コロナ禍という言葉を聞くようになって下手すると2年近くになろうとしています。
何をもって「禍」というかは、人によって違うのでしょうが、我が国では仕事の仕方、教育のやり方から、レクリエーションまで様々なことが大きな変化を余儀なくされました。
土木史の講義のレポートでは、まさに社会の様々なことがテーマになり得るのですが、少なくない学生たちが「元の社会には戻らない」「オンラインでできるのだから、今さら長距離の交通への投資が必要とは思えない」などなど、オンラインでの社会交流がメインとなるような感覚を持っているのです。
恐ろしい。
オンラインでできるのだから、対面や直接の交流は必ずしもなくても成り立つ、というように思ってしまうことが恐ろしい。
対面や直接の交流の本当の意義を、我々おじさん世代でない、大学生や高校生以下の多くの方々が分からないのは仕方ないとしても、そう思い込んでしまうと、彼らが経験したことのない対面での交流を積極的に望もうともしないだろうし、そうなると本当に将来の社会が不安になります。
オンラインでの会議は、よほどでない限り、用が済めば、「はい、さようなら」です。
人間は五感で生きていますので、会議の直接の目的が達成されれば終わり、ではなく、参加者の顔色やたたずまい・息遣い、機嫌が良いのか悪いのか、色々と観察しながら、たまにはぶつかったり、会議の合間の雑談や、会議の後の懇親会などで、会議の間にはとても思いつかないクリエイティブなアイディアを思いついたり、追加の有用な情報交換をできたりするのです。
それから、人間は、「やるべきこと」をやっていればよい、という存在ではなく、無駄に思えることや、リラックスする時間、自然と自分自身を同期する時間、などなど、人間自体も自然の存在なので、とてもオンラインの社会で人間が活き活きと生きていけるとは思えません。
わざわざ海外に行かなくても、会議などはできますが、海外に行く過程、海外出張中などの様々な経験、失敗がどれだけ自分の肥やしになっているか。海外の国々まで足を運んで訪れた現場や、遺産的な構造物・建築物などに直接に触れた感動が、どれだけ今の自分の肥やしになっているか。そういう貴重な時間を失っていることをもっと深刻に捉えるべきと私は思います。
十分な大人に「なってしまった」人のことなどどうでもよく(申し訳ないですが)、これから社会を支えていく若者、子どもたちが大きく育つための環境を、今一度、守りに入ってしまった大人たちはよくよく考えてほしいのです。本当に子どもたちのことを考えていますか?何をそんなに守りたいのでしょう。
冒頭の「コロナ禍」に戻りますが、社会システムをそこまで変えてしまうほどの「禍」だったのでしょうか?情報、に踊らされる現代の人々の哀れな末路の「禍」であった、というのが私の認識です。
元に戻しましょう。
++++
追記
オンラインでの会合は極めて便利なので、今後も無くなることはないでしょう。私もオンラインでこそ可能な会合があり、その恩恵に預かっていることは事実です。何事もバランスが大事なのでしょうが、特に日本人は極端に振れる傾向があるので、気を付けておかないと本当に大事なことを簡単に失ってしまうと思います。私自身も、便利なオンライン会議に頼り過ぎないよう、本来、対面でやるべきことは対面で実施するようにチャレンジしたいと思っています。
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