一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

猫が手をなめていた

2008年04月07日 | Weblog
 猫が手をなめていた。私はそれを見ていて、猫は自分の体をこの部分は手でこの部分は頭でこの部分は腹だと区切ってみてないなあ、とふと思いました。昨日は腹をなめたから今日は足をなめようなどとは考えていないようです。

 では人間のように区切ってみるのと猫のように区切らないでみるのとでは何がちがうのかなと疑問がわきました。

 手とか足とかで区切ってとらえることは概念です。概念でとらえようとすると各々名称をつけておかないと考えることができません。猫が手をなめているとき、手とか足とか区別してないということは、概念モードではなく‘非思量’(考えることではない)モードです。目の前の世界を区切られない全体としてとらえています。非思量モードの‘行為’においては全体を一目にみればいいのです。各々区切ってとらえる必要がないからです。目の前の世界は区切られてません。

 「正法眼蔵 坐禅箴」に次のように書かれています。

 「薬山弘道大師座スル次デ、有ル僧問ウ、儿儿(ごつごつ)地什麼(ナニ)ヲカ思量ス、師云ク、箇ノ不思量底ヲ思量ス。僧曰ク、不思量底如何ンガ思量セン。師伝ク、思量ニ非ズ。」
 (薬山弘道大師が坐禅をしていた時、ある僧が問うた。『じっと動かずに何をお考えですか。』と。これに対し薬山弘道大師が考えて言う。『例の考えないという境地を考えているのさ。』と。僧言う。『考えないという境地はどのようにして考えるのですか。』と。大師言う。『考えることではない(非思量)。』)(注1)

 この「考えることではない」と言う表現、すなわち「非思量」という表現が古来坐禅の本質を表すきわめて重要な用語として、『正法眼蔵』の中でもしばしば語られている。(注2)この「非思量」は『考えない』ことではなく、『考えることではない』のです。『考えるとか考えない』を超越した‘世界’です。

 猫をみていると、区切らないで全体を直観でとらえる、宇宙の全景を一目に見ているようにみえます。手とか腹とか頭とか区切ってない。自分と自分以外と区切ってない。‘非思量’モードにいます。

 私は区切ることで全体が消えてしまうと思います。全体さへ見えていれば、‘非思量モード’にさへいれば、なにかなめたいところなめてるとなるのです。猫は手をなめながら手をみているのではなく一目に宇宙全体をみています。全体をみれば手はかってにみえてくるのです。それと同じように人間も自分が自分がと、区切ってみていては自分が何をしていいかもわからないのではないでしょうか。全体さへ見ていれば自分は勝手にみえてくるのではないでしょうか。 
 
注1:西嶋和夫「現代語訳正法眼蔵 第五巻」金沢文庫 3~4頁
注2:西嶋和夫「仏教 第三の世界観 六版」金沢文庫 188頁 

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