細田暁の日々の思い

土木工学の研究者・大学教員のブログです。

学部3年の「メインテナンス工学」の最終レポートからも、秀逸なものを1つ。

2021-02-26 09:36:54 | 教育のこと

ここのところ、私のブログで、「土木史と文明」の最終講義のレポートから2つ、面白いものをご紹介しました。

昨年度から新たに立ち上げた「メインテナンス工学」も、私自身はとても大切に思っている講義でして、この講義についても改めてエッセーを書くことにしますが、今年度の最終回の講義でのレポートから、下記の秀逸なものをご紹介します。学部3年生の時点でこれだけの視点を持てる方の将来のご活躍を心から願います。

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他の学生の感想の中にあった「建設と維持管理を対等に見る」というフレーズには、「建設」と「維持管理」がそれぞれ独立した行為であるという双極の構図が見てとれる。私はこれに少し違和感を感じた。きちんとしたConceptual Designが行われていれば、主体が違っても「建設」と「維持管理」は時間的に連続した行為ではないのか。しかしこの理由は冷静になって考えてみると実は簡単で、もしはじめの建設段階できちんとしたConceptual Designがなされており、構造物自体の想定に変化や問題はなかったとしても、その構造物のユーザーや維持管理者といった人の状況(関係主体のネットワークやコスト面での状況など)は変化しうる。つまり、維持管理の手が加えられて成り立つ性能維持は、同様にその構造物のConceptual Designが想定する時間軸から人為的な原因で外れてしまう恐れもある。ここに、「建設」と「維持管理」の連続性の確保(つまり構造物の性能維持に時間軸に沿って付き合うこと)が難しい理由を見出せるのではないかと考察する。

首都高のトピックから日本橋の景観についての話があったが、高架がかかっている現在の日本橋の状態について「景観を損ねていない」という主張を聞いたのは初めてだった。私自身は日本橋を実際に渡ったことがないのではっきりとした主張はできないが、日本橋の景観の良し悪しは確かに賛否両論あるだろう。おそらく日本橋以外で名前もそこまで有名ではないような橋ならば、このような議論にはならないのではないかと思う。それは橋自体が、日本橋という地域のコンテクストを含むアイコニックな役割を果たしていること、あるいは国や東京(江戸)にとっても歴史的文化的な価値があることが、あまり実感できないという問題から「景観を損ねている」という形で議論になっているのだろう。そこで、上に挙げたような日本橋の役割や価値を、メインテナンスにおける「機能」に結び付けて考えてみるとどうだろうか。日本橋の上を大きく高架が覆っている状況を見ると、地域の人々やユーザー、あるいは国民にとって目に見える形で機能(役割や価値)が果たされているとは肯定できない人がいるのも不自然ではないと思う。こうした捉え方で見れば、現在出ている地下化の案は、かつての日本橋の景観を取り戻すことでそうした地域のコンテクスト、日本橋の歴史的文化的価値をより引き立たせることができ、ある意味「機能増強」とも捉えられるかもしれない。

この講義の初回のレポートで、Conceptual Designから派生して「用・強・美」について触れた。その時は「用(utility)」に注目して考察したし、講義を通じてメインテナンスでは「用・強」の要素が主に扱われているように感じたが、日本橋の事例によって「美」の要素についても構造物のfunctionやperformanceは発揮されていて、同様にメインテナンスの対象となる要素だということに気づくことができた。これは、道路舗装における快適性という要素にも関連している。性能維持というメインテナンスの本質から外れずに考えれば、まず最優先は安全性であるが、快適性や景観、ユーザーが感じる「美」の要素もまたメインテナンスによって維持することが目指されるべきだと指摘できる。

最後に毎回の私の考察を簡単に振り返る。参加のしかたには個人差はあるだろうが、私は具体的な技術についてよりも、主に言葉や行為、操作の意味について厳密になってメインテナンスを考えることができた。「メインテナンスとは何か」という質問から始まったこの講義で、そうした厳密さに基づいて各回のプロフェッショナルから得た知識や哲学は、近い将来の実践の機会に大きく役立つのではないかと思う。失敗も含めて、自己形成や専門領域での学びに努めたい。


「土木史と文明」、学生の最終レポート 2つ目

2021-02-25 14:53:34 | 教育のこと

こちらは、他学科の受講生ですが、2つ目のピックアップレポートです。

10月の初回の講義で、オンライン講義から消え去っていく学生も少なくなかったのですが、この方は頑張って最後まで受けてくれた方、ですね。

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『一般教養を受ける意義』

私は土木史の授業をはじめに受けた時、初回の論にも書いたが、その政治に対する考えの違いから退席して授業は切ろうと思った。当時の心境としては大学には好きなことを学びに来ているため、一般教養だろうが自分の考えに合った、ある意味自分にとって都合の良いものを取れば楽でよいと思ったからだ。一般教養を特に重要な科目としてとらえていなかったのだ。しかし私はいろいろな心境から逃げずに秋学期この授業を受けとおし、かなりたくさんのことを学び、影響を受けた。具体的には私は本授業を通して一般教養としての土木史だけでなく人生を生きていくにあたっての、正しいとは言わないが効果的な生き方を学ぶことができたと思っている。その中で、ひとつ私は大切なこととして一般教養を受ける意義を理解したように感じている。一般教養を受ける意義についてはよく議論されていることであるが、わたしはこの土木史という授業は真の一般教養の授業で学ぶことを学べたのではないかと思っている。

一般教養を受ける意義はなんなのか。大学生は基本的に卒業に必要な単位数を稼ぐためにとることが多いように感じる。大学入学時は私もそう考えていた。周りの友人にも1年の段階で早くも専門の単位をあきらめて単位の取りやすい一般教養で単位を稼ごうとしている人を何人か見かける。だが私は一般教養の本当の意味とは自分の知りえなかった世界に対して視野を広げることができることではないかと考えるようになった。これは確かに自分の専門には何の関係もないかもしれない。何の役にも立たないかもしれない。もちろん何か関わりがあることを発見できるかもしれないが、そうではないことの方が多いと私は思っている。だが、それでも私たちが一般教養を学ぶのは、文字通り教養を深め、自分の人生を豊かにするためなのではないかと私は結論付けた。例えば本授業では土木を通して自分のいる日本の社会の仕組みを知った。それがどう機能していてどのような問題点を抱えているか、自分の身の回りに実際に起きていることなのに私は何も知らず寧ろ誤解していたということを知った。このように自分とは全く異なる観点から全く異なる話題について専門の先生から解説されることで、新しい経験ができる。このためにある科目が一般教養なのだ。

以上のように一般教養には19年間生きてきた中で培ってきた固定観念を崩す力があると感じている。私は専門の単位数でほとんど授業上限は埋まってしまうのだが、それでも今後空いた単位には積極的に一般教養を入れていこうと思う。


「土木史と文明」、学生の最終レポート 1つ目

2021-02-25 14:49:54 | 教育のこと

講義の成績を付ける締切りが迫っておりまして、土木史の講義の最終回のレポートにも目を通し、相当なエネルギーを注いできた講義ではありますが、好意的に受け止めてくれた学生たちが少なくなく、いくつかをぜひ紹介したいと思い、ピックアップします。当然、匿名です。

では、まず一つ目のレポート

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都市基盤学科でいかに学び生きるか

土木史と文明の講義が終わりこの半年を振り返ってみれば、授業時間は合計15×1.5=22.5時間、メモとレポートの文字数はここまで合わせて2万3000字を超えた。週に一度の授業であったが、積み重ねていけばさまざまなものが得られた。最後のレポートとして、では一体自分の中では何を得られて、今後何が必要であると感じたのかをまとめていきたい。

まず最初に挙げたいのは、自分が何をどう考えているのかが少しだけでも自覚できるようになったことだ。最初のレポートには、首尾貫徹した意見を持てるようになるための思考訓練として授業に臨むと書き、ここまで着実に実践できた。細田先生ほどの確立された問題意識とそれに沿った習慣と態度を、自分は未だに持つことはできていないと思うが、不恰好でも自分の言葉でしっかり受け応えができるぐらいにはなったと思う。具体的に述べると、飲みの場などで社会人の方で話す機会がここまで何回かあったのだが、「何を勉強しているの?」とは聞かれることがある。まずは都市基盤、インフラの説明から入り、それに対して自分はどう向き合っているのかまでを、時に簡潔に、時には深いところまで説明するのであるが、そうした受け応えの中で必ずこの授業で得たものが強く意識されている。ここで、自分の意見とともに自覚される、この授業を通して得られた要素がもう一つある。それは伝えることの重要性である。授業の中で細田先生は授業の中で自分の考えを、どう伝えるべきかを強く意識して述べていただいた。周りの大人がそれをしていないということでは決してないが、結果として講義中の細田先生のような態度の大人が少ないので、一部の学生は批判的に思う学生が現れたのかもしれない。それでも細田先生のように、ちゃんと耳を貸してくれる相手のことを考えた上で、自分の意見が伝わるように明確に主張することは、大変重要であると分かった。一部の若者のニヒルな空気の中では受け入れられないことは確かにあるだろう。それでも受け止めてくれる相手は必ず存在すると、コメント紹介を通じて分かった以上、相手に合わせて空気を読みすぎた意見を言うよりは、自分の考えをより誤解されることのないように、批判を恐れずに伝える態度を取っても良いのだと自覚できた。

この伝えることの重要性に相対して、聞くことの重要性を今後必要であるものとしてあげたい。土木史の授業ではこの「聞く」という過程をレポートの中で実践されていて、授業の冒頭で多くの時間を割いて、かつ学生に見える形で行われていた。提出されたレポート全てに目を通して、それぞれにちゃんとした言葉で受け答えをしてくれることは、自分を含めて多くの学生が先生への信頼と次の授業とレポートへの意欲につながったはずである。今後自分も何かを伝えることが迫られる以上、この「聞く」過程を意識しなければ、せっかく形づくられた自分の考えが反省と再形成の場が完全に失われてしまうであろう。こういったことが、もっとも感じられるのは授業後の質疑応答の時間である。半分はzoom(と細田先生)慣れしていない他の学生のためのアイスブレイクのつもりでもあったが、やはり質問することで相手の考えをうまく引き出す能力を身につけるために質問をしていた。あまり認知はされていないが、「いい質問」は、「無質問」はおろか、「単純に気になっただけの質問」などよりも遥かに重要であるはずだ。つまり、「聞く」ための能力は、ある講義の中でさらに踏み込んだ何かを得たいと思ったときに実践的に活かされるのである。

「いい質問」とは一体どんな質問なのか、についてを十分に述べることができない以上、今後必要であるものとして覚えておきたい。

以上までで、おそらく蓄積された文字数は2万5000字ほどまで達しただろう。最後に付け加えておきたいのは、ここまで蓄積された思考の中にはいつだって少なからずの悦びがあったということだ。授業の中で新たな知見を得られること、新しく意見を立てられるようになること、更に新しい疑問が生まれること、これらは退屈なオンライン授業のためであろうか、忘れられていたように思える。この悦びをずっと大切にしながら、以上の反省を踏まえて貴重なキャンパスライフを学び生きたい。


修論、維持管理のテーマ

2021-02-18 13:09:01 | 研究のこと

今年度の修士論文の審査会が2/16に終了しました。

今年度は、私が主査を務める学生は1名のみで、これまでで最も少ないかと思います。しかも、中国からの留学生の楊君で、日本人はゼロ、でした。まあ、こういう年もあろうかと思います。

この学生の研究テーマは、「横浜市の配水池施設群の性能評価方法と維持管理システムの提案」というものでした。

2019年度から2年間、横浜市と共同研究を実施し、その中で、配水池という特殊な供用環境で供用されるインフラの維持管理システムについて真剣に考え、現実の維持管理に活用される性能評価方法やシステムの提案を行いました。考案した外観目視による点検方法により、今年度に調査した実際の配水池の点検を行い、定量的なデータを取得しました。

この共同研究がスタートする前や、スタートした直後は、私もそれほどやる気はなかったのですが(失礼)、やはり現実の構造物群の維持管理を行う、ということで、多くの配水池の現実の様々な劣化状況を自分の目で見て、配水池に期待される機能(function、役割)が発揮されるように、配水池のコンクリート構造物の性能(performance)をどのように点検し、性能を評価し、適切なタイミングでどのような補修、補強を実施するか、という維持管理システムを真剣に考えました。

鉄筋が腐食したり、コンクリートが剥落したり、というコンクリート構造物によく生じる劣化であっても、街中にある鉄道高架橋と、普段は人が立ち入らない地下にある大空間の配水池では、対応の仕方が異なってきます。また、ほぼ常に水に浸かっている部分と、そうでない気中であっても高湿度にさらされている部分がほとんどである配水池では、その環境の特殊性もよくよく頭に入れて、検討する必要がありました。教科書に書かれているために、当たり前のように中性化の調査がなされていましたが、配水池の躯体(特に水をためる内部)については、中性化の調査は今後は不要、と思います。

担当の学生の楊君もよく頑張って実構造物の調査を行い、データを取得し、分析したと思いますが、私自身が大変に勉強させてもらいました。

いわゆる維持管理の「哲学」は私も持っているつもりですが、現実の実務の中で具現化する過程で、非常に多くのことを学びます。

例えば、構造物を点検し、その結果に基づいて構造物の性能を評価し、今後の構造物の劣化を予測し、維持管理限界と比較して、補修や補強などの対策の実施の必要性を検討する、などと、教科書やら示方書には書いてありますが、現実の実務の中で具体的にどのように行うか、となると一筋縄ではいきません。

結果としては、劣化の予測などできないし、そもそもする必要がない、というのが私の出した結論でした。今後の劣化の予測をしなくても、適切な維持管理はできると思ったし、本質はそこにはない、というのが私の考えです。今後、短期間で要求性能を満足できなくなるような劣化が頻発する場合は、将来の劣化予測がそれなりに重要になると思いますが、横浜市の配水池群の劣化は私の目にはそれほど深刻には見えず、劣化予測をしたがる管理者の気持ちは分からないでもないですが、意義が小さい、とコンサルティングしました。

また、かなり劣化したものも、全く健全で今後もしばらくの間は劣化しそうにないものを同じように点検しているのもおかしいと思ったし、また補修した後の再劣化が生じているものも少なくありませんでした。また、今後も更新の工事(実質的に新設)は少しずつ重ねられていくのだから、劣化しにくい初期品質のしっかりした構造物を構築することが大事だと思います。粘り強いフィードバックになりますが、これができるできない、が将来のインフラのあり方を大きく左右すると思います。これらを良い方向に改善していくための提案もしました。外観目視による点検は実装されましたが、その他の提案もシステムに実装されるよう、今後も研究、コミュニケーションを続けたいと思います。

担当学生との議論や、横浜市の水道局の担当の技術者たちとも議論を重ね、私自身の考えも少しずつ構築され、ブラッシュアップされていきました。当初、私の言ったことが、修正されたことも数多く、これこそ研究であると感じました。

コンクリート構造物の劣化は、それぞれの事例にそれぞれの理由がある、個別性についてはこれまでも認識していましたが、維持管理システムについても、対象構造物ごとに、また事業者ごとに適切なあり方が異なるということを、今回の研究で具体的に体感することができました。これは、とても大きな経験と思います。

来年度も新しい研究テーマが立ち上がり、すでに準備を始めていますが、やはり一つ一つの積重ねが総合力につながっていくことを意識して、地道に続けていきたいと思います。