YNU土木工学教室の台湾見学会が終了しました。2泊3日が公式スケジュールで、台北に入り、トンシャオという町にある台湾電力の発電所の見学、台中で1999集集地震の爪痕や記念館を見学し、最終日の3月9日には、午前に浜野弥四郎の主導した台南水道の施設群と、午後には、八田與一の烏山頭ダムを訪れました。
私が教室見学会のマネジャーを務め始めてから8年が経過していますが、今回の見学会がその中でもNo.1のものになりました。最終日の夕食の時間に化学変化が生じ、学生たちのスピーチに涙が止まりませんでした。八田與一の大きな愛に私たちも包まれていたからだと私は確信しています。
八田與一のご功績を知りたい方は、この本が最もお薦めです。素晴らしい本ですので、ぜひご一読をお薦めします。
彼が陣頭指揮を執った嘉南大圳は、その天王山プロジェクトが烏山頭ダムになりますが、1930年に完成し、工事総額は5000万円を超えました。現代の金額では5000億円を超えると言われています。その20年くらい前に台湾で完成した鉄道網が4000km以上に渡る壮大なものですが、その工事総額が2700万円程度、ですから、いかに嘉南大圳がすさまじいプロジェクトであるか、想像できるかと思います。香川県に匹敵する広さの平野を、干ばつ、塩害、洪水の三重苦から、豊かな実りある緑の平野に変えた、人のためのプロジェクトでした。水源から平野を灌漑するために造られた水路の総延長はなんと、16000kmにもなります。
しかも、完成後は、工事にかかった費用を3年程度で回収できるほど、平野からは穀物、農作物の収穫が上がるようになりました。たった3年で回収です。土木とは、何も生み出さない土地、国土に適切に人間が働きかけることにより、人間に恵みを与えてくれる国土へと変える偉大な事業なのです。
八田與一は、今でも台湾の人々に神様のように尊敬され、慕われています。與一が人を大切にしたからです。1923年の関東大震災の発災後、日本は国難に陥り、このプロジェクトの資金も存続すらも厳しくなりました。工事に関わる人を解雇せざるを得なかったのですが、與一が作った解雇者リストの中には、非常に有能なスタッフたちの名前があったとか。「優秀な人はどこでも働ける。でも、そうでない普通の人はそうはいかない。みんなを食わせなければいけない。」というのが與一の考えで、もちろん、解雇するスタッフたちの働き先も必死で探したそうです。プロジェクトが軌道回復してからは、解雇されたスタッフたちも皆戻ってきて、みんなで働いたそうです。
與一は、1942年5月8日にフィリピンへ向かう大洋丸が米軍の魚雷攻撃による沈没したときに亡くなります。脱出できなかった700名以上の優秀な乗組員が君が代を斉唱しながら沈没したそうです。與一の遺体は6月に入ってから山口県萩の海で見つかることになります。奥さんの外代樹さんは、烏山頭で與一の遺骨と対面することになりますが、その悲しみは想像も付きません。3年後に、外代樹さんも與一の後を追い、烏山頭ダムの放水口に身を投げ、6km下流でご遺体で見つかりました。台湾の方々は二人の死を大変に悲しんだそうです。
8人の子を育てられた、外代樹さんの銅像が、八田與一記念館の傍にありました。この像に近づいたとき、私は自然に涙がこぼれました。
外代樹さんの像の前で。教え子の鈴木三馨さんとともに。
與一が技術者としてのすべてを注ぎ込んだ烏山頭ダムの堤上にて。セミハイドロリックフィル工法で構築されたダムの中央部の底には、鉄筋コンクリートコアも設置されています。当時、東洋一のダムでした。
烏山頭ダムのほとりで、ダムと平野を見渡す位置にある與一の像。像の後ろの御影石のお墓には、與一と外代樹さんが眠っておられます。近づくときに、與一の大きな愛に包まれる感じで涙が溢れました。
この近くにある殉工碑を訪れた後、再びダムを眺め、最後に與一の銅像をもう一度訪れました。
碑には、工事で亡くなった方々だけでなく、工事関係者の家族の名前も刻されていました。
與一は、台湾の方々のために技術者としての命を捧げました。
彼が本当に大切に思っていたのは、人、だったのだと思います。土木事業も資産ですが、人こそが最も大切な資産であることを與一は分かっていたのだと思います。
そのことを、最終日の夕食のスピーチでも伝えました。
今回の見学会で、私も多くのことを感じ、土木、教育というとてつもなく重要な職業に就いていることに誇りを持ち、一歩でも八田與一のような偉大な先輩に近づいていけるよう、精進を重ねる所存です。
今回の見学会は、学生たちが主体的にマネジメントしました。素晴らしい可能性、能力を持った学生たちであると思います。大きく大きく、與一のように育ってもらえればと心から思います。
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