捨てる勇気(池田信夫)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51695544.html
佐賀県武雄市の「被災犬受け入れ計画」について孫正義氏のつぶやきに私が「行方不明がまだ1万人以上いるのに、犬の心配してる場合じゃないでしょ」とコメントしたら、驚くほど多くの反発がきた。これは市が公共施設に犬を収容するのではなくNPOの支援を斡旋するという話らしいので、私のコメントにも誤解があったが、考えさせられたのは反論の多くが「人命も犬の命も同じだ」と怒っていたことだ。
その通りである。犬の命も猫の命も、牛の命も豚の命も同じだ。ではなぜ「牛を殺すのはかわいそうだ」という話にならないのだろうか。いうまでもなく、牛は殺すために飼われているからだ。デリダも指摘するように、犬をかわいがって牛を殺すのは、西洋の自民族中心主義にすぎない。インドでは許されない。
まだ行方不明が15000人以上いるということは、救援・捜索活動の手が足りていないということだ。被災地でもペットを施設に収容する話が美談として伝えられているが、ペットを救う余裕があるなら一人でも多くの人間を救うのが先であり、野犬化する犬は処分すべきだ。行政がその優先順位を混乱させるような指示を出してはいけない。
ある自治体が被災地のペットを受け入れる(NPOへの斡旋)計画を表明したことを発端とした「人とペット」の議論が混乱しているようなので、交通整理をしておきましょう。この問題は人とペットの命を天秤にかける話ではなく「人の命」の問題なのです。
私は、総論として「犬よりも人命が大事」「優先順位が間違っている」という批判は正しいと思います。しかし、総論として正しくても各論として正しいとは限りません。どういうことか説明します。
まず、今回の震災対応に関する全体方針として「人命救助を最優先にする」これはブレていません。時期によっても変わってきますが、短期的には「救助」→「支援」→「復興」でしょう。これと同時並行して中長期の戦略を練ることも重要です。
では、短期的に「人命救助を最優先」したとして、我々のやるべき行動とは何でしょうか?これは人によって変わります。たとえば、自衛隊、警察、消防、中央官庁、東電、自治体(被災地)、自治体(非被災地)、被災地の人々、etc...いろいろあるでしょうが、皆やれることが異なります。
つまり、人命救助が最優先だったとしても、皆が救助作業に携わるわけではありません。それぞれの分野でやれることを最大限やるべきなのです。その観点からして、被災地ではない地方自治体にできることは何かを考えましょう。
「物資・経済的支援」や「被災者の受け入れ」がそれに相当するでしょう。しかし、被災者の受け入れ1つ取ってみても、1地方自治体が受け入れ可能な数は限られています。ただ、人を受け入れること意外にも可能なことがあるかもしれません。たとえば移住環境の向上、仕事の斡旋、ペットの受け入れなどです。
「ペットを受け入れる余力があればその資源を人に回せ」という意見もわかります。日本全体でも全ての被災者の受け入れ先を確保することができていないのであれば、全くもってその通りです。ですが、おそらくそうはならず、受け入れ先の確保は可能と思います。
であれば、衣食住の確保とともに、精神的苦痛を和らげる対策を練るのが必然的な流れでしょう。もちろんその原資が税金ということになれば税負担者の理解が必要です。
そして、私が考える最大のメリットを説明します。それは、被災者の精神的ケアにかかるコストを削減できるというメリットもあります。精神的衰弱を防ぎ、医療的資源や医療費を削減するとともに、行政と被災者の信頼の構築に役立ちます。非常事態には規律が何よりも重要です。
今生きている命を救うことも人命救助のひとつ。
生きているかもしれない可能性の低い命よりも、今生きている命は救える可能性が高いし、これからの命も救える可能性があります。どちらが全体最適なのかはよく考えてみる必要があります。
「この問題は人とペットの命を天秤にかける話ではなく「人の命」の問題なのです。」 冷徹なほど合理的に考えた結果がペット保護なら私は支持したいと思います。
どうも、ペット保護を訴える側は感情論が多いような印象がありますが。
参考:
改めて思ったが、この国には「命」についての議論が致命的に欠けている。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51695544.html
佐賀県武雄市の「被災犬受け入れ計画」について孫正義氏のつぶやきに私が「行方不明がまだ1万人以上いるのに、犬の心配してる場合じゃないでしょ」とコメントしたら、驚くほど多くの反発がきた。これは市が公共施設に犬を収容するのではなくNPOの支援を斡旋するという話らしいので、私のコメントにも誤解があったが、考えさせられたのは反論の多くが「人命も犬の命も同じだ」と怒っていたことだ。
その通りである。犬の命も猫の命も、牛の命も豚の命も同じだ。ではなぜ「牛を殺すのはかわいそうだ」という話にならないのだろうか。いうまでもなく、牛は殺すために飼われているからだ。デリダも指摘するように、犬をかわいがって牛を殺すのは、西洋の自民族中心主義にすぎない。インドでは許されない。
まだ行方不明が15000人以上いるということは、救援・捜索活動の手が足りていないということだ。被災地でもペットを施設に収容する話が美談として伝えられているが、ペットを救う余裕があるなら一人でも多くの人間を救うのが先であり、野犬化する犬は処分すべきだ。行政がその優先順位を混乱させるような指示を出してはいけない。
ある自治体が被災地のペットを受け入れる(NPOへの斡旋)計画を表明したことを発端とした「人とペット」の議論が混乱しているようなので、交通整理をしておきましょう。この問題は人とペットの命を天秤にかける話ではなく「人の命」の問題なのです。
私は、総論として「犬よりも人命が大事」「優先順位が間違っている」という批判は正しいと思います。しかし、総論として正しくても各論として正しいとは限りません。どういうことか説明します。
まず、今回の震災対応に関する全体方針として「人命救助を最優先にする」これはブレていません。時期によっても変わってきますが、短期的には「救助」→「支援」→「復興」でしょう。これと同時並行して中長期の戦略を練ることも重要です。
では、短期的に「人命救助を最優先」したとして、我々のやるべき行動とは何でしょうか?これは人によって変わります。たとえば、自衛隊、警察、消防、中央官庁、東電、自治体(被災地)、自治体(非被災地)、被災地の人々、etc...いろいろあるでしょうが、皆やれることが異なります。
つまり、人命救助が最優先だったとしても、皆が救助作業に携わるわけではありません。それぞれの分野でやれることを最大限やるべきなのです。その観点からして、被災地ではない地方自治体にできることは何かを考えましょう。
「物資・経済的支援」や「被災者の受け入れ」がそれに相当するでしょう。しかし、被災者の受け入れ1つ取ってみても、1地方自治体が受け入れ可能な数は限られています。ただ、人を受け入れること意外にも可能なことがあるかもしれません。たとえば移住環境の向上、仕事の斡旋、ペットの受け入れなどです。
「ペットを受け入れる余力があればその資源を人に回せ」という意見もわかります。日本全体でも全ての被災者の受け入れ先を確保することができていないのであれば、全くもってその通りです。ですが、おそらくそうはならず、受け入れ先の確保は可能と思います。
であれば、衣食住の確保とともに、精神的苦痛を和らげる対策を練るのが必然的な流れでしょう。もちろんその原資が税金ということになれば税負担者の理解が必要です。
そして、私が考える最大のメリットを説明します。それは、被災者の精神的ケアにかかるコストを削減できるというメリットもあります。精神的衰弱を防ぎ、医療的資源や医療費を削減するとともに、行政と被災者の信頼の構築に役立ちます。非常事態には規律が何よりも重要です。
今生きている命を救うことも人命救助のひとつ。
生きているかもしれない可能性の低い命よりも、今生きている命は救える可能性が高いし、これからの命も救える可能性があります。どちらが全体最適なのかはよく考えてみる必要があります。
「この問題は人とペットの命を天秤にかける話ではなく「人の命」の問題なのです。」 冷徹なほど合理的に考えた結果がペット保護なら私は支持したいと思います。
どうも、ペット保護を訴える側は感情論が多いような印象がありますが。
参考:
改めて思ったが、この国には「命」についての議論が致命的に欠けている。