進化する魂

フリートーク
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原発事故の背景にあった責任の空白化

2011-04-11 15:01:23 | 社会
原発事故の件で、ある工学者の無念に目がとまった。

「今回の事故で本当に悔しいのは、技術的難易度が高くコストがかかる部分では問題を乗り越えたのに、比して低コストで対処できる部分で躓いたことだ。ある些細な要素に気が止まらなかったためにシステム全体の信頼が再起不能なほどに著しく傷ついた。悔しくてならない。」

原子力関係者の本音かもしれない。

原子力工学の専門家が当初から楽観論を支持した背景には、原子力を擁護したかったのではなく"信じたくなかった"ことがある。自分の半生をかけてきた専門的な難問に比して、今回の事故があまりに簡単な要因によって左右されていて、それが自分の過去全てを無にするような状況を認めたくなかった。自己否定から逃げたかったのだ。

しかし、人生や世の中には他の全てがうまくいっていても、たった一つのボタンの掛け違いで崩れていくものが多々ある。クリティカル・ポイントだ。これはどんなシステムでも人間関係でも同じ。そしてクリティカル・ポイントを原因として崩れたものを、他の要素による努力で取り戻すことは難しい。 あがくだけアリ地獄のように深みにはまるだけだ。かくして原発も私も堕ちるところまで堕ちていく。

念のため書いておく。システム論的に捉えれば、今回問題として考えるべきことは「原子炉の安全性」ではなく「原発システムの安全性」である。原発全体に責任を持つ者は後者の観点で安全性を担保すべきであった。そうすればリスク要因の違った姿が見えていたはずだ。だが、実際はそうならなかった。

なぜなら、原発は政治的リスクと深く関わっていたからだ。一担当者が最終的な責任を負うことができる問題ではなかった。この権限と責任とのアンバランスさが最終責任者の不在を招き、結果的に原発システムの安全性への無責任という形で今回の事故と繋がった。

責任と責任との間から零れ落ちる部分で問題は発生する。日本人は、責任の空白化を生み出した原因を考えなければならない。私が思うに、前から述べるようにエネルギー政策に関する問題は安全保障に見られる構図と同じであり、それは大東亜戦争時に見られた構図とも同じである。