Me & Mr. Eric Benet

私とエリック・ベネイ

1996年4月18日、そして「We Are Family」へと

2012-04-18 00:27:05 | NILE RODGERS & the CHIC organization
1996年の4月、日本はまさに桜の季節だった。
春の暖かな陽気の中、まだ残っている美しい桜の時期に自分が間に合ったこと、
"Sakura"は短い期間しか花が咲かず、日本人にとって神聖な意味を持つ、
とナイル・ロジャースは綴っている。

武道館でのコンサートとJTの企画で2時間枠のテレビ番組の収録があること、
ナイルは浮き立つような気分で親しいアーティスト、このコンサートに相応しい人達、
へと声を掛けてメンバーを集めた。
そして新しいCHICのメンバー編成もした。
もちろん昔ながらのパートナー、バーナード・エドワーズも一緒だ。
このことがこれからの新しいCHICへの最初のステップとなる予感もしていた。
今までにない素晴らしい演奏ができるという実感もあった。

事態が悪くなったのはその24時間後だった。
「少し横になりたい。点滴とかできるかな?元気になれるように。」
とバーナードが言った。
プロモーターとエージェントに話すと医師が呼ばれる。
「コンサートはキャンセルして直ちに入院してください。」
と告げられ、ナイルもコンサートを延期して日を改めるようにプロモーターと話す。
しかしバーナードは譲らなかった。「医者と話したい。」
バーナードはコンサートは行うこと、終わり次第病院へ行くと医者を説得し、
点滴を打ってもらった。

プロモーターも延期しても問題ないと言ってはくれたものの、
バーナードが「ここまでわざわざやってきて、寝てろって言うのか?」
"The show must go on"と譲らなかった。

コンサートはダンサーも含め、優秀なアーティストも備え、
舞台装置も完璧なものになる。
普段は感情的にならないバーナードも始まる前に既に感極まり涙していた。

曲の途中でバーナードとアイコンタクトしようとすると彼は舞台にいない。
どうしたのかと思いつつ演奏を続け、もう一度探すとバーナードはステージにいた。

休憩の時にバーナードから「実は気絶してしまったんだ。
そして一旦、舞台の袖に運ばれて、名前を呼ばれて意識を取り戻したから、
また演奏に戻ったんだ。」

その時に自分はただ話を聞いていた。
バーナードの口から具合が悪いとか、弱音は一つも出なかった。
「さあ、残りのショウをがっつり行こうぜ!」と言われて、
「もちろんさ!」とナイルロジャースは答えた。

後半もバーナードはエネルギーに溢れていて、
輝くばかりの演奏を聴かせた。
会場は満員、テレビのカメラも何台も置かれ、
観客もアーティストも何もかも素晴らしかった。

コンサートは3時間に及んだ。
ホテルへ戻った時に病院へ向かうようにバーナードへ言ったが、
「今は疲れているから、ただ部屋で眠りたい。」
ナイルは食事に出かける時にもう一度バーナードへ電話する。
何かいるものはないのかという質問に「大丈夫だ。横になりたいだけだ。」
とバーナードは答える。

その晩、眠っていたナイルは突然、衝撃を感じて飛び起きる。
時間は1:33だった。
地震かと思ったナイルは一緒に休んでいたパートナーの女性を起こす。
彼女は違うと思うと言ったが、テレビで情報を確認した。
どこにも地震があったというニュースは流れていなかった。

翌朝「バーナードさんのお部屋にモーニングコールを掛けているのですが、
応答がありません。」とフロントから電話があり、
「すぐ近くの部屋だから僕が起こしに行くよ。」とナイルはバーナードの部屋へ向かう。
応答がないので、ハウスキーパーに部屋を開けてもらう。

そこでナイルがみつけたのは、ソファーで横になってつけたままのテレビの前にいる
変わり果てたバーナードの姿だった。
ソックスに凝固した血液の塊がある。
ナイルは駆け寄り、起こそうとする。
しかしバーナードの頬に触るとコーヒーテーブルのように冷たかった。
何が起きたかと理解したナイルは取り乱し泣き崩れる。
ハウスキーパーはなすすべもなく、警察が呼ばれた。
混乱した気持ちの中にもナイルの心の中で「ずっとバーナードの世話になってきた。
今度は自分がその恩を返す番だ。」という覚悟のようなものが定まってきていた。

その時期、当時アメリカ大統領だったビル・クリントンが来日していた。
時が重なったこともあり、事態は複雑になった。
また日本ではエバーミング(遺体の防腐処理)などをしないために、
どのようにしてバーナードの家族へ遺体を渡せるかなどナイルは悩む。

検死が終わり、鑑識から報告が上がってくる。
死亡推定時刻は午前1時から2時と言われて、
ナイルは「地震のあった頃なのか?」と尋ねる。
英語の堪能な刑事に1:33の出来事を話した。
刑事は言った「日本は地震が多いので、小さな地震も細かく観測されています。
その時間には地震はありませんでした。
それはきっとお友達があなたに別れを告げにやって来たのです。」

警察署からホテルへと戻るために駐車場にいた時だった。
刑事がナイルのところへやって来る。
「お友達のところに行ってあげて下さい。」意味が分からないナイルは聞き返す。
「こちらに来て、お友達に会ってあげて下さい。
そして好きなだけ一緒にいてあげて下さい。」

小さな部屋へと案内されるとそこには祭壇が作られていた。
棺に入ったバーナードの様子をガラス越しに見ると、白い着物を着せられていた。
最も悲しかった日、その終焉は荘厳なまでに美しかった。

エピローグ:"We Are Family"

バーナードの死から14年が過ぎた。
いつも彼が一緒にいてくれると感じながら時は過ぎていった。
彼の死は受け入れるすべもなかったけれど、ただひたすら前進あるのみだった。
このような悲劇的な出来事はまた酒へと走らせてしまうというのが通念だ。
しかし、むしろ自分は反対に、バーナードの死を通して、
自分はしっかりしなければいけない、決して飲んではいけないと決意は固かった。

ずっと忙しかった。
貧しいところからスタートして、不自由しない生活ができるまでになった。
自分にとって「生きている」という実感は、音楽抜きには考えられない。

2001年9月11日、シアトルからニューヨークへと嵐の中、ナイルは飛行機で帰宅した。
家に戻ると彼女のナンシーが「たいへんなことが起きている。」とテレビを指した。
犠牲者の中にずっとナイルのポートレイトを撮ってきてくれた親しいカメラウーマンがいた。
ナイルの電話は鳴り続ける。
「"We Are Family"を使ってアメリカ全土を癒してほしい。」と依頼があるが、
あれはシスタースレッジに書いた曲だし、
その時点では自分の中では全くそんな気持ちにはなれなかった。

ダイアナ・ロスを始め、パティー・ラベル、ルーサー・バンドロス、
クイーン・ラティファ、ポインター・シスターズ、そしてシスタースレッジ自身、
多くのアーティスト、俳優、女優からも支持を受け、
"We Are Family"のレコーディングがニューヨークで始まった。
ただアーティストが集まるだけではなく、
愛と平和への願いが込められた作品にしたかった。

引き続きLAでもレコーディングが行われることになり、
飛行機に乗るとその日のクルーたちは皆、
あの嵐の日にナイルが乗った9/11の飛行機の時のメンバーだった。
彼らからあの日以来、初めてのフライトだと聞き、ナイルはそれぞれとハグした。

レコーディングの様子はスパイク・リーが監督したメイキングフィルムに収められた。
その他に子供たちだけのヴァージョンもコマーシャル映像監督に依頼して作成した。
この作品は2002年のサンダンス映画祭でスタンディングオベーションを受けた。
子供たちのヴァージョンも子供番組の三大ネットワークで放映される。

そこから"We Are Family Foundation"がスタートした。
最初は小さなプロジェクトだったが徐々に大きくなり、
アフリカ、中央アメリカ、ネパールなどに学校を17校立ち上げた。
今後も生活物資、基本的に安全な環境、教育環境の充実へと貢献していくつもりだ。

"We Are Family"をSister Sledgeのために作曲した時、
この曲が自分にとってこんなに大きな意味を成す結果になるとは想像もしなかった。
このプロジェクトのお祝いの会を開催した翌週、
自分はローマのコンサートへと旅立つ予定だった。
イタリアへと向かわなければならない日、主治医からナイルは告げられる。
癌がみつかったから治療を優先して欲しいと。
自分にはしなければならない仕事があるとナイルはドクターに話す。

ナイルには94年から座右の銘としているGrim Reaperの言葉がある。
Yesterday's history,
tomorrow's mystery,
today's gift,
that's why they call it the present.

人生は与えれた贈り物だ。感謝で受け止めないと。
「毎日を今日が最後だと思って生きよう」という言葉もスローガンにしている。
だからローマへと向かい、素晴らしいライヴをやってきた。

家に戻った日は空に雲一つない11月の初めて霜が降りた日だった。
寒くてひやっとする空気は身が引き締まる思いでむしろ心地良い。

これから感謝祭を家族で祝うためにラスヴェガスへと向かう。
義父のボビーがいなくなって寂しくなったけれど、家族の集まりは欠かせない。
一時期、家族と離れたこともあったが、こういう時間を大切に思っている。
今年は自分の癌の告知もあり、母に心配を掛けたくないので、
この家族の集まりを中止しようかとさえ思った。
しかしそんなことは問題ではないという結論に達するかもしれないと思い直して、
今年も祝うことにした。

明日は感謝祭だ。

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2001年に9月11日を経験した後、感謝祭で家族で集まることにしたというプロローグから始まり、
翌日の感謝祭を祝うという2010年で"Le Freak"は終わっている。

今日はBernard Edwardsの命日。
そして今日から4日間、ブルーノート東京で8つのショウをNile Rodgersが行う。

Nile Rodgers "Le Freak" part.1 http://blog.goo.ne.jp/ak-tebf/d/20111207

Nile Rodgers "Le Freak" part.2 http://blog.goo.ne.jp/ak-tebf/d/20120306

Nile Rodgers "Le Freak" part.3 http://blog.goo.ne.jp/ak-tebf/d/20120417


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