一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

ちからに焦点のこころ

2016年10月10日 | Weblog
 私がこころを間違って捉えていたことに最近気がつきました。前までは、こころというのはそのシチュエーションでわいてきて、そのシチュエーションがなくなれば消えてしまうものだと思ってました。たとえば、怒るのも、何か私を怒らせるものがあるから怒るのであって、その怒らせるものがなくなれば、怒りは消えるのだと。

 でも、こころがちからだとするとちからはシチュエーションが変わっても消えないのではないかと詮索し始めました。津波のようにちからをもって押し寄せてくるものをぱっと消すことはできません。ちからはどこまでも流れていきます。こぶしで誰かを殴ろうとしているちからを途中でパッと消すことはできません。

 私は、そこのところを見落としていたことに気がついたのです。先日20年ぶりくらいに会った人が私がすぐそこにいるのに気がつかないのです。そして、「前は、ふっくらした可愛いお嬢さんだったのに。」と、しきりにいうのです。それって、今は、やせこけたばあさんになったということを言いたいようで、ものすごく落ち込みました。言葉だけの世界だったら、20年もたっているのだから仕方ないな、と笑ってすませられるところでしょうけど、実際には一ヶ月くらいは気が落ち込んで仕方ありませんでした。

 これって、だいぶ前から年を取りたくないというこころがあって、それが少しずつこころのなかに溜まっていたちからがあって、それが、上のシチュエーションでワーッと吹き出してきたのではないかと思うのです。上のシチュエーションもまた、こころのなかに溜まって、将来また似たようなシチュエーションのときもっと大きなちからになって吹き出すのではないかな。

 ちからは消えないと捉えると、ちからをもつこころに私が耐えられるかどうか不安になります。今までのようにちからをもつこころをなめてはいられないな、と感じ始めています。

   

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