細田暁の日々の思い

土木工学の研究者・大学教員のブログです。

学生による論文(91) 「自然災害対策の過去と未来」  藤田 光 (2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-25 06:30:55 | 教育のこと

「自然災害対策の過去と未来」  藤田 光 

 今回の授業のテーマは、自然災害からの克服ということがテーマであった。

 授業でも話を聞いたように近年は自然災害が猛威を奮っている。近年では、2011年の東日本大震災、2014年の御嶽山噴火、2016年の熊本地震、至る所で発生している豪雨等が挙げられる。

 まずは、今回の講義では大河津分水路の話がかなり印象に残った。実際に自分も大河津分水路には訪れたことがあるので、そのときの経験も元に以下記す。

 信濃川は日本一の長さを誇り、水流や流域面積においても日本屈指の大河川である。信濃川の水の流れは、流域の農業や工業を育て、古くから“母なる川”として人々に愛されてきている。

 元々、大河津分水路が建設される前は、信濃川や信濃川水系の分流の中ノ口川などの堤防決壊による水害は3年に1度起きており、その度に越後平野は壊滅的な被害を受けていた。また、川の水が引いても水が引かない沼の多い所で、胸まで浸かっての田植えの作業を余儀なくされていた。

 そのことから、享保年間に寺泊の本間屋数右衛門らが幕府に分水路の開削を請願した。しかし、享保16(1731)年に分水路として開削された松ヶ崎掘割において、分水地点の堰が破壊され、分水路である掘割が阿賀野川の本流と化してしまう被害が発生した。また、これにより、河口の新潟湊では、阿賀野川の水量が減ることにより、土砂の堆積が減ったことに悩まされていた。そのことから、新潟湊の関係者は大河津分水構想に猛烈に反対していた。

 その後、明治元(1868)年に発生した新潟平野の大洪水を契機に、越後平野を水害から守るためには大河津分水の建設が不可欠と考え、100人を超える人たちが大河津分水路建設の請願を繰り返した。それにより明治3(1870)年には大河津分水路の工事が始まった。しかし、分流路下流部の度重なる地滑りや分水工事への反対運動、外国人技師からの大河津分水路ができると信濃川河口の水深が浅くなり、新潟港に影響が出るという報告があったため、明治8(1875)年に工事は中止となってしまった。

 その後、政府と県のより信濃川の堤防改築が進められたが、明治29(1896)年7月22日には、歴史に残る大水害「横田切れ」が発生した。長岡から新潟まで、越後平野のほぼ全域が一面泥海となった。多くの家屋や田畑が浸水し、被害総額は当時の新潟県の年間予算とほぼ同額であった。また、低地では11月になっても水が引かず、伝染病で命を落とす人もいた。実際に博物館の中には「横田切れ」における様々な被害の様子が展示されており、かなりの被害を受けたということを実感することができた。この「横田切れ」をきっかけに大河津分水を求める声が一段と強まった。

 そして、明治40(1907)年に工事が決定し、翌々年から大河津分水路の工事が始まった。工事では、当時の最新の大型機械や最先端の技術が使用された。それでも困難をきわめた工事であったが、1000万人の先人の献身的な頑張りのおかげで2880万m^3という膨大な土量を掘削し、大正11(1922)年、ついに大河津分水路に初めて通水した。実際に博物館ではその時の工事の様子の模型を見ることもでき、実際の工事の様子が理解しやすかった。また、今年は大河津分水路通水100周年を迎える重要な年にもなっている。

 しかし、通水から5年後の昭和2(1927)年には、大河津分水路へ流す水量を調節していた自在堰が河床洗堀により陥没し、水位調整機能を失うという事態が発生した。これにより、信濃川下流部では水不足となり、新潟市では海水が川を逆流し、水道から塩水が出てくる状況にもなってしまった。そこで、陥没した自在堰に代わり、可動堰を建設する補修工事が昭和2(1927)年に開始され、青山士や宮本武之輔など多くの技術者と従業者の奮闘によって、昭和6(1931)年に可動堰は完成した。吹雪や台風とも戦いながらの工事であり、偉人の凄さをそこでも感じることができた。

 大河津分水路の完成により、今まで303回で106回起きていた信濃川下流域での水害の発生回数が93年間で12回に減少した。また、かつての越後平野は水害が多く発生していた地帯であり、土地が低く水はけの悪い場所であったが、大河津分水路が完成することで、湿田が乾田化され、機械化に伴い米の収穫量が2~3倍に増え、越後平野は日本有数の米どころに発展した。また、大河津分水路が建設される前は、水はけの良い越後平野の山際に鉄道や道路が建設されていたが、大河津分水路の建設後、平野の中央に新幹線や高速道路が建設され、新潟と首都側を結ぶ主動脈となっている。加えて、信濃川本流の川幅を狭くすることが可能になり、新しい土地や街が誕生し、地域の発展に結びついている。

 大河津分水路の可動堰が完成した後も大河津分水路の機能を維持するために様々な工事が行われている。具体的には、川底が削られることを防ぐための堰堤の建設や洗堰と可動堰を新しくする工事が行われた。加えて、現在は、分水路の河口を広げるために、橋脚を架け替える工事が行われている。実際に現場を見に行くことでメインテナンスの重要さを実感すると共に、将来のことを考えた工事の重要さも実感することができた。

 ここまでは大河津分水路がどのような流れで建設され、どのように水害が抑えられると共に、地域住民の生活の質に大河津分水路がどのように貢献しているか等を述べてきた。しかし、水害以外にも自然災害には、地震や火山噴火、土砂災害、高潮、津波等、様々なものがある。その中でも今回の講義で細田先生もおっしゃっていたように、南海トラフの巨大地震が近い将来必ず来るとされている。過去の地震災害を振り返りことも大事なので、まず、東日本大震災について私が経験したことを以下記し、その後、大地震が発生した際に考えられる課題について、横浜を例に述べる。

 東日本大震災は、2011年3月11日14時46分に起きた。その日は小学校の授業が終わり、家に14時30分頃に着いていた。元々、その日の16時30分からピアノのレッスンがある予定であった。そのため、地震が起きていた時はピアノの練習を行っていた。その時はテレビを付けていなかったし、今のようなスマホも持っていなかったため、緊急地震速報に気づくことはできなかった。そして、まずはP波が来たが、P波がいつもの地震よりも長かったと感じた記憶がある。その後、S波が来たが、今までに経験したことのないような大きな地震であったため、かなり怖かった。その後しばらくはテレビをしっかりと見ていたが、かなり激しい地震であったということがテレビを見ていて実感させられた。しばらくして、大津波警報が出て、津波の怖さも感じたと記憶している。しかし、自分は海抜約10mの家に住んでおり、海からの距離も2kmほどは離れていて、近くの川からも800mほどは離れていた。また、津波の高さの予報は3mであったため、津波の心配はないということで家からは逃げなかった。しばらくして、海から離れた方向にある藤沢駅の方の様子を見に行こうと母が声をかけてきたので、藤沢駅に向かったが、藤沢駅の電車やバス等の公共交通についても運休や運転見合わせが多数発生しており、駅は多くの人で一杯であり、かなり混乱していた状態であったと記憶している。そこでこの地震による影響は自分が住んでいる藤沢でもかなり大きいものであるということを実感した。そして、午後6時頃となった。東北地方で至る所で津波による被害が発生したことや、地震に関連した災害犠牲者が多数発生したことについてのニュースがどのチャンネルでも放送されていた。黒い濁流がどんどん人家を襲い、人々の命を奪って行った。この映像を見た時に、平和で豊かな生活が送れている日本でも自然災害には勝てない時があることを知り、自然災害がここまで恐ろしいものであることを身に染みて感じた。その後も、福島第1原発の爆発もあり、原発の近くに住んでいる人は放射能の問題がある等して避難を強いられる等、かなりの影響もあった。また、東日本大震災の後、原子力発電が停止されたことで、私の人生では前代未聞の計画停電も実施され、かなり脅えた。

 この東日本大震災の経験を元に、今後来ると言われている南海トラフ巨大地震や首都直下型地震に備えていかなければならない、と感じている。今回、細田先生が授業中にお話しされていたように南海トラフ地震について、しっかりと対策していたら相当の被害額が抑えられることも学ぶことができた。そのことから今後起こりうる地震に対する対策をしっかりと行っていく必要がある。地震に対する対策を考えるためには、今の状況で地震が起きた際の被害を考えることが重要であることから、首都圏で大地震が起きた際に横浜で予想される災害について述べる。

 まず、横浜は盛土・切土の地形が多いことから、大地震が発生すると土砂災害の危険がある。また、建築後の年月がかなり経っている家屋等もあり、それらの家屋は倒壊する危険性もある。さらに、多くの家で火元を使っている時間帯に大地震が発生すると、住宅地では、大規模火事へと発達してしまう可能性もある。東日本大震災では津波による火災が大部分を占めていたが、阪神淡路大震災は朝方の時間であったため、地震直後では電気・ガス関連による火災が多く、地震の数時間後およびその翌日以降では電気関連による「電気火災」が多かったとされている。加えて、特に長い年月誰も住んでいない空き家や長い年月使われてきた老朽化している倉庫等は以前の大地震でも倒壊等の大きな被害が出ていることから、注意が必要である。また、横浜は高速道路網や鉄道網等といったインフラが張り巡らされており、それらインフラへの影響も大きいと予想される。現に、東日本大震災でも多くの高速道路網や鉄道網に被害が発見され、復旧には場所にもよるがかなりの期間を要した所もあった。もし首都圏で大地震が発生した場合、東北地方よりもよりインフラが立体的に張り巡らされていることから、破壊を起こしたインフラのみならず周囲のインフラにまで悪影響が及ぼす可能性があることから、復旧・復興に時間がかかるも考えられる。また、横浜の住宅街では、電柱が多く用いられていることから、電柱が倒れ、火災が発生することも考えられる。加えて、津波が押し寄せることが考えられる。本当に規模が大きな津波が来る場合は、横浜駅周辺やその他海の近くのエリアを襲う可能性がある。

 上記からも分かるように横浜にはかなりの課題がある。首都圏の他の地域や南海トラフで被害が予想されている地域では同じ被害も起こりうるが、それに加え様々な別の被害が起こる可能性もある。先ほども述べたように災害が発生してからでは遅いのである。そのことから、上記に挙げたような課題を解決していくために今度ハード、ソフト両面からさらに対策を行っていく必要があると考える。

 今回のレポートでは実際に防災対策の事例として授業でも取り上げていただいた大河津分水路を挙げた。その後、東日本大震災での体験談を述べた後、これから取り組まなければいけない横浜の防災上の課題を挙げた。昔の事例から学べることを学び、これからの防災対策やインフラ設備について考えることの大切さについても改めて実感することができた。

 【参考文献】
*1. 信濃川大河津資料館 展示資料
*2. 大河津分水路とは 大河津分水 通水100周年(2022年11月19日最終閲覧)
https://www.hrr.mlit.go.jp/shinano/ohkouzu100th/ohkouzubunsui.html
*3. 解体新書 大河津分水路可動堰
*4. 阪神・淡路大震災教訓情報資料集【04】火災の発生と延焼拡大 内閣府 防災情報のページ(2022年11月19日最終閲覧)
https://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/hanshin_awaji/data/detail/1-1-4.html
*5. 学んで助かる 震災からわが身を守る 第4回「津波火災」の怖さ NHKアーカイブス(2022年11月19日最終閲覧)
https://www2.nhk.or.jp/archives/311shogen/fa/se1/fourth.html


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