである。これを最も感じられる場所が、福島県の会津若松に存在する。会津若松は松平の治めた会津藩の中心地であり、戊辰戦争における白虎隊のエピソードが有名であるが、会津若松城ではこれを始めとする戊辰戦争のエピソードが旧幕府軍側の目線で紹介されているのだ。いかに旧幕府軍が正しく、新政府軍に虐げられたかという口調で終始書かれているが、これこそ人類がすべきことではないだろうか。人間は物事の一面だけを見て満足するきらいがあり、意図的に残さないと敗者の歴史は残らないためである。このパネルは新政府軍目線の歴史しか習わない我々には新鮮であり、違和感を持つものであるが、これこそが歴史を多角的に見ることなのだと初めて感じ、驚かされた記憶が鮮明に残っている。
そのような中でも、台湾において日本が受け入れられているエピソードは数少ない戦前の現地目線のエピソードなのだが、その最たるものである八田與一に関する授業を受けて、烏山頭ダムを実際に見に行きたいと思い、来月の末から台湾に行くことを決めた。烏山頭ダムと嘉南大圳は当時有数の都市であった台南と嘉義をすっぽりカバーするだけの灌漑施設であり、1931年に甲子園に出場したことが2014年に台湾映画になった嘉義農林学校(現:国立嘉義大学)をも生んだ。現地では八田與一はレジェンドであり、なぜ日本人が中々記念園区に来ないのか不思議であるという現地の方の声を度々ネット上で目にする。他にも、現地では中学校の教科書にて事細かに紹介されたり、台南市内の道路が「八田路」と名付けられたり、対日強硬政策の多かった馬英九が「八田與一記念公園(記念園区や銅像などを含む一帯の総称)」を整備したりと、完全に政治と切り離されて英雄として扱われている。その現地の熱量がいかほどか、この目に焼き付けて来たい。
このほかにも、基隆港など当時外地に建設された土木遺産や当時から大切に使われている建物の数々、更には今世紀に入って有数の国家プロジェクトとしての土木工事とも言える台湾高鉄まで、現地でどのように扱われ、どのように現地を盛り上げているのか、しっかり見た上で改めて戦前の日本による統治の問題を多角的な視点で考えてみたい。そして願わくは、人類が今後多角的な視点で歴史を見られるようになるべきという主張のもと、自分が何をすべきか、早いうちに探り当てていきたい。
参考
・東亜旅行社満洲支部編 『満支旅行案内 昭和17年版』 東亜旅行社 1942年
・日本鉄道旅行地図帳編集部編 『満洲朝鮮復刻時刻表』 新潮社 2009年
・小牟田哲彦 『改訂新版 大日本帝国の海外鉄道』東京堂出版 2015年
※「日本が朝鮮に鉄道を敷いてやった」という言説について (最終閲覧日:2023年1月27日)
http://www.wayto1945.sakura.ne.jp/KOR10-railway.html
※鉄道とともに日本軍がやってきた - 朝日新聞 (最終閲覧日:2023年1月27日)
https://www.asahi.com/international/history/chapter03/02.html
※以上2史料について、※部分に引用するのも憚られるので参考欄に記載
・北山敏和の鉄道いまむかし (最終閲覧日:2023年1月27日)
http://ktymtskz.my.coocan.jp/index.htm
・パラオ国旗の意味や由来|歴史から分かる日本との関係性を解説 - パラオ観光メディアマガジン (最終閲覧日:2023年1月27日)
https://palautimes.jp/useful/969/
・「日本がつくった」と、なぜ言わない?! (10)鉄道と水道の密接な関係 - 産経新聞 (最終閲覧日:2023年1月27日)
https://www.sankei.com/article/20180318-AHZHJXHZ6JIDRBNJEMW2WKJJKE/
「永遠より長い一瞬を生きる」 舟本 耀
小学校の頃、永遠であるかのように感じられた日々の生活。高校生の頃、永遠よりも長いと感じた板東先生の古典の授業。大学生になった今、それは永遠では無かったと私は知った。
これまで、土木史の授業では様々な天才たちが取り上げられてきた。しかし、それらの天才たちもいずれは死んでしまう。講義を聴いている中で、彼らがもう少し生きてきたら世界が少し変わったのでは無いかと思うこともしばしばあった。失礼を承知の上で述べるが、この授業で私が学んだことは、「人生は限りあるものである。」ということだけである。今年度、私は大学2年生になり多くの専門科目を学び始めた。しかしながら、それらの専門科目の授業を学んでも将来使うのかは、今の私には分からない。恐らく使わない科目の方が多いのでは無いだろうかと思うこともある。だからこそ、この15回の授業でこの知見を得られたのは私自身にとって大きな気づきであったのかもしれない。
私は小学生の頃、人生は永遠であるかのように思っていた。しかし、今ではそうは思わない。「人生は永遠なのか?」という問いに対する、今の私の答えは明らかにNoである。しかしながら、私たちの多くは人生が永遠であるかのように錯覚してしまうのである。そして、気づかずうちに齢を重ねていく。残念なことに、そのことに気づかないまま一生を終えてしまう人いるだろうし、気づいたとしても、齢を重ねすぎて手遅れであることがほとんどであろう。なぜ、人々は人生、もっと詳細に言い換えるならば日々の生活が永遠であるかのように感じるのだろうか。それは、現代社会は、社会の流れが早すぎるが故に永遠かのように感じられる錯覚を引き起こすからだ。このことは私自身都会に住み初めて以来、とても実感している。時間の流れが早すぎるあまりに日々を無為に過ごしてしまい、この日々が永遠に続くかのような感覚を覚えるのである。簡単に言えば、時間の経過を感じなくなってしまっているのだ。それ故、多くの残念な人々は一生を無為に過ごすことになってしまうだろう。だからといって、「時間は有限だ。だから、大切に使いなさい。」という高校の進路指導の先生が連呼するような台詞を言いたい訳ではない。私はただ、「この世界に永遠など存在しないということを理解しておくことは現代社会を生きる上で肝要なことなのだ。」と言いたいだけである。時間は有限であるからこそ、私たちは時間を無駄に使うことができるのだ。親友と朝まで語り明かしたあの日、夜中3時にみなとみらいで食べるおでん、当日決行の計画皆無の日帰り旅行。どれを振り返っても、とても無駄な時間だったなと思う。しかし、それくらい無駄な時間を過ごす方がこの世界は生きやすいように感じる。永遠でないからこそ楽しめる無駄というものがあると私は考える。
最後に、人生は一瞬である。しかしながら、永遠ではないからこそ良いのではないだろうか。永遠ではないからこそ、無駄を楽しめ、一瞬を全力で生きることが出来ると考える。もし永遠ならば、きっと一瞬を無駄にしても構わないという考えに陥り、その無駄を積み重ねていく一方だろう。現在の私たちの生活は、一瞬を惜しみ、命を削ってきた先人たちの努力の賜物によって成り立っている。その先人たちにとって、その一瞬は永遠より長いものであったのではないかと思う。たった数秒の出来事でも、それが私たちの記憶に残り続けたり、後世に残り続けたりするならば、それは永遠よりも長いのではないだろうか。永遠より長い一瞬を積み重ねる。それが、私たちが限りある時間で出来ることではないだろうか。幸い、私は19歳とまだ若い。これからの人生をどのように生きて行くべきなのか。全15回の講義を通して、その上で1つの考え方を得られたのかもしれない。今は永遠のようにさえ思えるこの人生を、どうか大切に生きていきたいと思う。