最後の日本出張が近づいてきました。
今回は、 8/4(月)の早朝に羽田空港に到着しますが、とんでもない量の荷物を携えて到着することになりそうです。1月に学生たちが手分けして持ってきてくれたSWATに関連するグッズを今回、私が一人で持ち帰ります。とても持ち運びできる量・重さではないので、タクシーも駆使しつつ、何とか羽田空港近くのホテルになだれ込み、最終審査直前のNamさんにヘルプに来てもらう予定です。もちろん、Namさんとはホテルで最終審査のためのミーティングも行います。
絶好調というわけではありませんが、日本に比べると圧倒的に快適なパリの夏で、のんびり過ごしております。
8/4の朝に日本に到着した後は、いつもの日本出張のように、ほぼ一週間、フルに研究に関する予定で埋まると思います。
現在の日常も、多少の雑用はありますが、ほぼ研究で埋め尽くしており、貴重な時間であることを改めて認識しております。
・最終審査を8/5に控えたNamさんの指導はもちろん日常的に行っています。
・小松さんの投稿論文の修正作業にもかなりの時間を費やしましたが、査読修正作業が完了しました。研究は、形にする段階が重要ですね。様々な意味で鍛えられます。
・SWATの基礎研究は、今年が一つの勝負の年であると位置づけており、先ほども香川高専の林先生と1時間のスカイプミーティングをしましたが、私も思考を重ねて研究を進めております。
・350委員会の準備会が8/7午後に迫ってきましたが、そのための準備も着実に進んでいます。これももちろん、研究です。
・カイロ大学のHamed先生を国際共同研究で招へいする予定で、種々の段取りを進めています。これももちろん、研究を展開するためのマネジメントです。
・6月におこなった東北の復興道路、復興支援道路のトンネル覆工コンクリートの調査結果の分析、とりまとめも進めており、これも今後の品質確保の展開のために重要な研究です。
8月の日本出張の終了後、家族でのバカンスも予定していますが、いよいよ私の仏滞在も終盤に入りました。講義資料の準備や、論文執筆等が最後の時間のメインターゲットになると思いますが、まだまだいろいろやるべきことがあります。。。
グローバリズムは嫌いですが、何事につけ、グローバル化が進んでいることは否定のしようがありません。
パリのメトロには冷房の無い路線も多いようで、今朝の通勤時も、冷房の無いメトロの中で立って考えごとをしていました。
フランスの首都、パリの地下鉄の中に、両親が島根県出身の日本人の男がいる。その男は、滞在許可証も保持しており、パリ市の住人である。
その男は一週間後に自分が審査委員会の主査を務めるベトナム人の博士課程の留学生(横浜国立大学)の最終審査会もあるため、日本へ出張する。そして、パリにいるその男は、そのベトナム人留学生とメールで論文原稿をやり取りし、スカイプで顔を見ながら、日夜、研究の指導を行っている。
以上だけで、グローバル化がいかに進んでいるか、 が分かります。
私も島根にルーツのある凡人、ベトナム人の留学生もベトナムのダナン出身の凡人ですが、グローバル化した社会の中で様々なチャンスを与えていただいています。 機会を与えていただいているのは、社会に貢献するためであることを再度深く認識したいものです。
これは真実だと思うのですが、一流のもの、というのは、それに実際に触れた人でないと理解できないと思います。一流のもの、とは何か、という議論はとりあえず置いておきます。
まず、学生時代の私自身、JR東日本に就職して数年間の私自身の行動の結果が一流ではなかったことを断っておきます。でも、その間に触れたものは一流でした。
関係する方々は気持ちの良い話ではないと思いますが、真実を記載します。
私が2003年10月に大学に赴任した後の、私が所属した研究分野の研究室ゼミは、とても一流のものとは言えないものでした。いろいろな理由があると思います。助教授がいない状態でしたから、教員側の戦力が十分でなかったのかもしれないし、まだ研究が本格化していなかった時期なのかもしれない。でも、とにかく私の目には、そのままでよいとはとても思えなかった。だから、実際にアクションを起こした。出来得るありとあらゆることをやったと思いますが、ここでは省略します。
一流のものを見たことがあって、志があって、 行動力があれば、少しずつですが、一流に向かって歩んでいくことができます。
問題は、一流のものを見たことがない人には、そんなものがあることすら分からない、ということ。
研究室では、学生が毎年のように入れ替わります。全員とは思いませんが、高い志を持った学生たちが多く、我が研究室の門戸をたたいてくれていると思っています。
例えば研究室ゼミ。学生たちがベストを尽くしたとしても、一流のものを見たことのない人たちがいくらベストを尽くしても、高いレベルには到達できないと思います。
一流の考え方とはこういう考え方で、それを例えば研究室ゼミという議論の場で実践する場合は、こういうやり方になる、ということを、具体的に示すのは教員の役割と思います。哲学を示すということです。哲学が明確な場の中で、学生たちはベストを尽くせばよい。また、哲学について語り合えばよいし、もっと高いレベルの考え方に気付くこともあるかもしれない。
そのような、哲学に溢れ、気力にみなぎった組織というのは、それらが自然に外にも伝わってきます。
なかなか簡単には上手くいかないとは思いますが、問題の根幹には、冒頭の「一流のものを見たことがない人には分からない」ことがあることを認識しておかないといけないと思っています。
もちろん、私なりのアクションは起こしております。。。。
専門分野の話。
コンクリート構造物の品質確保小委員会(350委員会)がまだ準備段階ではあるものの、8/7の準備会へ向けて着々と段取りが進んでいます。4つのWGで進めることになりそうですが、それぞれのWGのミッションや主査、副査の候補などが決まってきています。私も副委員長ですが、WG3の主査を務めたり、WG1の中に設置される表層品質の評価SWGの主査も務めたり、と縦横無尽に動き回ります。いつものやり方ですが。
WG1は復興道路の品質確保を目的としたWGですが、その中に設置される表層品質の評価手法に関するSWGは、私が主査を務めるつもりです。基礎研究なのですが、実務で表層品質の評価技術を使いこなしていけるように情報を整備します。
例えば、表面吸水試験(SWAT)も、実構造物で計測した値が何を意味するのか、その解釈も含めて、しきい値のようなものを提示する必要があります。
今日は日曜日ですが、先ほど、大学ノートに一つの図を描いて、上記の考察をしていました。手持ちのデータを十分に活用することとともに、いくつかの実験を行ってデータを補足する必要も、もちろんありそうです。およその方向性は、30分弱の考察で固まったように思います。
いずれにせよ、私の思考は、すべて実構造物での実践に向かっています。SWATという手段から考えるのではなく、実構造物で品質確保を達成していくときに何が求められるのか、目的からの思考です。幸いに、SWATは、その目的を達成するために有効な手段の一つのようですので、SWATを用いますが、SWATから思考するわけではない。
目的から思考する、ということは、現実の現場で何が大事で、何が求められているか、を知っていないとできないことです。設計での耐久性照査の体系も十分に知っていないとできないことです。
だから、学生にできることではないと思っています。
であれば、私の力を利用すればよい。30分弱の考察で、方向性が分かるのだから、その力を活用しない手はないでしょう。
大きな方向性、目的達成のシナリオ構築は私の役割であっても、それを実際に達成していく中では無数の小プロジェクトをこなしていく必要があります。そこでは学生たちにも大奮闘していただきたい。
SWATの研究に限りませんが、指導教員、研究助手、学生の役割分担を、特に今年度辺りからはよく意識して、よくコミュニケーションを取ることができれば、研究は大いに進展すると思っています。それができずに従来のやり方に留まれば、機会を逸することになります。
まあ、快適なフランスの夏に比べて、日本の夏は大変でしょうから、体力・気力の維持だけで一杯かもしれませんが、研究室メンバーの奮起を期待します。
現在、私の指導する博士課程の留学生が最後の追込みに入っています。
私が主査を務める4人目の博士課程の学生になります。彼の3年間の最後の1年と私のフランス滞在が重なる形になりました。お互いに不安に思うこともあったかと思いますが、結果的には、私がフランスにいた方が時間を確保しやすく、Skype等のおかげもあり、よく指導できたのではないかとも感じています。
研究の前半はスムーズに進んでいたのですが、 前任者の研究を引き継いだためにスムーズに行った面もあったため、途中から路頭に迷い始めました。
非常に苦労したと思いますが、私の仏滞在中の1~4月頭くらいはまさに血ヘドを吐くような毎日だったのではないかと思います。4月初旬に予備審査を行い、それに向けてかなりディスかションもしました。最後のゴールからするとかなり手前の状況で予備審査を迎えましたが、前半の成果が固まっていることと、そのころにはゴールまでの方向性も見えており、実験も順調に進んでいることも勘案して予備審査を通過しました。
その後もかなり苦労を重ねていると思いますが、最近もほぼ毎日議論、添削をしています。8月5日に最終審査を控えており、正念場です。
博士課程の研究は、私自身の力量の問題もあり、どれも死闘に近い様相を呈しますが、学生も指導教員もとにかくベストを尽くすしかありません。
今回も、終盤に大変興味深い実験結果がたくさん積み重ねられており、議論を通して私も新たな知見をたくさん吸収しています。まだ結果の収穫は続きますが、最終審査に向けては論旨を明確にすること、得られた結論を論理的に説明する的確な図を作成すること、論文のブラッシュアップを徹底的に行う予定です。発表のファイルのブラッシュアップもありますが、これは私の日本到着(8月4日)後も続けます。
ベストを尽くすと、何とか道は拓けます。それはこれまでも何度も経験してきました。
未熟だから苦労する、という面もあるのですが、未熟だからこそ努力すれば必ず成長できる、とも言えます。
研究の成果そのものも大事ですが、仮に成果が一部、未熟であったとしても、必ず次につなげ、いつかしっかりとした形に必ずしたいと思っています。
この研究の終盤では、SWATに関するデータも蓄積しており、改めてSWATは有効な手段であることの認識を深めています。SWATの可能性を、私たちの力不足で潰してしまわないよう、最後まで責任を持つつもりで基礎研究を続けたいと思います。
JCIランドマーク委員会の報告会が、2014年9月2日(火)の10時から、東京理科大学の森戸記念館(東京都新宿区神楽坂4-2-2)にて、開催されます。
ぜひ、大学院生や、若手研究者に多く参加していただいて、熱い本当に大切なものを感じていただければ幸いです。
もちろん、熱いオジサン、オバサンも遠慮なく。私が3件の報告となっていますが、角田先生の話は田中泰司さんに、池田先生の話は林和彦さんに、岡村先生の話は石田先生にしていただきます。
フランス滞在中にぜひ読みたい本の一つであった「PC構造の原点フレシネー」(建設図書)ですが、一通り読破はしましたが、現在、フレシネーの構造物を見学する機会も活用して再読しています。
フレシネーがプレストレストコンクリートを明示的に発明する以前の部分からの、気に入った文章です。
p.88
「実際には、私の観察事実に反する実験結果は何もなかった。コンクリートはより大きな変形に耐えられ、規準で許されている以上に塑性的なことは事実であった。数学ばかりで知恵のないまぬけでなければ、日ごろから簡単に観察できる事実なのである。」
--> クリープによる橋梁のたわみの問題に関してです。コンクリートアーチの中央ヒンジについては、フレシネーは設計規準の不備も見抜いていました。
p.89
「確実に間違っているといえるのは、規準の草稿を、その訓練と考え方ゆえ、独裁者のように管理しようとする、技術に対して全く無知であるだけでなく、それを永久に理解することも無い、数学者に任せたことにある。」
p.91
「ブチロン橋に関しては、悪い思い出しかない。ル・ヴァートル橋とともに、『力業』であり、少し際立ち過ぎていた。・・・・・・ 結局のところ、この2つの橋を造ったことにより、『力業』は避けなければならないことを学んだ。・・・・・・ ヴィルネヴ シェルロット橋も、プルガステル橋も『力業』ではなく、それゆえ、これらの橋は以降、模倣され、同じ形式の橋が今度は規模が大きくなって再び建造されたのである。」
p.164
「ル・コルビュジェは、建築の学生にメッセージを送り、そこで、『フランスは、アイディアの実験室であるが、ずっと以前から発明家に対し、軽蔑と無視、拒否と失望を与えては得意になっている』と言っている。後に、彼は、ペレを誉めているが、フレシネーをほとんど覚えていない(フレシネーのことにほとんど触れていない、の方が適訳でしょうか)。」
プレストレストコンクリートの発明に関する言葉は、その2以降で!
昨夜、インターネットのニュース記事をぼーっと見ていたら、日本の学校の先生の過酷な労働環境のニュースがありました。週の勤務時間が平均で50時間を超えていて、先進国平均からはるかに多いようです。部活などの対応や、事務作業が多いことがその主な理由のようです。言うことを聞かない生徒たちも多いと聞きますので、学校の先生は何でもできるスーパーマンであることが求められているようです。
どの分野にも、一部、スーパーマンもいるかとは思いますが、ほとんどの人は凡人です。当たり前です。
日本全国津々浦々の学校にスーパーマンの先生が揃うはずがない。先生のほとんども凡人です。凡人でも教育は成り立つし、成り立つように制度設計すべきです。
凡人でも、何か一つでいいので、教えを受ける側が「すごいな」とか「かっこいいな」と感じる要素を持っていれば、教育は成り立つと思います。どんな要素でもよいと思います。それを自覚できない先生は、教育というものの本質を理解できていないと思われます。もし、理解できない場合は、逆の立場に身を置き、どういう先生からであれば自分が教えてもらいたいか、を考えればよいかと思います。現在の日本は、それらの要素を自覚しておられる先生がいたとしても、その先生に大活躍していただく場となっていないように思います。
現場が大事です。膨大な書類を提出することが重要ではありません。教育の現場で、先生が生徒と活き活きと対話できているか。一日に一つでいいから双方が感動、感激するような時間を持てているか。そうするためには、感性が働く「余裕」も必要です。当たり前です。
学校のことは私は素人ですので、自分の現場である大学に話を移します。
大学も同じ状況にあります。皆がスーパーマンであることを求められます。大学の教員もほとんどは凡人なのにです。
研究は世界レベルでやりなさい、 どんどん予算も取ってきなさい、英語でたくさん論文を書きなさい、教育はシラバスの通りに完璧にやりなさい、授業評価アンケートを参考に教育の改善をいつも行いなさい、研究室の学生たちの指導も全力で行いなさい、入試や教務など学内業務も重要だし、大学の改革も必要だからすべての会議に出席しなさい、社会貢献も大事ですからやってください、これからは「グローバル」の時代なので、グローバル社会(アウェー)で果敢に戦える即戦力の学生を輩出しなさい、などなど。
できる人もごくわずか、いると思いますが、できたとして、それで毎日感動、感激するような時間を学生と持てるでしょうか?毎日でなくてよいけど、そういう時間を少しでも共有することの方が、よほど学生にとって大事な教育では?
さて、私はプラグマティックな人間ですので、上記のようなリクエストにすべて応えるつもりはさらさらない(死にます)し、一番大切なことを見据えた上で、何とか責任を果たす努力を重ねたいと思ってきました。私も全くの凡人で、具体的にどのようにすればよいのか模索しながら進んでいますが、年を重ねるにつれて少しずつ状況も把握できるようになってきてはいます。とにかく、できることをやるしかないので、一歩一歩です。
大半の人は、真面目にこなそうとします。私は、岡村甫先生から「徹底的に手を抜け」というアドバイスも4年くらい前にいただいた人間ですので、普通の行動は取りません。
一応、周囲への配慮はする人間ですので、自分が全力を尽くすべきことではなく、手を抜くべきと思ったことは周囲への配慮も一応しながら手を抜いています。
もともとは変わった人たちのるつぼであった大学が、スーパーマンであることを求められる凡庸な秀才ばかりのたまり場になりつつあるように思います。
私は、変わったキャラで進める可能性のある人間だと思いますので、周囲の方々のためにもその可能性を試してみたい、と思っています。フランス滞在中に坊主にしましたが、それも、インパクトのあるキャラを確立していく上で良い選択だったかなと思います。
一つの流れができてしまうと、自制できずにとんでもなく加速し、皆が洪水の中で溺れ死ぬ、というのが日本のパターンのように思いますので、どこまで戦えるのか分かりませんが、戦線復帰まであと2ヶ月半でございます。
ブルターニュ地方のBrestにあるプルガステル橋を見学することが出発前の最大の目的で、正直それほど期待していなかった出張ですが、期待をはるかに上回り大変に勉強になりました。プルガステル橋についての報告は、すでに記しましたので、そちらをご参照ください。
以下が今回、レンタカーで走破したルートです。600km走りました。青く丸で囲ったところを訪れました。
振り返ってみると、今回はフランスのインフラについて体感した旅であったと思います。インフラとは実際に使ってみないと分かりません。今回は、Rennesを拠点にして、ブルターニュ地方をぐるっと車で走ることができたので、ずっとインフラのことを観察し、考えていました。
私は、2007年の夏に初めて、フランスで車を運転しました。ルーヴル美術館の地下でレンタカーをして、郊外での奥さんの友人の結婚式の場所までロングドライブしました。そのときは、奥さんがとても上手にナビをしてくれましたが、左ハンドルのマニュアル車に苦戦して何度もエンストし、最後はパリのリヨン駅のレンタカー屋に帰還するのにすごく苦労したことを覚えています。その後は、今回の渡仏期間中にレンタカーで何度か運転しており、今回が通算で5回目です。おそらく、今回の走行で、フランスでの通算走行距離が2000km近くになったと思います。
今回の走行が、Rennesを拠点としてぐるっと回ったこともあり、最も道路インフラのことをよく観察できたと思います。前回の5月は、Toulouseを拠点に、カルカッソンヌやミヨー橋なども訪問し、このときも高速道路、一般道路をたくさん走りました。それらの経験だけで、フランス全土のインフラを語る資格はないかもしれませんが、今回考えたことをまとめておきます。
まず、今回の視察の第一印象は、ブルターニュ地方の優れたインフラでした。上記の写真(地球の歩き方)では、ブルターニュ地方には高速道路が無いと見えますが、ここで示されている「一般道路」は日本で言うところの、以下のような完全な「高速道路」でした。7月14日の祝日と、翌日の平日にどちらも走りましたが、渋滞は最後のRennesの街中を除いて皆無。制限速度も110kmです。非常に快適に、効率的にブルターニュ地方を回ることができました。歴史的な経緯もあって、ブルターニュ地方は高速道路が無料、と聞きました。それで実質的な高速道路を「一般道路」と呼んでいるのでしょうか。
結論を先に述べておきます。
私は道路インフラの計画的な面について無知ですが、フランスの道路のあり方と、日本の道路のあり方は、相当に違う気がする。一言で言うと、フランスの道路は、人間の生活空間である都市や町を道路がつないでいる、という印象。日本の道路は、つなぐ機能もあるのだけど、道路沿線も人間の生活空間になってしまっている。だから混む。
乱暴な印象かもしれませんが、私はそう感じました。そして、その根本要因は、日本に可住地が少なく、かつ人口が非常に多いことであろう、と思います。やむを得なかったのでしょう。
少しデータを調べてみたところ、フランスの可住地面積の割合が72.1%で、海外領土を除く面積が55.15万平方km。日本は可住地面積の割合が33.6%で、37.79万平方km。
可住地面積は、フランス(39.8万)対 日本(12.7万)となり、圧倒的に使いにくい国土であることが分かります。そのくせ、日本の方がはるかに人口が多いのだから、一人当たりの可住地面積は、フランスと比べると極端に少なくなります。フランスは、日本と比べて、一人当たりの可住地面積は6.3倍程度です。愕然とする値です。そのような我が国土を(しかも4つの大きな島に分かれている)、どのように使いこなしていくか、これまでの先人たちも必死に考えてきたと思いますが、私たちも真剣に考えないと、先進国としてやっていけるわけがありません。(先進国でなくてよい、という批判もすぐに出ますが、先進国でなければ防災も含めたインフラへの投資などできず、伊勢湾台風のようにたった一つの大型台風で5000人もの人が亡くなるような国に逆戻りしてもよい、と本当に思えるか、です。私は嫌です。)
そして、だからこそ、「人」を運ぶ手段としては車よりはるかに効率的な鉄道に、莫大なエネルギーと資金を投入してきた我が国の先人の考えは極めて合理的だったのだと改めて敬意の念を抱きました。もともと人口が多く、しかもその後、1億3千万人まで膨れ上がったのですから、鉄道インフラが無ければどんな悲惨な状態になっていたのか、想像に難くありません。明治以降の鉄道インフラ発展の意義を、再度勉強してみたいと強く思いました。
鉄道は、人を効率的に運ぶ観点からは素晴らしいですが、物を運ぶ観点からはやはり道路にはかないません。これだけお互いに依存しあう現代社会においては、道路インフラの優劣は国力に直結します。フランスのインフラを見ると、我が国は勝負になるレベルではまだまだありません。当然に、今の不況時には適切にインフラに投資をし、不況の脱出を達成し、さらに将来の競争力のある国力、均衡な国土の発展を狙っていくことが当然なのだと思いますが、積極的なインフラ投資をしない理由がよく分かりません。
一方で、フランスは道路インフラは優れていると思いますが、鉄道インフラは日本よりも劣ると思います。しかし、道路が主役なのですね。日本のように過密にひしめき合っているわけではないので、鉄道よりも道路が有効なのでしょう。今回、線路が高速道路と並走している区間も結構あったのですが、そのときに日本における鉄道の相対的な重要性の高さについてぼーっと考えていました。しかし、フランスのような国々でも最近の鉄道ネットワークや、都市内交通への投資は目を見張るものがあります。日本もうかうかしてられないですよ!
以上が結論。
優良なインフラでつながれた、フランスの地域は輝いているように見えます。地域、田舎が活き活きしてるように見えます。インフラのおかげだけではないでしょう。グローバリズムに蹂躙されないための、国家の適切な規制のおかげもあるのでしょうか。コンビニの我が国における重要な役割は認識していますが、それでも、巨大スーパー、コンビニ、各種チェーン店、外資等で埋め尽くされた我が国の街や地方を思うと、国家戦略の重要性を痛感させられます。
以下は、フランスで最も美しい村の一つに認定されている(人口2000人以下が条件だとか)、Locronanの村の小道。
15日の朝、Pont Aven(ポンタヴェン)の村の外れにある教会を訪れました。人が誰もいない。まさに中世のままのような雰囲気。ゴーギャンが愛した村だそうです。
写真ではなかなか伝わりませんが、この静けさの中で、この教会の中に一人で入ったときの感覚は、これまでに味わったことのないものでした。以下の黄色いキリスト?がゴーギャンの絵画のモデルだそうです。
こいつが、今回の私の相棒。
芸術家たちに愛されるPont Avenの中心部はこんな感じ。
Pont Avenを後にして、Aurayの村に到着しました。Aurayの港ですが、奥に見えるコンクリートの橋が、高速道路です。非常に交通量が多いです。
境界に船が吊ってありました。漁業等で船が大活躍してきた村のようです。
村の中の小道も大変に雰囲気があり、以下のお店でガレット、クレップの昼食としました。
ネコさんの毛並みも素晴らしかった。
城の跡があり、その上からの眺めは素晴らしかったです。アーチ橋が川に架かっていました。
Aurayを後にし、Carnac(カルナック)という、膨大な謎の巨石群があるところを見学して、港へ。
実質的な最後の視察場所かな、と思っていましたが、白いアーチ橋が美しく地域交通を支えており、今回は、プルガステル橋に始まり、最後までアーチ橋の旅であったと、感激しました。
さて、Rennesに戻ろう、と出発したところ、「みよし」という名の日本料理店を見かけ、車を停めました。ちょうど午後の休憩時間のようで店は閉まっていましたが、日本人のご家族の名前が玄関にあり、同邦が頑張っておられる様子を記念写真。
異国でレンタカーをする際、レンタカーを返却する場所に無事に到着できるかどうかが結構難しいです。今回も、私一人の運転で、かつ、以下の写真のように駅前が工事中だったりして、相当にハードルの高い帰還ルートでしたが、一発で行けました!経験値も相当にアップしてきています。
RennesでTGVの出発まで2時間くらいできたので、Rennes美術館に行くことにしました。Louvre美術館で何度も苦杯をなめている、ラトゥールの非常に有名な絵があるそうで、それを見に行きました。内藤廣先生の「形態デザイン講義」を読んでいなければ、また、母親にプレゼントしてもらった「怖い絵」を読んでいなければ、ラトゥールのことなど興味も持たなかったでしょうが、そういうインプットがある段階からはつながってきます。ラトゥール展をちょうどやっていたので、いくつかの素晴らしい絵画にも見とれて、旅は締めくくりとなりました。
ジョルジュ・ド・ラトゥールの随一の代表作と言われる「生誕」です。
以下は、私がルーヴルで探し続けている(おそらく、改修中の箇所にあるものと推察)、「大工聖ヨセフ」に通じるところの多い(と勝手に私が思っている)、「聖ヨセフの夢」です。
Rennes美術館には、春画もありました。さすが日本ですね。ブログに掲載できそうなものを撮影しました。その他は、掲載できません。。。
以下が、Rennes美術館。
フランスの地域、地方の魅力は、今回も肌で感じました。さすがに奥深い、底力のある国だと敬意を表します。
でも、それと同時に、日本の素晴らしさ、潜在力に何度も思いが至りました。もっともっと力を発揮できるのに、と。
どのような国を目指すかは、国民次第だと思いますが、世界最大の観光大国であるフランスに見習うべきことは多々あるように思います。日本人がレンタカーで一人で苦も無く移動できます。日本や他のアジアの国々ではなかなかそうは行かないだろうな、と推察します。
7月14日の革命の記念日に、ブルターニュ地方のBrestのプルガステル橋を見学に行ってきました。20世紀の構造工学の最大の発明であるプレストレストコンクリートの父であるEugene Freyssinet(フレシネー)が設計し、1929年に完成した鉄筋コンクリートのアーチ橋です。
Rennes(レンヌ)を拠点に、レンタカーで移動しました。以下が、今回のルートです。600キロの行程でした。地球の歩き方によれば、この地域には高速道路はなく、一般道路しかないとの説明だったので、移動にはかなり時間がかかるかな、と思っていましたが、「一般道路」は日本でいうところの高速道路でした。歴史的な経緯もあり、ブルターニュ地方の高速道路は無料だそうです。
ブルターニュ地方の道路網は非常に便利で、その考察は次の記事に譲ります。この記事はプルガステル橋の紹介に専念することにします。
RennesからBrest方面への道路に乗るのに少し苦労して、Rennesの街中をぐるぐると走ってしまいましたが、9:30ごろに「高速道路」に乗り、一回休憩をしましたが、brestまでの240kmの距離を2時間ちょっとで走破できました。記念日のため休日であり、道路が空いていたことも理由かと思います。Plougastel橋には12時前に到着しました。
以下、解説は「PC構造の原点フレシネー」(Ordonez著、監訳:池田尚治、建設図書)を参考文献としています。
Plougastel橋(プルガステル橋)は、1902年に、フェリーの代わりとしての建設の最初の要求が出され、Elorn川の両岸を安全に、永久に結ぶことが必要であった。この地方は風が強く、ブレストの停泊地は潮の干満の差が大きかった。戦争の影響もあって計画は中断され、1922年になって橋の建設が進められることになる。鉄道が必要になった場合の工夫も求められる計画であった。1930年10月9日にフランスの首相であったGaston Doumergueによってプルガステル橋の開通式が行われ、鉄筋コンクリートの分野でのフレシネーの最も大きな業績となった。
杭軸間188mのスパンをもつ3つのアーチで560mにもわたる河幅の問題を解決した。鉄筋コンクリートのアーチとしては当時、世界最長スパンであった。
この巨大アーチを施工するためのセントルは、木製の構造であり、鋼線とくぎでつなげられた4cmの分厚い板で出来ており、何百もの引張鋼線であらゆる方向から制御されていた。そして、同じセントルが3つのすべてのアーチの打込みのために使用された。以下は、アーチの施工後にセントルを移動している様子である。
第二次大戦でアーチのいくつかが損傷を受けるが、全く同じ施工方法で修復した。これ以上合理的な施工方法がなかったことを示している。
以下フレシネーの言葉である。
「ブチロン橋に関しては、悪い思い出しかない。ル・ヴァートル橋とともに、『力業』であり、少し際立ち過ぎていた。・・・・・・ 結局のところ、この2つの橋を造ったことにより、『力業』は避けなければならないことを学んだ。・・・・・・ ヴィルネヴ シェルロット橋も、プルガステル橋も『力業』ではなく、それゆえ、これらの橋は以降、模倣され、同じ形式の橋が今度は規模が大きくなって再び建造されたのである。」
プルガステル橋はフレシネーに世界的な名声を与えた。広く世界的に流通している技術誌に掲載された。その橋には、それまで不可能であるとして使用されていなかったコンクリート部材が用いられ、賞賛されるほど大胆な技術を用いて最小限のコストで建設された。
現在は、1994年に建設された斜張橋(こちらも桁はコンクリート)が主交通を担っており、プルガステル橋は以下のように歩道橋として供用されている。散歩の人や観光客でにぎわっていた。
85年、塩害環境で供用されることの厳しさは、構造物の各所で見られました。丸鋼が使われていました。かぶりの部分の質量が構造体全体に占める割合は、構造物が大きくなるほど小さくなります。従って、耐久性を確保することは構造物が大きいほど容易である、とのフレシネーのコメントが参考文献中にも見られましたが、塩害はやはりフレシネーの想像も超えてシビアな問題であった、と解釈できるでしょうか。
アーチの雄大な姿は、85年の時間を経て、貫録を増していると思われ、しばし見とれてしまいました。アーチの部分も、実は3室の箱型構造になっており、軽量化がなされています。もちろん、鉄筋コンクリート構造なので、アーチの表面には腐食した鉄筋が露出している部分も見られました。
私が一番好きな写真です。
重力に打ち克つための人類の工夫であるアーチ橋で、フレシネーをして『力業』ではない、と言わしめたプルガステル橋が85年前。その65年後に1994年に完成した斜張橋はいとも簡単に河を超えていきます。プルガステル橋の後、フレシネーが心血を注ぐプレストレストコンクリートの技術が、この斜張橋にももちろん使われています。この二つの橋を並べてみることにより、人類の挑戦と時間の重みを感じることができました。
以下は、プルガステル橋の近くにあった説明です。
ブルターニュ地方全体で、アジサイがとてもきれいでした。
以上、今後も加筆をすると思いますが、第一報としてブログに掲載しておきます。
土曜日の夜、寝る前にYou Tubeで見たいものを見ていた時に、イチローが、ダウンタウンの浜ちゃんと、ヤクルトやメジャーで通算182勝を挙げた石井一久氏と、談話しているテレビ番組を見ました。
イチローが、ダウンタウンに敬意を持っていることは知っていました。それで番組が成り立っているのかと思います。
イチローは、石井氏に必ずしも好意を持っておらず(番組上の脚色も多分にあると思いますが)、茶化したり、突っ込んだりしていました。その一つに、「ほらね、薄っぺらいでしょ?」という突込みがありました。石井氏が、「自分も器用である。器用だから、何となく勝つことはできる。でも、その先に行けなかった。」と吐露したことに対する、イチローの突込みでした。
薄っぺらい、の反対は、深い、深みがある、でしょうか。
私はスポーツが大好きですし、野球も好きなので、薄っぺらいと言われようが、182勝もした石井一久はすごいと思うし、それを薄っぺらいと平気で突っ込めるイチローはもっとすごい次元にあるのだろうと思います。
彼らの世界と、自分たちの世界が同じとは全く思いませんが、私は「深く」ありたい。
一つ前の記事でも書きましたが、物事の根幹、本質は同じであると思っており、狭い狭い分野、垣根の中だけでの議論には辟易します。そんなところに本質はないと思います。垣根が多くなってしまったのは時代の流れで仕方ないとは思いますが、だからこそ、垣根を越えた本質を見出すような議論が必要に思います。深いな、と思う議論や会話は、大抵はそのように垣根を越えようとした場合のものに思えます。
若いころは薄っぺらくてもよいですが、年を重ねて薄っぺらい方に会うと悲しいです。若い大半の人に見いだせない、この世の面白さ、深さを語れるのが、年を重ねたおじさん、おじいさんたちの魅力だと思うなあ。
諸事情ありまして、ブルターニュ地方のRennes(レンヌ)に向かうTGVの中で書いた記事です。
基本的には広義の自然が人間よりも優位なのであって、広義の自然において見られる本質はしばしば共通していることが多いです。
だから、アナロジーが興味深いのであり、一例ですが、コンクリート構造物におけるASRが人間の癌に例えて考えると分かりやすくなるのだと思います。
コンクリート構造物と人間には多くのアナロジーが存在し得ると思っています。
私の理解では、コンクリートの練混ぜが人間の「誕生」に相当しており、それぞれ異なるDNAを持って誕生しますが、コンクリートは打込みという施工のプロセスを経て、構造体となります。打込みは、人間の家庭での幼児教育に相当すると思っています。全く同じDNAを持って生まれてきても、打込みのプロセスにより、構造体のコンクリートの品質は異なります。
打込み後の、養生等を含む施工のプロセスが、人間での小中高での教育に相当するでしょうか。
人間で言うところの大学、大学院の教育は、コンクリートでは特殊な養生や塗膜等の高耐久技術でしょうか。
そして、コンクリート構造物も人間と同じように厳しい環境にさらされます。初期品質のしっかりしていないものは、厳しい環境にさらされ、すぐに劣化します。初期品質のしっかりしたものは、厳しい環境にさらされても、しっかりと我が国の社会活動を支えます。人間でも全く同じでしょう。
さて、現時点の私が非常に違和感を覚えるのは、「品質確保」と「維持管理」において必要とされる手段の、世の中での混同です。
でき上がってしまった既設構造物の維持管理において支配要因は何か。
以下の議論は個別の具体事例にまで当てはまるかは分かりませんが、私なりに全体の方向性を整理するためのものです。
成人の人間の健康を支配するものは、一般的には、基礎体力よりは、圧倒的に生活習慣であるように思います。
私自身の例は何度もブログで紹介していますが、41歳の現在の方が、20代後半よりも健康に思います。もともと相当な健康体で生まれていますので、体力で圧倒的に勝る20代の私よりも40代の今の私が健康である理由は、生活習慣(環境作用)に配慮しているからに他なりません。
コンクリート構造物の劣化の支配要因も、私は構造物の品質というよりは、環境作用であると思う。
そうだとすると、既設コンクリート構造物の品質を評価して、性能を予測することにどんな意味があるでしょうか?多くは述べませんが、コンクリートの品質の方が支配的と思っている研究者、実務者が少なくないように思います。そう思っている人は、性能評価ができると安易に思い込む。
現実の個別の構造物が経時的に性能が劣化していくことの予測など、人間の健康に思いを致せば、どれだけ眉唾ものか想像に難くないでしょう。
劣化の進行程度にもよりますが、生活習慣を正すことが最重要で最も確実な対策。構造物で言えば、環境作用の悪影響を低減するこが本質と思います。
劣化がそれなりに進行してしまった場合でも、その後の劣化進行の予測が重要なのではなく、本質的に重要なのは、確実に性能を向上させ、その後の再劣化を簡単に生じさせない、「確実な補修・補強方法」の確立だと思います。(人間でも、劣化がそれなりに進行してしまった場合に、どれだけ精緻にその後の劣化を予測されても全くうれしくない。完璧な治療をこそ、望むでしょう?)
容易ではありません。見かけだけの補修、補強は誰にでもできますが、「確実な」補修、補強方法を確立するということが肝であり、多くの実務者、研究者が注力すべきことだと思います。
この記事では、ここまでにしますが、コンクリート構造物の耐久性を支配する表層の品質の緻密な評価が、本当に求められるのは、維持管理のステージではなく、施工段階においてであると私は思っています。すなわち、初期品質の確保のための評価が最重要と考えます。
コンクリート構造物の建設過程では、人間はベストを尽くすことができます。人間がベストを尽くすかどうかで、品質は大きく変動します。だから、ベストのマネジメントを講じるべきです。
一方で、建設後は、支配要因は環境作用であり、簡単に人間の知恵が太刀打ちできない自然の世界だと思っています。コンクリート構造物と言えども、広義の自然の一部になるのです。
建設後のコンクリート構造物の劣化の予測は興味深いので、多くの研究者がチャレンジしたがります。格好いいし、予算も取りやすいのでしょう。
でも、劣化は構造物の部位ごとに全く異なるし(シビアに。人間の手にを負える代物ではないですよ。)、本当に求められているのは劣化の予測などではなく(劣化の予測ももちろん重要ではあるのですが)、その構造物が確実に機能を果たすことであることを、もっと皆がプラグマティックに議論すべきと思います。
趣味と言うにはおこがましいですが、せっかくパリにいるのだから、ということもあり、スーパード素人の絵画関係でも多少の教養をCultivateしよう、というのが趣旨です。
とにかく多様な方面で感受性を刺激しておくことは、若々しく生きていく上で良いように思うし、何であれ、楽しいと思えることをいくつも持っておくことは理屈抜きでよいことのように思うのであります。
奥さんの厚意?により、ルーヴル美術館の年間パスポート(家族会員)を持っています。ルーヴル美術館にはいくつか入口がありますが、このパスポートを持っていれば待ち時間ゼロで入館することができます。美術ファンの方々にとってはとんでもなくうらやましいようなことだと思うのですが、素人にはありがたみがよく分かりませんので、とりあえず何度か行ってみました。
5月の下旬に資格を得て、日本等の長期出張もあったので、出張からパリに戻ってきてから権利を行使し始めたのですが、すでに4回行きました。
一回目は、ド素人らしく、まずはモナリザ。ミロのヴィーナスにも行ってみたかったのですが、たどり着けず、適当にウロチョロしていたら、次女が「ドリフが見たい」という名言を残し、ルーヴルから出ました。
二回目も似たようなもので、長女とウロチョロしました。
三回目は一人で散策。ラトゥールの「大工聖ヨセフ」(内藤廣先生の「形態デザイン講義」で紹介されいていた)を探してウロチョロするのですが、どうしても見つからず、ですが、ミロのヴィーナスを見れたり、ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」を再発見できたり、素人なりに一段、小さなステップアップをしました。
四回目は、以前に母親がプレゼントしてくれた、中野京子さんの「怖い絵」を遅まきながら読み始め、ラトゥールの「いかさま師」や、ジェリコの「メデュース号の筏」など、ルーヴル美術館にある絵画の非常に面白い解説を読んで、行ってみました。「いかさま師」は見つかり、これまでになく興味深く鑑賞できました。やはり、知って見るのは全く違いますね。音声ガイドも有用であることは知っていますが、ルーヴル美術館で投入するのはもっと後にしようと思っています。残念ながら、「メデュース号の筏」は私の稚拙なテクニックでは見つからず、帰宅してから義理の母といろいろ話をして、インターネットで有名な絵画の部屋番号は簡単に見つかることを知り、絵画の位置が分かりました。次回のターゲットの一つです。
そして、今日はいろいろと用事があってパリの中をうろちょろしていましたが、そのときに、読みかけの阿刀田高の「ギリシャ神話を知っていますか」を読み進め、あまりにも面白く、感心していました。ギリシャ神話についてもド素人で、非常に有名な神話も知らないものが多く、ワクワクしながら読んでいます。
そして、ギリシャ神話の様々なエピソードが絵画や彫刻になっていることも知り、ちょっとネットで検索してみると、ルーヴル美術館にごろごろ転がっています。「アポロンとダフネ」や、「スフィンクスの謎を解くオイディプス」などなど。
なぜギリシャ神話を読んでいるかというと、8月にギリシャに行くからですが、古代ローマには元から多大な興味があり、それなりに知識を持っていますが、古代ギリシャのこともよい機会なので勉強を始めました。
というわけで、次の五回目のルーヴル訪問は近いうちにありそうですが、次はかなり楽しみになっています。あまりにも幼稚な赤ん坊のド素人状態から、少し成長期に入ってきたように思いますので、残り少なくなってきたパリ滞在ではありますが、世界とそれなりに闘える?教養あるシビルエンジニアになるために、研鑽を重ねさせていただきます。
フランスに来てから、最も天気の悪い日々が続いております。雨がよく降りますが、突然に非常に強い雨が降ったり、と思えばときにカラッと晴れたりとよく分からない天気です。今日は朝からずっと雨ですね。
1年住んだからといって、パリの天候を完全に認識できるわけでは決してないと思います。年によっても違うでしょうし。でも、旅行でちょっと来るのに比べると、もちろんですが体感的に天候のことも把握することができます。
不思議な天候です。私の記憶では、12月が非常に寒かった。1月、2月はそれに比べると拍子抜けするような温かさで、3月は暑いくらいのときもありました。その後、どんどん暑くなるのかなと思ったら全くそうではなく、5月は肌寒いなと感じたことがしばしば。このころから非常に日が長くなりましたが、朝は肌寒くても、夕方の西日の強い時に非常に暑かったりと、衣類の調整も難しかったです。
6月は少し暑いなと思いましたが、7月へ来てこの悪天候。昨日、夕食に出かけたときは皮のジャケットを久しぶりに出してきました。まさにつかみどころの無い天候ですが、9月末まで観察を続けたいと思います。私のパリの家には冷房がありませんが、確かに、これでは冷房はいらんですわ。
さて、加藤周一著の「日本文化における時間と空間」を読み進めています。内藤廣先生の「形態デザイン講義」で紹介されていた本で、非常に勉強になっています。
世界の様々な文化と比較して、日本文化の時間、空間に対する考え方を深く考察、分析していく内容です。日本人、日本社会の特徴はいろいろあり、欧米や中国などと異なる場合が多いですが、その源泉はどこにあるのか、ということを認識しておくことは、社会の課題を解決していく際にとても重要なことであると感じながら読んでいます。
日本人、日本社会に染みついていることも多々あり、それらは容易に変えることはできないと思います。また、変える必要のないことも多々あると思います。
ですが、これだけInternationalな世界になってくると(Globalではないですよ!)、違う考え方の方々と交流していくときに、自分たちの原点をよく見つめておく必要はあるでしょう。また、自分たちの社会の問題を解決したり、状況を改善していくときには、日本のことをよく知っておくことは作法の問題かと思います。私や、私の周囲の方々は、ある意味では典型的な日本人では無い面を多々持っているように感じています。だからこそ、典型的な日本人、日本社会について理解を深めておくことが重要である、と考えています。
もうすぐ読了しますので、その後に、考えたことをまとめておきます。
仏滞在の最終クウォーターも二週目に入りました。自分なりのベストを尽くしているつもりです。順調に手配が進めば、12日(土) から外国出張ですので、出発まで日常をしっかり過ごしたいと思います。研究と執筆・編集作業と。
仏渡航以前は、ときどきは日本に出張で戻ってこないといけないだろうな、と思ってはいましたが、行ったり来たりすることは当然に出張手続きも煩雑になるし、どのように経費を支払うかも問題となります。実際、フランスに拠点を構えて、日本出張を何度も繰り返す私のやり方を聞くと、どうやってやってるの?と特に先輩の先生に聞かれます。
日本とフランスの往復以外にも、外国での会議や用務などもあり、それらをどのように手続き上組み込んでいくかも、当初はいろいろと悩んでいました。
結果的には、すべて自分の希望通りにさせていただいており、事務の方々にも最大限のバックアップをいただいており、本当に感謝いたします。
特に、日本出張は、4回を終了しましたが、すべて非常に充実しており、寝ている時間(睡眠時間も短い)以外は全く無駄のない時間と言ってもよいほど密度が濃く、毎回サバイバル状態となっております。あと一回、8月上旬に短期日本出張をしますが、よろしくお願いします。
最も手続きが難航するかと思われたナイジェリア出張も何とか手続きは最終局面に入っており、無事に出張が遂行できることを願っています。ナイジェリアの下水道インフラを耐久的にする研究について、ナイジェリアの修士学生を指導しています。日本では学生、母国では役人ですが。形だけの研究指導であればどうにでもなりますが、1.7億人を抱えるアフリカの大国に求められる下水道事情について、やはり肌で感じないと真剣に思考もしないし、指導も真剣にできません。インフラ管理学コースの学生の指導もこれで5人目になりますが、うちアフリカが4人目になります。そして、それらすべての学生(すべて母国の役人)の国を訪れていることになります。打算的に生きているつもりは全くありませんが、これらの経験も将来、何らかの役に立つと思います。危険を心配してくださる方はたくさんおられますが、万全を期しますし、またとない機会ですので、ベストを尽くしてこようと思っています。
やりたいようにやらせていただく、ということが私たち研究者にとっては最大の幸せです。
これ以上ない環境を与えていただいていることに再度感謝し、今週もベストを尽くします。