細田暁の日々の思い

土木工学の研究者・大学教員のブログです。

誰のための政府なのか

2022-11-27 19:55:49 | 社会問題

ここ数年、加速度的に社会が壊されていっているように感じますが、

「新型コロナワクチン接種と死亡事例の因果関係を考える」勉強会の動画です。

私自身のこの問題に関する見解は、以下。

「身の回りにも被害者は少なからずおられるし、いまだに嬉々としてワクチンを打っている人を見ると心底憐れになります。本当にひどい話で、史上最悪の薬害が顕在化してきましたね。私はとっくの昔に知ってました。あまりに怖いので、2回目の接種後の2021年9月に即、イベルメクチンを個人輸入し、その後は定期的に飲み、体の不調は完全に収まりました。」

私の周囲にも、ワクチンが理由だろうな、と推察される死亡事例、重病の方が少なからずおられます。本当にお困りの場合で、私の言うことを聞きそうな方には、真相を簡単にお伝えし、イベルメクチンも紹介するようにしています。

もう一つ、あからさまにバカ騒ぎし過ぎている「温暖化対策」やら「カーボンニュートラル」ですが、

私自身のこの問題に関する見解は、以下。

「ある身近な東大教授が、脱炭素の流れが、これほど急速に進むとは思っていなかった、というような発言をしてました。私の記憶では、4年くらい前に、地球温暖化とか、さっぱりニュースなどでも聞かなくなったなあ、と感じていたことを記憶しています。誰がどう考えても、バイデン政権になってから変わったのであって、そのパックにいる連中が日本政府に圧力をかけて今の流れになっているに決まってるではないか。
 東大教授よ、大丈夫か?
 日本人よ、真に注力すべきところは、そんなところにはないよ。早く気付こうぜ。いつまで騙されれば気が済むのやら。」

カーボンニュートラルはアホらし過ぎて論じる気にもなりませんが、エネルギーや資源の問題は、素人には真相はなかなか分からないので、こちらに参考情報をストックしていっております。

上記の2点、「コロナ問題」と「温暖化問題」だけでも、とんでもない詐欺事件というべきものですが、その他もひどすぎます。

日本が全く成長できなくなってしまった現状。この状況で、「大増税」をしようとしている悪魔のような政権

誰のための政府なのでしょうか。あからさまに人殺しをするような政府を放置しておいてよいのでしょうか。

この国がまともな国であり続けるために残された時間は、もう多くはないようです。





学生による論文(91) 「自然災害対策の過去と未来」  藤田 光 (2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-25 06:30:55 | 教育のこと

「自然災害対策の過去と未来」  藤田 光 

 今回の授業のテーマは、自然災害からの克服ということがテーマであった。

 授業でも話を聞いたように近年は自然災害が猛威を奮っている。近年では、2011年の東日本大震災、2014年の御嶽山噴火、2016年の熊本地震、至る所で発生している豪雨等が挙げられる。

 まずは、今回の講義では大河津分水路の話がかなり印象に残った。実際に自分も大河津分水路には訪れたことがあるので、そのときの経験も元に以下記す。

 信濃川は日本一の長さを誇り、水流や流域面積においても日本屈指の大河川である。信濃川の水の流れは、流域の農業や工業を育て、古くから“母なる川”として人々に愛されてきている。

 元々、大河津分水路が建設される前は、信濃川や信濃川水系の分流の中ノ口川などの堤防決壊による水害は3年に1度起きており、その度に越後平野は壊滅的な被害を受けていた。また、川の水が引いても水が引かない沼の多い所で、胸まで浸かっての田植えの作業を余儀なくされていた。

 そのことから、享保年間に寺泊の本間屋数右衛門らが幕府に分水路の開削を請願した。しかし、享保16(1731)年に分水路として開削された松ヶ崎掘割において、分水地点の堰が破壊され、分水路である掘割が阿賀野川の本流と化してしまう被害が発生した。また、これにより、河口の新潟湊では、阿賀野川の水量が減ることにより、土砂の堆積が減ったことに悩まされていた。そのことから、新潟湊の関係者は大河津分水構想に猛烈に反対していた。

 その後、明治元(1868)年に発生した新潟平野の大洪水を契機に、越後平野を水害から守るためには大河津分水の建設が不可欠と考え、100人を超える人たちが大河津分水路建設の請願を繰り返した。それにより明治3(1870)年には大河津分水路の工事が始まった。しかし、分流路下流部の度重なる地滑りや分水工事への反対運動、外国人技師からの大河津分水路ができると信濃川河口の水深が浅くなり、新潟港に影響が出るという報告があったため、明治8(1875)年に工事は中止となってしまった。

 その後、政府と県のより信濃川の堤防改築が進められたが、明治29(1896)年7月22日には、歴史に残る大水害「横田切れ」が発生した。長岡から新潟まで、越後平野のほぼ全域が一面泥海となった。多くの家屋や田畑が浸水し、被害総額は当時の新潟県の年間予算とほぼ同額であった。また、低地では11月になっても水が引かず、伝染病で命を落とす人もいた。実際に博物館の中には「横田切れ」における様々な被害の様子が展示されており、かなりの被害を受けたということを実感することができた。この「横田切れ」をきっかけに大河津分水を求める声が一段と強まった。

 そして、明治40(1907)年に工事が決定し、翌々年から大河津分水路の工事が始まった。工事では、当時の最新の大型機械や最先端の技術が使用された。それでも困難をきわめた工事であったが、1000万人の先人の献身的な頑張りのおかげで2880万m^3という膨大な土量を掘削し、大正11(1922)年、ついに大河津分水路に初めて通水した。実際に博物館ではその時の工事の様子の模型を見ることもでき、実際の工事の様子が理解しやすかった。また、今年は大河津分水路通水100周年を迎える重要な年にもなっている。

 しかし、通水から5年後の昭和2(1927)年には、大河津分水路へ流す水量を調節していた自在堰が河床洗堀により陥没し、水位調整機能を失うという事態が発生した。これにより、信濃川下流部では水不足となり、新潟市では海水が川を逆流し、水道から塩水が出てくる状況にもなってしまった。そこで、陥没した自在堰に代わり、可動堰を建設する補修工事が昭和2(1927)年に開始され、青山士や宮本武之輔など多くの技術者と従業者の奮闘によって、昭和6(1931)年に可動堰は完成した。吹雪や台風とも戦いながらの工事であり、偉人の凄さをそこでも感じることができた。

 大河津分水路の完成により、今まで303回で106回起きていた信濃川下流域での水害の発生回数が93年間で12回に減少した。また、かつての越後平野は水害が多く発生していた地帯であり、土地が低く水はけの悪い場所であったが、大河津分水路が完成することで、湿田が乾田化され、機械化に伴い米の収穫量が2~3倍に増え、越後平野は日本有数の米どころに発展した。また、大河津分水路が建設される前は、水はけの良い越後平野の山際に鉄道や道路が建設されていたが、大河津分水路の建設後、平野の中央に新幹線や高速道路が建設され、新潟と首都側を結ぶ主動脈となっている。加えて、信濃川本流の川幅を狭くすることが可能になり、新しい土地や街が誕生し、地域の発展に結びついている。

 大河津分水路の可動堰が完成した後も大河津分水路の機能を維持するために様々な工事が行われている。具体的には、川底が削られることを防ぐための堰堤の建設や洗堰と可動堰を新しくする工事が行われた。加えて、現在は、分水路の河口を広げるために、橋脚を架け替える工事が行われている。実際に現場を見に行くことでメインテナンスの重要さを実感すると共に、将来のことを考えた工事の重要さも実感することができた。

 ここまでは大河津分水路がどのような流れで建設され、どのように水害が抑えられると共に、地域住民の生活の質に大河津分水路がどのように貢献しているか等を述べてきた。しかし、水害以外にも自然災害には、地震や火山噴火、土砂災害、高潮、津波等、様々なものがある。その中でも今回の講義で細田先生もおっしゃっていたように、南海トラフの巨大地震が近い将来必ず来るとされている。過去の地震災害を振り返りことも大事なので、まず、東日本大震災について私が経験したことを以下記し、その後、大地震が発生した際に考えられる課題について、横浜を例に述べる。

 東日本大震災は、2011年3月11日14時46分に起きた。その日は小学校の授業が終わり、家に14時30分頃に着いていた。元々、その日の16時30分からピアノのレッスンがある予定であった。そのため、地震が起きていた時はピアノの練習を行っていた。その時はテレビを付けていなかったし、今のようなスマホも持っていなかったため、緊急地震速報に気づくことはできなかった。そして、まずはP波が来たが、P波がいつもの地震よりも長かったと感じた記憶がある。その後、S波が来たが、今までに経験したことのないような大きな地震であったため、かなり怖かった。その後しばらくはテレビをしっかりと見ていたが、かなり激しい地震であったということがテレビを見ていて実感させられた。しばらくして、大津波警報が出て、津波の怖さも感じたと記憶している。しかし、自分は海抜約10mの家に住んでおり、海からの距離も2kmほどは離れていて、近くの川からも800mほどは離れていた。また、津波の高さの予報は3mであったため、津波の心配はないということで家からは逃げなかった。しばらくして、海から離れた方向にある藤沢駅の方の様子を見に行こうと母が声をかけてきたので、藤沢駅に向かったが、藤沢駅の電車やバス等の公共交通についても運休や運転見合わせが多数発生しており、駅は多くの人で一杯であり、かなり混乱していた状態であったと記憶している。そこでこの地震による影響は自分が住んでいる藤沢でもかなり大きいものであるということを実感した。そして、午後6時頃となった。東北地方で至る所で津波による被害が発生したことや、地震に関連した災害犠牲者が多数発生したことについてのニュースがどのチャンネルでも放送されていた。黒い濁流がどんどん人家を襲い、人々の命を奪って行った。この映像を見た時に、平和で豊かな生活が送れている日本でも自然災害には勝てない時があることを知り、自然災害がここまで恐ろしいものであることを身に染みて感じた。その後も、福島第1原発の爆発もあり、原発の近くに住んでいる人は放射能の問題がある等して避難を強いられる等、かなりの影響もあった。また、東日本大震災の後、原子力発電が停止されたことで、私の人生では前代未聞の計画停電も実施され、かなり脅えた。

 この東日本大震災の経験を元に、今後来ると言われている南海トラフ巨大地震や首都直下型地震に備えていかなければならない、と感じている。今回、細田先生が授業中にお話しされていたように南海トラフ地震について、しっかりと対策していたら相当の被害額が抑えられることも学ぶことができた。そのことから今後起こりうる地震に対する対策をしっかりと行っていく必要がある。地震に対する対策を考えるためには、今の状況で地震が起きた際の被害を考えることが重要であることから、首都圏で大地震が起きた際に横浜で予想される災害について述べる。

 まず、横浜は盛土・切土の地形が多いことから、大地震が発生すると土砂災害の危険がある。また、建築後の年月がかなり経っている家屋等もあり、それらの家屋は倒壊する危険性もある。さらに、多くの家で火元を使っている時間帯に大地震が発生すると、住宅地では、大規模火事へと発達してしまう可能性もある。東日本大震災では津波による火災が大部分を占めていたが、阪神淡路大震災は朝方の時間であったため、地震直後では電気・ガス関連による火災が多く、地震の数時間後およびその翌日以降では電気関連による「電気火災」が多かったとされている。加えて、特に長い年月誰も住んでいない空き家や長い年月使われてきた老朽化している倉庫等は以前の大地震でも倒壊等の大きな被害が出ていることから、注意が必要である。また、横浜は高速道路網や鉄道網等といったインフラが張り巡らされており、それらインフラへの影響も大きいと予想される。現に、東日本大震災でも多くの高速道路網や鉄道網に被害が発見され、復旧には場所にもよるがかなりの期間を要した所もあった。もし首都圏で大地震が発生した場合、東北地方よりもよりインフラが立体的に張り巡らされていることから、破壊を起こしたインフラのみならず周囲のインフラにまで悪影響が及ぼす可能性があることから、復旧・復興に時間がかかるも考えられる。また、横浜の住宅街では、電柱が多く用いられていることから、電柱が倒れ、火災が発生することも考えられる。加えて、津波が押し寄せることが考えられる。本当に規模が大きな津波が来る場合は、横浜駅周辺やその他海の近くのエリアを襲う可能性がある。

 上記からも分かるように横浜にはかなりの課題がある。首都圏の他の地域や南海トラフで被害が予想されている地域では同じ被害も起こりうるが、それに加え様々な別の被害が起こる可能性もある。先ほども述べたように災害が発生してからでは遅いのである。そのことから、上記に挙げたような課題を解決していくために今度ハード、ソフト両面からさらに対策を行っていく必要があると考える。

 今回のレポートでは実際に防災対策の事例として授業でも取り上げていただいた大河津分水路を挙げた。その後、東日本大震災での体験談を述べた後、これから取り組まなければいけない横浜の防災上の課題を挙げた。昔の事例から学べることを学び、これからの防災対策やインフラ設備について考えることの大切さについても改めて実感することができた。

 【参考文献】
*1. 信濃川大河津資料館 展示資料
*2. 大河津分水路とは 大河津分水 通水100周年(2022年11月19日最終閲覧)
https://www.hrr.mlit.go.jp/shinano/ohkouzu100th/ohkouzubunsui.html
*3. 解体新書 大河津分水路可動堰
*4. 阪神・淡路大震災教訓情報資料集【04】火災の発生と延焼拡大 内閣府 防災情報のページ(2022年11月19日最終閲覧)
https://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/hanshin_awaji/data/detail/1-1-4.html
*5. 学んで助かる 震災からわが身を守る 第4回「津波火災」の怖さ NHKアーカイブス(2022年11月19日最終閲覧)
https://www2.nhk.or.jp/archives/311shogen/fa/se1/fourth.html


学生による論文(90) 「生態系との共生」 長谷部 颯真 (2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-25 06:29:32 | 教育のこと

「生態系との共生」 長谷部 颯真 

 砂防ダムは、山や谷が多い日本の土石流や土砂崩れを防ぐ、もしくは軽減するために考えられ、作られた、まさに先人の知恵である。講義中にもあるように、その被害を大きく抑えた恩恵は計り知れない。川の流れを遅らせたり、一度の土砂の流出量を減らしたりと、砂防ダムでなくては得られない効果ばかりだ。しかしながら、砂防ダムにはいい面だけではなく、欠点も存在している。それは、生態系の破壊につながってしまっていることだ。砂防ダムには生態系を破壊する三つの原因がある。一つは、川の生態、特に川魚の住処を奪ってしまうことだ。川魚は、下流から上流へと自由に移動できることが種の繁栄につながる。だが、砂防ダムが川を分断してしまうことで魚の移動を妨げてしまい、水生生物に悪影響を及ぼしてしまう。二つ目に、海岸線の浸食につながることである。川の砂防ダムが、海の問題に結びつくのも不思議かもしれないが、砂防ダムで上流の土砂を止めたり緩和したりするために結果海岸線まで影響を受けてしまうようだ。それと同時にミネラルや栄養素の供給も弱まり、海がやせてしまう。そのため海の魚や藻、貝といった生態系にも被害を与える。最後に、骨材の不足である。今まで建築用の骨材は川から流れてきていたものを使用していたそうだが、川から骨材がとりにくくなり、代わりとして山や海底を削って骨材を得ている。そのため山や海の環境を害する問題となっている。

 生態系の破壊は砂防ダムに限らない。コンクリートの地表面の浸食やダムでの環境破壊など、人の暮らしを豊かにするものはほかの生命への悪影響となることが多いように思われる。土木が、自然と共生しながら活動していく営みであるのならば、私たちはこの事実とどのように向き合うべきなのか。

 このように語っているが、私の意見としては別にもっと生態系を大事にしろとかダムとかの開発を自粛しろとかは考えておらず、むしろ人の安全や生活を守るためならいくらかの犠牲は仕方のないものだと思っている。しかし開発によって生態系が壊されることを許さない人がいるのも承知しているし、それが原因で開発が滞っていることも知っている。この問題は土木に携わるならば向き合わなければならないものだろう。そこで土木に関する人たちがどのような行動をとるべきかを考えてみる。

 私は、地域と協力して守るべき生態系を定めて、焦点を当てて保全していくべきであると思う。地域ごとに特色ある生態系があり、優先して守るべき生態があるはずだ。ならば、それらに配慮した工事や、時期を選んで行うようにすればよい。例えば、石河内ダムではクマタカに配慮して、営巣期には工事を休止し、設備に目立つ色を使わないようにしていた。これは生態系と土木工事がうまく共生できている事例だと思う。ほかにも、その生態系が工事終了後にきちんと存続できているかを確認するのも必要だろう。先ほどの砂防ダムの話でも、川魚の移動を妨げる問題の解決策として、魚道が設けられている場所もある。しかし、管理が行き届いておらず、その魚道が落ち葉や土砂で埋まってしまって役割をなしていないものもある。工事期間に配慮しても、結局工事の後にはなじめずにその土地を去ってしまうものもあるかもしれない。よって、生育の確認もしていくべきだ。

 土木を介して人の暮らしは豊かになり、それと同時に環境を守ることができたらどれだけいいだろうか。近年は建物の緑化やビオトープの制作によってさらに環境保全が進んでいる。今はもう、土木工学者も生態学を深めていく時代なのかもしれない。


学生による論文(89) 「大災害から得る教訓を活かすことの重要性」 中村 亮介 (2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-25 06:21:56 | 教育のこと

「大災害から得る教訓を活かすことの重要性」 中村 亮介

 2011年3月11日、日本周辺における観測史上最大の地震である東北地方太平洋沖地震が発生した。この地震によって、東北地方と関東地方の太平洋沿岸部に大津波が押し寄せ、壊滅的な被害が発生した。また、巨大津波以外にも、地震の揺れによって、液状化現象、地盤沈下、ダムの決壊などが発生し各種インフラが破壊された。神奈川を含む首都圏では地震によって鉄道などの公共交通が麻痺し、多くの帰宅困難者が発生するなど、大きな混乱が起きた。この地震による被害の名称である東日本大震災による直接的な被害額は16~25兆円と試算されており、これは被害が大きかった岩手・宮城・福島の3県の県内総生産の合計に匹敵する。このように東日本大震災は甚大な被害を及ぼしただけでなく、日本経済にも大きな影響を与えていることが分かる。しかしながら、私はこの地震による被害は前例から学んでいなければもっと大きな被害が発生していたと考えている。

 その前例が1995年に発生した阪神・淡路大震災である。1995年に発生したこの地震では、建物の倒壊や火災によって大きな被害が出たが、この震災を教訓に耐震基準の見直しが行われ、建物への耐震性を上げる取り組みが行われていた。実際、2つの大地震による死因を見てみると、阪神・淡路大震災は圧死・損壊死等が死因全体の83.3%を占めている一方で、東日本大震災では圧死・損壊死等は4.2%であった。もちろん、地震の性質や被害地域の大きさも異なり、津波の発生の有無もあるので、一概に比較することは出来ないが、建物等の倒壊の割合が減少しているのは確実と言える。このことは、阪神・淡路大震災の教訓が見事に活かされた事例と言える。

 よって、私たちが次に行わなければならないのは次に東日本大震災級の大地震と大津波が発生した場合に東日本大震災の教訓をどのように活かすかということである。東日本大震災では道路・空港・鉄道などの交通インフラが大きな被害を受けた。インフラの復旧について、道路網は東北地方整備局が沿岸部への都市への救援のためくしの葉作戦を行ったことは有名であり、また復興支援のため従来あった東北自動車道に加え、より太平洋寄りを走る三陸沿岸道路を初めとした復興道路が新たに建設された。鉄道においては、常磐線や仙石線などが線路を従来走行していた場所より内陸に移設したり、駅を高架駅にするなど様々な津波対策を施して復旧している。

 震災から11年が経ち、東北地方の地震・津波対策はかなり整備されてきたと言える。次に起こるであろう大地震である首都直下や南海トラフ地震への備えが果たしてどれほど行われているのか分からないが、少なくとも今挙げた2つの地震は日本経済の大動脈である太平洋ベルトに大きな被害をもたらすのは確実であり、東日本大震災よりも経済被害は大きくなることは容易に想像出来る。被害を少なくするための東日本大震災から得ることの出来た教訓の一つは内陸にインフラ網を新たに整備することではないかと私は考える。例えば、新東名高速道路は東名高速道路に比べて内陸に建設されており、通常時は東名高速の交通を肩代わりする存在として、地震などの有事の際には、被害が少ないと推定される新東名高速道路が代替手段として機能するように整備されている。まだ全通はしていないが、いずれ起こる大地震に備えて代替手段を一つでも多く整備しておくことは、東日本大震災から得ることの出来た教訓の一つなのではないか。加えて、日本は地震の他にも台風や豪雨など自然災害が世界的にも多い国である。この国で生活をしている人々は自然災害への知識や備えについて他国に比べて関心を持つ必要があると考えており、土木を学んでいる者としてそれらを周知していく必要があると今回の講義を受けて改めて思った。


学生による論文(88) 「米とインフラについて考えたこと」 中田 宙希 (2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-25 06:20:49 | 教育のこと

「米とインフラについて考えたこと」 中田 宙希

 米どころといったらどこを思い浮かべるだろうか。私は、新潟県と北海道が日本一の米どころだと思っている。両道県は都道府県別の米の収穫量のトップ2である。小学校の時以来日本の統計データをあまり見ていないこともあり、また当時は今とは違い新潟県と北海道が競っていたこともあり、両道県を日本屈指の米どころだと思っている。ただ現在は新潟県と北海道でコメの生産量に差があるようである。ここで、北海道と新潟県についての米の変革を見ていきたいと思う。

 まず、北海道についてである。現在では北海道はゆめぴりかやきらら397、ななつぼしといったおいしいお米が有名であるが、かつて北海道のコメはとてもまずいことで有名であったらしい。そもそも米は温暖な地域に生息する植物であり、北海道で育てることは気候的に難しいものであった。また、寒さに強い品種を作ろうとすると味が落ちたり、味を良くすると環境に耐えられなくなったりするなど、北海道で育てるためのコメの品種改良にだいぶ苦労した過去がある。さらに、北海道は稲作どころか畑作もできないような土地が広がっている地域であった。植物が枯れた後その寒冷な気候によりうまく分解されなかったために形成された泥炭が堆積した土壌であったためだ。この泥炭地を改良するために、まず泥炭由来の土地は排水できないため排水設備を整備した。また、植物が育つ土壌にするためによそから土壌を運び込む客土と呼ばれる作業をした。さらに、農業をするにあたって取水用の用水路も整備した。これを一万一千ヘクタールにわたって行い農地を拡張したというのだから相当な大事業である。これらの事業によるインフラの整備効果には計り知れないようなものがあると感じた。全く米が作れなかったような北海道の土地を日本屈指の米どころに変えてしまったのだからストック効果が絶大なものであろう。

 次に、新潟県についてである。新潟県についても北海道と同様に現在ではコシヒカリなどのおいしいお米が有名であるが、かつてはまずいお米の代名詞だった。コシヒカリが作られる前までの新潟産の米は鳥すら食べないほどおいしくないお米という意味で鳥またぎと呼ばれていた。そのような状態であった新潟県がなぜ国内屈指の米どころとなれたのかというと、こちらもまたコメの品種改良と治水によるものであった。コメの品種改良は、戦後コメの増産のために病気に強い品種を作ろうとして改良を重ねられていった結果作られた米がコシヒカリである。味を良くしようとして作られた米ではなかったようであるが、結果的に味の良いコメとなったため新潟県以外にも広がるほど成功した品種である。また、治水の点は、暴れ川であった信濃川の治水事業により平野部の洪水が減り、安定的に農業を行えるようになったことが挙げられる。今では日本の田んぼはすべて乾田化を達成しているが、以前は田んぼを水量に応じて乾田、水田、沼田と三種類に分けていた。沼田が一番水の多い形態である。新潟は水田が広がっていた。乾田化していない田んぼは米の収量はあまり多くならない。信濃川には現在大河津分水路と関谷分水路という二つの分水路が存在するが、その分水路のおかげで田んぼを使いやすいように保てているという側面がある。新潟県においてもインフラ整備のおかげで稲作産業に大きな影響を与え、新潟県を日本屈指の米どころにした。

 米がまずいといわれていた新潟県と北海道であるが、今では米の有名生産地である。時の判断により整備されたインフラは地域に大きな影響を与え、地域に大きな稲作資源を生み出した。米について考えてみることにより、改めてインフラ整備事業の存在の大きさ・ストック効果の大きさを実感できた。ただし、秋田県の八郎潟のように、干拓して田んぼを作ったはいいが、干拓が終了したころには減反政策に転換し、農家に多額の借金を負わせ、自殺する人まで生み出したような事業もあるため、インフラ整備事業自体が悪であるとは思わないが、先見性を持ち、正しいタイミングで事業を進めないと時には人民を苦しめることになることには気を付けなければならないと感じた。情勢や計画性を考えたうえでインフラ整備をすることは必要なことであり、政権が変わるごとに政策が変わるようではいけないだろう。もっと中長期的な視点で施策が決められるような世の中でありたいと思った。


学生による論文(87) 『希薄な地縁と自然災害』 中嶋 駿介 (2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-25 06:19:23 | 教育のこと

『希薄な地縁と自然災害』 中嶋 駿介 

 私は小学生時代を愛知県の名古屋で過ごした。愛知県から想起される自然災害問えば南海トラフ地震ではないだろうか。近い将来に必ず起こると言われ続けている南海トラフ地震。その当事者となる愛知県では、災害に対する意識が他県とは一味違うことを肌で感じた。その最たる例が避難訓練の質が極めて優れていることだ。小学校での避難訓練自体は全国どの学校でも行うだろうが、愛知県の避難訓練の優れている点はそれが抜き打ちに近い形で行われることだ。東京の学校では、「何日の何時から避難訓練を行います」と日時が指定して行われる。しかし、愛知の学校では「何日に避難訓練を行います」としかアナウンスされないのだ。訓練が実施される日付こそわかるものの、その日のうちどのタイミングで訓練が実施されるか分からない。このことには、訓練をより実践的にする効果がある。授業中に訓練が実施されることもあれば、教室を移動している最中に実施されることも、校庭で遊んでいるときに実施されることもある。このように実践的な環境で訓練が実施されるという点で愛知県の防災に対する意識は非常に優れていた。

 しかし、(地震に限らず)自然災害に対する不安が限りなくゼロに近い状態で生活できることこそが望ましいことなのではないだろうか。「大きな地震が来てもこの建物は大丈夫」「大雨が降ってもここは浸水しない」このような安心感を共有できる社会を目指すべきではないだろうか。先に挙げたような常日頃の訓練が重要であることは間違いない。だが、やりようによっては災害に対する不安を最小限に抑えて生活を送ることが可能だと私は考える。

 本当にそのようなことが可能なのであろうか。静岡県の試算をもとに考察してみよう。この試算は南海トラフ地震を対象として対策を施さなかった場合と施した場合の死者数を比較している。前者の場合は津波によって約96000人が死亡し、後者の場合は16000人が死亡するという。約80%も死者を減らすことができる試算だ。このように、現状のままでただ災害を迎えるのではなく、対策を打てば被害を格段に減らすことができる。すなわち、災害への不安を少しでも減らすことが可能なのである。

 それにもかかわらず、全国の防災インフラの整備は緩やかにしか進行していない。愛知県は日本最大の海抜ゼロ地帯である。南海トラフ地震による津波被害は甚大なものとなることが見込まれる。このようなリスクを抱えているにもかかわらず、木曽三川の河口部における耐震工事はいまだ完了していない。津波が発生した際にはこの河口を遡上する形で津波による被害が拡大することは間違いないだろう。

 では、なぜ防災インフラの整備は円滑に進展しないのだろうか。その一因として、国民が防災インフラの整備に無関心であることが挙げられると私は考える。要するに、防災インフラは「自分たちの自分たちによる自分たちのための」ものであるという意識が欠如しているのだ。「国民」と言ってしまうと主語があまりに大きすぎるかもしれないが、同様の問題はより身近なスケールでも見られる。新潟県の大河津分水路は、越後平野を洪水から守る偉大な防災インフラである。このインフラが2019年の台風19号の際に威力を発揮することとなった。台風によって信濃川の上流にもたらされた大雨は、時間差をもって大河津分水路を襲った。このとき、通水以来過去最高の水位を記録したという。一歩間違えれば越流、浸水という危機的な事態になったが、すぐそばの学校では避難するどころか運動会が行われていたそうだ。このエピソードからは、歴史的に重要な防災インフラを持つ地域の市民でさえも防災への意識が希薄になっている傾向が読み取れる。ましてや、都市部で暮らす多くの市民が防災インフラに無関心であるのは仕方がないことなのかもしれない。

 このような無関心を生み出してしまった一因は、私が以前のレポートで提唱した「地縁」の希薄化にあるのかも知れない。多くの人が生まれた地で一生を送っていた過去の時代とは違い、仕事などの都合で居住地を転々としながら生きる現代人。(私の家族もそうであった。)このような現代人にとって、自分に縁もゆかりもない土地の所有物、ましてや防災インフラに無知、無関心なのは仕方がないことなのかもしれない。しかし、この現状を容認できないことはこれまでに述べてきた。「自分たちの地域は防災インフラを所有しているのだ」という防災インフラへの意識を改革し、いずれは「防災インフラに投資をしよう」という社会を築いていくことが必要だ。そのために、インフラを管理する土木事務所が率先して地域の市民向けの交流会、見学会を開催するのは一つの手だろう。防災インフラと市民の距離を縮めようとする努力の蓄積によって社会を変え、自然災害に打ち勝つことができる社会になっていくと考える。

参考文献
静岡県危機管理部, 『静岡県地震・津波対策アクションプログラム2013』, http://www.pref.shizuoka.jp/bousai/seisaku/ap2013.html, 2022年11月18日閲覧

 


学生による論文(86) 「自然災害の恐ろしさを蔑ろにする日本人の末路」 重里 友太 (2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-25 06:18:28 | 教育のこと

「自然災害の恐ろしさを蔑ろにする日本人の末路」  重里 友太 

 今日本は世界でもTOP10に入るほどの平和な国であり、非常に安定した国家であるといえる。その反面、国民は平和ボケした人間が多く、日々を安定して暮らすことができていることに慢心してこの国をより発展させようという意識がなく、その証拠としてこの国の国内総生産は減少しているのである。そんな日本が50年前は世界屈指の経済成長率で発展していたということ、また一時期は世界最大の経済大国であったということは考えられない。なぜこのような違いが生まれてしまったのだろうか。その謎を解く鍵はやはり「平和」という状態にあるだろう。世界大戦後の日本はどうしようもない壊滅的状態に置かれており、いわばなにがなんでも都市インフラを整備するしかなかった。この時代に整備された代表的なインフラとして、黒部川第四発電所つまり黒部ダムが挙げられる。黒部ダムは1950年代の関西の電力不足が深刻であったために、黒部ダムを作ることによって電力不足を解消しようとした。黒部ダムの工事にあたっては厳しい自然条件の中、171名の犠牲者を伴いながらも7年という歳月を掛けて完成した。当時は安定な暮らしとはかけ離れており、人々は死というものと向き合いながらにして日本をよりよくするために必死に工事を行っていたのである。それに対し現在は技術の向上によって安全性が保証され、難しい工事でも工夫することで安全面が確保された施工が可能になったが、少しでも難工事だとお金を掛けて行うことが無駄だと言って必死に工事を行うことがなくなってしまった。今までずっと向き合ってきた死という危険から今の日本人は目を背けることができてしまうようになったことで、死という存在が遠ざかり、それにより人々を本気にさせる機会が少なくなってしまった。これが平和ボケと言われる所以であると思う。過去最大級の災害が来ると言われたとしても、人々は死ぬことはないと心の底では思っているだろう。それが自然災害の被害を抑えるための都市インフラを整備するのが無駄であると思っている原因である。近年様々な災害が起こっても犠牲者がほとんど出ないのは都市インフラを整備し続けていたおかげであるにも関わらず、死者が出ていないからとインフラを整備する必要がないと勘違いしてしまっている。講義内で述べていたように南海トラフ地震が起きた場合の経済損失が1200兆円と推定されているが、35兆円をインフラ整備に充てることによって経済損失が700兆円に抑えられると試算されている。30年以内に南海トラフ地震が起こる可能性が高いと言われているにもかかわらず何の対策もしないのは、どうせ自分には関係ない、自分は死なないと安心している人々が沢山居ると言うことと、人々を不安にさせる情報だけが先走りしているために対策を行うことで損失を抑えられるという事実を把握していないからだと考える。日本がまた本気になるためにはもしかしたらまた痛い目に遭わないといけないのかもしれない。もし痛い目に遭えば人々はまた本気を出すことができ、物事の本質を見ることができるようになることでまた50年前のような経済成長が期待できるかもしれないが、それは経済成長のためには経済損失を伴わなければならないということであるから、いわば自作自演の経済成長ということになり、非常に情けない。そうならないためにも、今一度今まで自然災害と闘ってきたという事実を再確認し、自然災害と向き合う必要があると思う。

 


学生による論文(85) 「災害への意識をもっと高めよ」 久保 智裕 (2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-25 06:17:17 | 教育のこと

「災害への意識をもっと高めよ」 久保 智裕

 今回の講義テーマは自然災害の克服であった。日本は美しい自然に囲まれる一方で自然条件はとても厳しく、様々な自然災害のリスクに囲まれた災害大国である。巨大地震や津波、豪雨や河川氾濫による洪水、そして火山の噴火など例を挙げれば多岐にわたるほど災害の脅威に面しているのである。過去には多くの死者や被害をもたらした災害が多く発生していたが、災害の被害が少しづつ減ってきているのは明らかに土木の恩恵である。一見日常では感じにくいものの、ダムや砂防堰堤、そして堤防など様々なインフラによって私たちの生活が守られ続けているのである。インフラのストック効果がここでも発揮されているのである。以前この講義の論文でも述べたかもしれないが、このような事実に気づいている国民の少ないことにとても悲しくなる。インフラは初期投資の費用(=フロー)が大きいのはもちろんあるがそれしか見ようとせず、ストック効果については全く考慮しないのが腹立たしくなってくる。国民の意識が低いのが1番の課題であろう。

 さて、国民の意識の低さは災害についても同じことが言える。あまり報道される機会は多くないが、日本の防災面への投資はまだまだ足りていない。一般会計に対する防災関係予算額も年による増減は多少あるものの長期的に見ると減少を続けており、今の国の対策では十分に命や財産を守ることができないだろう。今の状況が続いたなかで大災害が発生したら、この国は確実に壊滅的な被害を受ける。それを防ぐにはインフラや防災対策の投資を増やしていくことが大切であり、それしか解決策はないだろう。インフラは投資しても完成まで時間がかかる。それだからこそいつ起こるかわからない災害へのに備えるために、一刻も早い投資とインフラの整備が求められる。私たち国民はもっとシビアに災害について考え、世論を形成すべきなのである。

 さて私は昨年度から地域課題実習「はまみらい」の一環で「はまみらい防災室」というTwitterでの防災アカウントの運営にかかわっているが、その活動の中で私は何度も何度も日本人は災害への意識が低すぎると感じた。それは自助・共助・公助のすべてに言えることではあるが、とりわけ自助に対しても意識が低いと感じる。自助の意識が低いということは、言い換えれば自分の身すら自分で守ろうとしないということである。これではいくら予報精度が向上したり国が災害対策を行ったりなど公助が充実したとしても、被害を防いだり減らしたりすることはできないであろう。では本当に意識が低いのか、1つ事例がある。今年の9月下旬、大雨により横浜市に土砂災害警戒情報が出され、それに対しての避難指示が出された。地域にエリアメールが出るなど行政から住民に対しての周知はきちんとされ、避難所もいくつも開設された。では避難した人数は何人だっただろうか。

 実際に避難したのは、市内合計で数十人にも満たなかったのである。このほかにも住友生命が行った調査によると、家庭での防災対策費が0円という回答が全体の半数を占めるなど防災意識に低さが露呈しているのである。この自助などの防災への意識改革をしない限り、いくら公助を高めたとしても一切効果はないと私は断言する。先ほど言及したようにインフラの完成には時間がかかる。そのため整備が間に合わない場合もあるだろうし、想定を超えた災害が起こる場合も出てくるかもしれない。そのような際に自助がしっかりされてないと大きな被害が出るのは明らかである。公助がもちろん大切であり避難しなくても助かるような国になるにが最善であるが、実現には時間もお金も莫大にかかる。そのため自助をもっと高めていくことが大切であると言えるだろう。

 災害はいつかくるものという意識を持っている人が多いのかもしれないが、楽観的に考えず「災害は必ず来る」もの、そして今日明日にもくるかもしれないという意識に変えて、国民・国問わずできる対策を取ることが最重要である。明日もし災害が起きて自分が死ぬかもしれない、そうならないために何ができるかを考えて行動を変えていくことが第1歩になるだろう。

参考文献
住友生命保険相互会社. “スミセイ「わが家の防災」アンケート 2022”. 住友生命,
https://www.sumitomolife.co.jp/about/newsrelease/pdf/2021/220302.pdf ,(参照2022-11-18)

 


学生による論文(84) 「荒川の治水翁」 木崎 拓実 (2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-25 06:16:13 | 教育のこと

「荒川の治水翁」 木崎 拓実 

 地図を荒川に沿ってみていくと、埼玉県に入ったあたりからいくつも三日月湖がみられる。三日月湖は、もともと蛇行していた川を氾濫しにくくするために直線化工事を行うときにできる、旧河道のことである。その三日月湖群の一つに、埼玉県さいたま市と富士見市に位置する、びん沼がある。このびん沼のできる原因となった、河道直線化を推進した政治家が治水翁・斉藤裕美である。ここでは、治水翁とまで呼ばれるようになった、彼の人生から、私たちが防災とどのように向き合うべきかについて述べる。

 荒川の直線化工事が行われる前、びん沼周辺では氾濫が頻発していた。地図を見ればわかるように、埼玉県南部の平地に位置するびん沼は複雑にカーブしている。そこに、大雨が降って大量の水が流れてくると、水はカーブにぶつかって堤防を壊したり、乗り越えたりしてしまう。また、直線化工事と同時期に建設された荒川横堤からも、この地域の氾濫が深刻だったことがうかがえる。横堤とは、上流からくる水流の勢いを抑え、下流を守るために作られるものであり、横堤が建設される地域は水浸しになってしまうからである。当時のびん沼周辺は、そんな水浸しになっても仕方ないと思われるような地域であった。

 斉藤裕美は、1866年に現在の荒川本流に位置する埼玉県馬宮村で外科医の次男として生まれた。彼は当初、医学を学んでいたが、1890年に荒川で起こった洪水を経験して、治水事業を実現すべく、政治家となった。荒川の治水を修正の事業として、荒川治水会を設立し、荒川の治水事業の必要性について県議会などで訴えていた。当初、彼の計画は受け入れられなかった。しかし、1910年に、大洪水が起こった。この洪水の被害は、埼玉県内だけでも死傷者401名、農産物の損害は2,400万円(現在の約1,000億円)にも上った。これを契機として、直線化工事や横堤を含む荒川の抜本的な治水計画がすすめられた。その後、裕美は政治家として、河道直線化に関わる用地取得や、現在の荒川をまたぐ治水橋の建設などにも尽力した。

 以上、斉藤裕美の人生を概説してきたが、これらのことから、私たちが防災に向き合うためのヒントが見える。まず、地元が深く関係していることである。彼が治水事業を志すきっかけは、地元である馬宮村の洪水経験であるし、建設した橋も、新しく河道を作ったことにより分断された馬宮村をつなげるようになっている。地元で行う事業は、自分事としてとらえやすいため、周りに反対されてもモチベーションを保ち、放棄せずに事業をやり遂げることができたのだと思われる。

 このことは、非常に単純なことであり、自己中心的であるようにも思える。もちろん荒川治水事業のような国家プロジェクトの目的としては、地元だけでなくより多くの人の利益となることを目指すべきである。しかし、多くの反対意見に対してもあきらめず、自分の正しいと信じることを貫くために、この自分事意識、あるいは地域への愛着は重要であるように思える。

参考文献:
「明治43年の洪水」 荒川上流河川事務所 
https://www.kumagaya-bunkazai.jp/kounanmatinoiseki/kbk_2021_019.pdf (2022/11/19閲覧)
「斎藤祐美」 荒川上流河川事務所
https://www.ktr.mlit.go.jp/araike/pdf/100neta/100neta_021.pdf (2022/11/19閲覧)

 


学生による論文(83) 「先人たちの想いを土木で解決する」 粕谷 昌貴 (2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-25 06:13:48 | 教育のこと

「先人たちの想いを土木で解決する」 粕谷 昌貴 

 自然災害は何度も繰り返す。信濃川における洪水や神戸の土砂災害、南海トラフでの地震、線状降水帯、火山の噴火など、自然災害は今に始まったことではなく、昔から何度も起こり続けてきたと先生も講義中におっしゃっていた。初回の授業で紹介されていたように、土木は、そのような「残酷で荒々しい自然に対して、人間が適切に働きかけることで、国土から恵みを得るための行為」である。

 ただ、現状、すべての災害に対して、土木が自然災害をコントロールし、恵みを得ることが出来ているのか、というとそうとは言い切れない。数年~数百年に1回は、既存の土木構造物による対策を上回る災害がやってくる。先人たちは、その度により高い能力を持つ土木構造物を構築し、成長してきた。

 しかし、先人たちの災害対策はただ土木構造物のようなハード対策を行うだけにとどまらなかった。災害の経験を活かし、ソフト対策も同時に行ったのである。ここからは、先人たちのソフト対策について紹介しつつ、それらの現状の問題点を考えていく。

 そもそも、災害が繰り返し発生するとはいっても、それがどのくらいの頻度で発生するのかというのは我々人間にはわからない。次発生するのが数日後かもしれないし、数百年後かもしれない。そのため、先人たちは起こった災害を何らかの方法で後世に伝えていく方法を考えた。例としては「危険性を示した地名をつける」「発生した災害についての石碑を建てる」などが挙げられる。これらのソフト対策によって、後世に警告を発した先人たちであるが、これらはどのように機能したのだろうか。それぞれ検討していく。

 まず、「危険性を示した地名をつける」という方法について考える。

 地名は、土地の地形や風土が由来となったものや、その土地を支配していた戦国武将が名付けたものなど、由来は様々である。よく災害が発生した場所では、何回も同じような災害に見舞われているため、「危険性を示した地名をつける」ということが多い。ただ、このような地名がつく場所では、縁起が悪いからという理由で先人たちの警告を無視し、読みが別の漢字に変える、またはそもそも全く違う地名にしてしまうなどという場合がほとんどである。その結果、安全そうな地区に見えても、実は自然災害の被害を受けるリスクが大きいという場所は少なくない。

 例えば、広島市安芸区矢野東7丁目にある住宅団地は、地元では「梅河(うめごう)団地」と呼ばれていた。梅河の地名は「埋め河(川)」に由来し、縁起を担いで「埋め」を松竹梅の「梅」に変えたと伝わる。この地区は2018年の西日本豪雨において、民家約20棟が土石流にのまれるなどの被害を受けた。昔からの危険地帯であった、という先人の警告は機能しなかったといえるだろう。

 このように、「危険性を示した地名をつける」という点では、残念ながら今はほとんど無意味なこととなっていて、その警告の効果はないに等しいといえるだろう。

 次に、「発生した災害についての石碑を建てる」という方法について考える。

 石碑は、特定の出来事や人物の記録や言葉などを後世に残す文章(銘文)を彫り込んだ石である。特に、自然災害においては被害の記録を伝えているものや、後世に生きる人へのアドバイスや警告をしたものが多く、地名よりも強いメッセージが込められていると感じる。

 例として、岩手県にある2つの津波に関する石碑を挙げる、1つは宮古市重茂の姉吉地区にある「大津浪記念碑」、そしてもう1つが釜石市唐丹町本郷地区にある石碑である。

 最初に、宮古市重茂の姉吉地区と「大津浪記念碑」について考える。まずは、石碑に記された全文を下記に示す。

 高き住居は児孫の和楽
 想へ惨禍の大津浪
 此処より下に家を建てるな
 明治二十九年にも、昭和八年にも津浪は此処まで来て
 部落は全滅し、生存者僅かに前に二人後に四人のみ
 幾歳経るとも要心あれ

 この石碑は東日本大震災後に非常に有名になった石碑である。この地区では明治三陸大津波(1896)では60人以上が、昭和三陸津波(1933)では100人以上が犠牲になり、それぞれ生存者が2人、4人と、2度も壊滅的な被害に遭ったという歴史を持つ。それを踏まえて、昭和三陸津波の後、住民によってこの石碑は建てられた。その後の東日本大震災では、漁港から続く坂道を約800m上った場所にある石碑まであと少しというところまで津波が迫ったが、「此処より下に家を建てるな」という先人の警告を守ったことで、沿岸部の家々が津波で押し流された宮古市であるにもかかわらず、建物被害は1軒もなかった。もし警告を無視して低地に家を建設していれば、今回も多くの方が亡くなることになっていたかもしれないので、先人の警告が十分に機能したといえるだろう。

 2つ目として、釜石市唐丹町本郷地区と石碑について考える。これは明治三陸津波に関する「海嘯遭難記念之碑」と昭和三陸津波に関する「昭和八年津浪記念碑」の2つがある。これらも同様に、全文を下記に示す。
 
「海嘯遭難記念之碑」
明治二十九年六月十五日邦俗端午の故をもって閭里交賀し、家族互いに歓娯す。この日朝より陰晴不定昔微雨を伴う。暮天地震うこと両三次、午後八時に及び海上に突如殷雷の如き響を聞く。須臾にして狂瀾洪濤天を衝いて襲い来たり。部内800の生霊を奪い、300の屋舎を壊滅し去る。ために部民の桔据経営によりて成れる我が本郷の街区忽焉として荒陬と化し、また幽闇のうち濁浪に漂いし同胞の叫喚、今尚啾々の声あるを、疑いの疲憊の余り身をもって免れたるもの僅かに20名、悽惨またいうべからず。衆庶後昆宜しく協同輯睦民風を振粛し、もって先霊を弔い追遠の誠を数致すべし。昭和三年第三十三回忌辰に丁り、有志相謀りてここに記念の碑を建て、永く世に諗ぐ。
 
「昭和八年津浪記念碑」
 大津浪くぐりてめげぬ雄心持ていざ追い進みまい上らまし

 「海嘯遭難記念之碑」は明治三陸津波の鮮明な記録と亡くなった方々の慰霊を、「昭和八年津浪記念碑」は津波避難に関する願いを記している。どちらも当時の状況や想いがよく伝わるものであるが、この地区の1番の問題は居住人口の増加によってこれらの経験が活かされなかったことであった。

 昭和三陸津波の後、この地区では集落の高台への移転が進められた。その後、しばらくすると自動車の普及や道路整備が進み釜石とのアクセスが向上したことで、外部から転入などによって世帯が増加した。ただ、それらの世帯は、高台に余地がなかったことなどから、昭和三陸津波の浸水域やその周辺部の低地に住居を建設してしまった。その結果、東日本大震災では、移転地がまったく浸水しなかった一方で、これらの低地は壊滅的な被害を受けた。かつての津波の教訓や先人の想いは、新たにやってきた人々に届かなかったのである。

 震災後には、津波浸水域への居住が禁止されたことによって、この土地に住居を建設することはできなくなった。ただ、もしこの石碑が指し示していた歴史を転入してきた人が理解していれば、低地に住むという選択をしなかったのではないだろうか。そして、震災における人的・建物被害も少なくて済んだのではないだろうか。

 このような津波に関する石碑は東北の沿岸部に多数存在しているが、東日本大震災の時に姉吉地区のように警告が機能した場所もあれば、本郷地区のようにうまく機能しなかったところもあった。ただ、全体的に見れば「発生した災害についての石碑を建てる」ことで被害縮小につながったのではないだろうか。

 以上のように、地名や石碑など、先人たちが作ってきたソフト対策とその現状を検討してきたが、どれも時代の変化によって、意味を持たなくなりつつあるといえるだろう。

 現在は神戸の土砂災害のように土木によるハード対策でコントロールできる災害も増えてきた。津波の被害があった地域もさらに高い堤防を築くことで、いつかやってくる次の地震への準備を着実に進めている。また、最新のシミュレーションに基づくハザードマップの作成などから避難計画の作成を行うことや津波災害特別警戒区域を設定することなどにより、ソフト対策も十分整ってきている。

 このまま技術が進化し、土木によるハード対策が充実し続けていけば、繰り返されている自然災害をほぼ無害というレベルにまでコントロールすることが可能になるかもしれない。そこまでたどり着くことが出来れば、先人たちの想いや願い、警告を無視することなく、自然災害と付き合い,国土からたくさんの恵みを得ることが出来るようになるだろう。

参考文献
・読売新聞オンライン 洪水危険、土砂崩れ注意…「地名」は警告する
 https://www.yomiuri.co.jp/column/japanesehistory/20220221-OYT8T50054/
・記憶の部屋・東日本大震災 「此処より下に家を建てるな」 石碑の警告守る <宮古・姉吉地区>
 http://memory.ever.jp/tsunami/tsunami-taio_307.html
・国土交通省 津波被害・津波石碑情報アーカイブ
 https://www.thr.mlit.go.jp/road/sekihijouhou/archive/map-ichiran/ichiran.pdf
・津波により高所移転した集落の「低地居住」要因の検証 ―山口弥一郎の指摘と東日本大震災前後の唐丹本郷―
 https://www.jstage.jst.go.jp/article/tga/73/2/73_77/_pdf


学生による論文(82) 「地方の防災の形」大倉 結衣 (2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-25 06:10:42 | 教育のこと

「地方の防災の形」 大倉 結衣

 今回の講義では自然災害の対策についてたくさんの資料をもとに知ることができた。日本はそう広くはない国土で数多くの自然災害が発生する。また、東京や大阪などの大都市に人や企業が集中していたり、もうすぐ起こりうる南海トラフ地震の対策を行っていたりするために、大都市や太平洋側の港湾地域への防災が検討されたり、報道されたりしている。実際、授業中に提示された土木学会の報告書では検討されている災害は太平洋側や三大都市圏での自然災害である。しかし、内陸や日本海側の地域でも大雨による洪水や土砂崩れなどの災害が起こる可能性は高い。そのような地域ではどのような対策を行っていけばよいのだろうか。

 内陸部の農業がおこなわれている地域の中には霞堤を設置している地域がある。霞堤は不連続な堤防である。川の増水時にわざと農地などに水を流出させている。霞堤の機能としては二つ挙げられる。一つ目は洪水時に川の水を一時的に遊水させる洪水調節機能であり、二つ目は氾濫した水をスムーズに川に戻す機能である。実際に最近でも効果を発揮している。2022年8月5日の京都府長浜市での豪雨によって高時川が増水し、一部氾濫が発生したが、中流部にある霞堤が被害の軽減に一定の役割を果たしたとみられている。授業に出てきた渡良瀬遊水地も同じような機能を保有している。また、授業でも出た砂防堰堤は山の斜面や川の侵食によって流れる土砂をためることで川の流れを緩やかにしたり、斜面崩壊を防いだりして土砂の流出力をコントロールすることで、土石流発生時の被害を減らすことができる。

 このように霞堤や砂防堰堤のような現在取り入れられていたり、採用されたりしている防災対策はある程度自然災害を受け入れているように思われる。小さめの被害を受けることで大きな被害が発生しないようにしている。このような防災対策が今後、内陸部や日本海側の地域で主流になっていくのではないか。故意的な氾濫は利点もある。例えば霞堤では増水時に川に生息している生物が霞堤で発生する遊水地を避難場所にすることで、生物が下流に流されにくくなり、生態系の維持につながる。また昔のことではあるが、ナイル川では洪水によって肥沃な土が周辺地域に堆積したことで農業が栄えた。

 しかし、このような防災対策は一部の土地を犠牲にして成り立っている。特に霞堤は私有地が犠牲になることが多い。信玄堤で有名な甲府盆地では戦国時代は霞堤を持つ地域の領民への租税の免除などの保障を取り入れていたが、現在は設定されていない。河川全体の防災を考えると中流地域での霞堤は必要不可欠である。氾濫による被害を少しでも小さくするために霞堤地域の公的支援を行うべきである。


学生による論文(81) 「社会基盤が広げる土地利用」 伊東 秀真(2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-25 06:09:36 | 教育のこと

 「社会基盤が広げる土地利用」 伊東 秀真

 細田先生は再三言及されているが、社会基盤によって我々の国土はより便利なものになった。講義で取り上げられた例を用いると、越後平野は大河津分水路と関屋分水路の整備で水害に悩まされることがなくなった。その結果、日本有数の米どころとして新潟は急速な発展を遂げた。ほかにも、青山士の荒川放水路の開削や、利根川東遷と土木工事によって、数々の大規模な洪水氾濫を未然に防いできた。「土木の持つ力」を、国民が実感を持って理解する重要性を述べたい。

 まず、土木の持つ力について私の理解を説明しよう。土木は0から1を生み出す力がある。感覚的に理解していただくため、人口密度や開発圧力が低く、自然の本来の姿が残されている新興国(パラグアイ)の地方部に着目したい。グーグルなどの衛星写真で見れば、流路に沿うように木が生えているので、どこに川が流れているか一目瞭然である。ここで注目したいのが、ほとんどの川沿いの土地は何にも利用されておらず、ただ緑の原野が広がっている点だ。なぜ、水源近くの土地が畑や牧場として利用されないのか。それは、「単に使い物にならない」という理由であろう。もちろん、人工的な堤防が無いので、堆砂や氾濫が予想される。ほかに土地があるのに、なぜ雨季のたびに氾濫を起こすような土地を選ばなければならないのか。こうして利用価値ゼロの土地が生まれる。ここで、興味深いエピソードを紹介しよう。ある大学は、川沿いの原野に圃場を作るため、土地の周囲に簡単な用水路を掘ったそうだ。その結果、氾濫を免れるようになったという。これこそが土木の真髄ではないだろうか。使い道の無かった土地が、掘削という簡単な工事で使い道あふれる土地に生まれ変わったのである。

 先の新潟の例を用いれば、高度経済成長に伴って国道8号、北陸道、上越新幹線が順次建設され、土地利用の効果を数百倍にも高めた。そのきっかけとなったのは、紛れもない2つの分水路である。我が国最大の平野、関東平野で4000万人が暮らせているのも、利根川東遷によって氾濫しない土地が得られたからである。

 一般的な日本人は社会基盤によって土地利用の幅が広がるという実感をどれだけ持っているだろうか。生まれた瞬間から高度に都市化されていて、各構造物がどのような役割を果たしているか理解しないまま生活してきたのではないか。確かに大雨や台風が来たその瞬間は、ダムや堤防の果たす役目を思い出すかも知れない。2019年に関東平野に大きな被害をもたらした台風19号のとき私は、「川が溢れたら家が沈んでしまう」と川沿いの低地に15年以上暮らして初めて感じた。しかし、平時は全く自分の生活が支えられているとの自覚を持っていなかった。言い換えると、社会基盤が無ければカオスな自然相手に戦わねばならないとの意識が抜けていた。それと同時にカオスな自然から文明的な生活を送れるようにと先人が整備してくださった社会基盤のありがたみを感じなければならない。そして、土木の力を留めておけば、激甚化する災害に対しても手を抜くことなく、備える必要があることも分かるだろう。


学生による論文(80) 「自然災害の恐怖について」 油谷 壮太郎(2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-25 06:08:22 | 教育のこと

「自然災害の恐怖について」 油谷 壮太郎

 私は「自然災害」というものについて考えた時に、私が高校一年生の時に起きた、大阪北部地震のことを思い出した。日本は地震の多い国なので自然災害の中でもイメージしやすいものなのではないかと思う。そして日本は地震の多い国なので、日常でも地震を感じることは多くあるが、大阪北部地震は私が経験した中では、最も大きな地震であり、恐怖を感じたことを覚えている。地震発生時私は通学中で自転車に乗っているところであり、自転車のハンドルが一瞬操作できないような感覚になり、揺れに自転車をつかまれてしまったかのような感覚に陥った。その時に感じた恐怖はとても大きなものであり、経験したことのない現象に少し混乱してしまった。大阪北部地震は東日本大震災や、阪神淡路大震災のようなとてつもない被害を生み出し歴史に深く残るような地震と比べると、あまり大きな地震ではなかったのかもしれませんが、大阪にいたので東日本大震災を直接大きな揺れとして感じることはなく、地震というものが日常でよくある弱い地震の程度のようなイメージであったことが、大きな地震に対面したときの混乱を招いた原因であったのではないかと思った。最も身近な自然災害が地震であり、頻発しているようなことであるからこそ、大きな地震が起きた時にいつもと違うということで大きな恐怖を生んでいるのではないかと思う。また自然災害ということで考えたことはもう一つある。それは私が最近見た映画である「すずめの戸締り」という映画である。新海誠監督の最新作であり、大きなテーマとして地震を扱っている映画である。私が思うに新海誠監督作品は自然災害をテーマとして、それにどうかかわっていくのかということが物語の主軸にあるのではないかと考えている。「君の名は」では特殊な入れ替わりという現象を使って、隕石の落下によって起きる天災を回避することが物語のメインになっていた。次作の「天気の子」では大雨という自然災害を祈りで対抗する代わりに一人が犠牲になってしまうということに対して、自然災害を受け入れることでその一人を犠牲にしないという道を選択する話であった。今回の「すずめの戸締り」については公開中のため詳しい言及は避けることにするが、地震という天災に対して避けられないものとしてではなく、抑制できるものであるして描いていた。毎作品で自然災害を扱い、すべてに神事的な要素を絡めている監督であると思った。そしてそのような非現実的なことに対して、私たちがこの作品を見て共感し、現実を感じているのは自然災害の恐ろしさというものが作品でも現実でも共有のものであり、人々の記憶の中に深くしみついているものであるからなのだと私は考える。このように人の記憶に刻まれているからこそ、恐怖を感じる対象であるのだと私は思う。

 


学生による論文(79) 「ダムの崩壊から学ぶ土木技術の向上」 安宅 建人(2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-25 06:06:59 | 教育のこと

「ダムの崩壊から学ぶ土木技術の向上」   安宅 建人

 本日の講義ではダムがもたらす利点についての話があった。しかし、その中で私が気になったのはダムの建設における失敗である。工事中に多くの犠牲者が発生したという話はよく聞くし、先日訪れた黒部のロクヨンダムでもその慰霊碑に刻まれた人の名前の多さに驚いたものだ。ただ、ここで取り上げたいのは構造物そのものにおける建設や運用の失敗についてである。本日の講義であった大河津分水路の話で洗堀して壊れ、信濃川の水がすべて分水路の方に流れ、平野への水の供給が止まるという話と同様に、洗堀したりそもそも堤体に不備があったりして壊れた事例がないか調べてみたところ、日本と海外でそれぞれ非常に興味深い事例があったので紹介する。

 まず初めに紹介するのがアメリカのアイダホ州に1972年から76年にかけて建設されたティートンダムについてである。このダムは堤高93メートル、堤長930メートルという規模の岩石や土砂を積み上げて建設された多目的なロックフィルダムという形式であった。その内部構造は粘土質の土を含む水の浸透を防止するコアの周りに遮水壁があり、その外側にロックの層があるという構造であった。このダムの周囲は比較的地盤が柔らかかったため、コアを川底よりもさらに深いところまで作り、コアを河床に確実に固定し、地下からの浸透水をも防ぐカットオフトレンチという構造が採用されていた。そしてそれ以外でも浸透水の防止のため、グラウトカーテンという基礎岩盤にセメントミルクやモルタルをカーテン状に打ち込んだ遮水壁がある。これは堤体の下部だけでなく、左右にも存在している。

 このように一見、十分な浸透水対策がなされているようだが、実は左右に打ち込まれたグラウトカーテンは岩盤の浸透性があまりにも多かったため、20メートルほど岩盤を掘削したうえでグラウトカーテンを打ち込んでいる。しかし、この部分のから漏水が発生してしまった。一度発生した漏水は止めることが出来ず、パイピング現象が進行してしまったため、最後には堤体自体が崩壊してしまった。

 幸い下流域では漏水が始まった段階で防災情報が行き届いたため、被害総額20億ドルに比べ死者11人と人的な被害は抑えることができた。この事故をきっかけにパイピング現象が土木施工者の中でより周知され、ロックフィルダムの止水処理について議論がなされるきっかけとなった。

 次に紹介するのが北海道の紋別郡に位置する幌内ダムである。このダムは堤高21メートル、堤長162メートルという比較的規模の小さな重力式ダムで、道内の深刻な電力不足を解消するため、発電を目的として1939年から建設されたダムである。戦争中ということもあり、炭鉱の需要が高まっていたため、わずか2年ほどの1940年末に堤体が完成した。しかし運用直前に発電所施設が火災になったため、その半年後に発電所の修理が終わり、その事前点検が行われることになった。しかしその点検の直前に幌内川周辺に集中豪雨が発生、ダムが川の下流域にあったこともあり、広範囲に降った雨が一気にダムに押し寄せた。さらにまずいことに、ダム上流に無許可の材木流送用の網場を設けたことでおびただしい数の流木もがダムに押し寄せた。その結果ダムのゲートは流木で詰まってしまい、放流の機能を喪失、越流したのちに堤体が水圧に耐え切れなくなって中央部から決壊した。その結果下流の集落に一気に水が押し寄せ、死者60名を出す大事故となった。

 のちに、戦下ということもあり、使用されているコンクリートは劣悪なものだったため水圧に耐え切れなかったという施工ミスに加え、監督官庁の竣工検査前に湛水を行ったことが判明した。戦争の状況が悪化する中の事故であったため、ろくな調査は行われず、明確な原因については不明なままである。

 このようにダム自体に問題があり、決壊や漏水が発生してしまうケースというのはほかにも多々ある。一見他人事のようであるが、アメリカの事故はまだたった45年ほど前の出来事である。こう言った失敗を他山の山とせずに生かし続けてきたことで土木技術は発展し続けている。我々も土木構造物は様々な犠牲や失敗を乗り越えて形成されてきた技術によって作られていることを忘れてはならない。


学生による論文(78) 『自然災害に「慣れる」ことの恐ろしさ』 伊藤 紀奈(2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-25 06:05:32 | 教育のこと

『自然災害に「慣れる」ことの恐ろしさ』  
都市科学部都市社会共生学科2年 伊藤 紀奈

 地震、津波、高潮、河川の氾濫、洪水、台風、豪雪、土砂崩れ、火山の噴火、その他諸々。これらの自然災害は、私たちが日本に暮らす上で、決して避けられないものである。自然の力は強大で恐ろしく、人間がいくら備えたとしても、もう十分だと言い切ることはできないだろう。しかし、今回の講義では、災害対策事業に割かれるコストの割合が低いことが指摘されていた。日常生活においても、常に万全な災害対策を心がけているという人は、それほど多くないのではないだろうか。そこで本稿では、日本は災害大国であるにも関わらず、防災に対する意識が十分に高いと言えるのだろうか、という問いから出発して、その理由について考察してみたい。

 もしかしたら、災害を自分事として捉える力が弱い、と考えられるのではないだろうか。「毎年各地で甚大な洪水被害が起き、毎日のように日本のどこかで地面が揺れているのに、災害を自分事として捉えられていないなど、そんなことがあるものか」と思う人もいるだろう。いや、「毎年」「毎日」起こることだからこそ、災害の危険性を真に迫って感じられないのではないかと考える。自分自身に直接関係のない災害や、自分自身に大きな被害をもたらさない災害というものに「慣れて」しまっていて、本当に自分自身が傷つく災害についてはあまり想像できていないのではないだろうか。

 例えば、豪雨災害が起きたことを伝えるニュースでは、いつも決まって同じような映像が流れる。川の水が溢れ、田畑や家々を飲み込み、地域住民は泥にまみれた家の掃除に追われる。その災害の当事者ではない私はその映像を見て「大変そうだな」とは思うが、その感情は「大変そうだな」止まりである。「自然災害は他人事ではない」「次に被災者になるのは自分かも」と頭では理解していながらも、心のどこかでは「自分は大丈夫だ」「これまで大災害に遭わなかったからこれからも平気だろう」という根拠のない希望を展開してしまうのである。そして、大雨の被害を伝えるニュースとは類似したものになりやすく、同じような報道を多く見かけるため、「なんだ、また洪水か」と軽く捉えてしまうという問題が発生するのではないだろうか。これらは、災害を自分事として捉える想像力の欠如や、災害に「慣れる」ことから生まれる危険な思考であると考える。

 また、地震の頻発する日本では、小さい揺れは日常茶飯事である。そのような場所に住む私たちは、震度3くらいまでであれば「いま揺れたね~」というような会話をするのみで、身を守るためのアクションは何も取らずに済ませてしまうことが多い。小学校で学んだ防災の知識(「地震が来たらすぐに机の下に隠れる」)からすると、「揺れたね~」と話すだけで避難行動を取らないことは間違いであると言える。しかし、日本に暮らす大人の多くが、経験則からこのような行動を取るだろう。このことからは、大した被害を生まない小さな地震を繰り返し体験することで、「ちょっと揺れたけど大丈夫だ」と楽観視したり、地震への恐れや危機感が薄まったりすることの危険性を指摘できると考える。つまり、「小さな揺れだから」「今までの経験からして大丈夫だから」と言って地震を甘く見ることは、非常に危険ではないだろうか、ということである。これも、地震への「慣れ」がその根源にあると考える。

 以上のように、日本で防災意識が高まりきらないと感じる理由について、私は、災害を自分事として捉える力の弱さや、自然災害への「慣れ」が関係していると考えた。災害大国な分、災害に「慣れて」いて、災害をよく知っている気になっているのではないだろうか。もちろん、日本人に防災意識がないと言いたいわけではない。自然災害の恐ろしさをしっかりと認識してはいるのだが、日常的に災害に触れているからこその、誤った余裕のようなものを持っているのではないかと考える。