週末を原村で

非日常性のユッタリした時の流れを信州は原村で。音楽を聴きながら星を眺め!最近は海外の旅の記事もアップします。

§ 単一性(没個性)

2010年02月14日 00時00分01秒 | たわごと(少し硬派に振って)
いつもの戯言を手短に。

日本は阿吽の呼吸で意思が通じ合えると良く言われる。
同じ土壌に育ち価値観を同じくするからであると。
でも実際にそうなのであろうか。

生まれも異なり育ちも異なり、経験も違うのに単一性が良いかの如く言われる世間。
個性豊かな異端児は強調性に欠けるとして誹りを受けて排斥される社会。
此処まで読めば、異端児に肩を持っていることはお分かりの事。


本質的に幼稚園・小学校教育にその芽を見る事が出来る。
その後に続く教育と社会での規範として延々と引き継がれるのである。
集団を指導する時、指導者は一方向に纏まった子供達は御し易いのである。
子供のもっている各々の個性を大事にされないのである。
それどころか、個性を埋没させる事が目的であるか如きの教育である。

運動会の練習である組は全員が赤い帽子を被る。
隣の組は白い帽子を被る。
なんの違和感も無く、極当たり前のように。
こんな事に違和感を差し挟む自分が変わっている事は百も承知である。

赤い集団に居ると白い帽子を被っているだけで排斥されるのである。
すなわちいじめの対象になるのである。
個性が大事などと建前で言ったとしてもその行動は反対なのである。
個性豊かなこと自体がいじめの原因を作りだす社会。
自分の右の人と左の人と自ずと異なる個性を持って居る事を伏せるが如くの教育。
違う個性を持った人間であることを認め合いそこから出発して欲しいものである。

沢山の個性豊かな人材を育成する事で奥深い豊かな社会が出来るとおもうのですが。
天邪鬼な心が言わせる問題発言でしょうか。

為政者が御し易い為に、単一性を求めるのであれば問題である。

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