一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

般若心経(不増不減)

2008年10月16日 | Weblog
 うちの猫はどこかに行きたいというときに、閉じこめられて出られないときは気が狂ったように出たがります。何時間でも鳴き続け、最後は私が根負けします。猫は他者には服従しないとか、自分の意思に反することなんか絶対しないと言われていますが、私ははっきりとなぜそうなのか、納得いきませんでした。

 でも最近、養老孟氏の言葉、「『「入力』はすべて知覚、つまり五感からです。『出力』は筋肉だけなんです。」をみつけて、これかなと思いました。

 違う部屋で缶詰をあける音でもしたら、筋肉をつかって走ってくるのが猫にとっては自然なのです。それが、途中で中断されてしまうということは、猫にとってはおさまりがつかず、とにかく筋肉をつかって部屋から出られる方法を探っているわけです。

 「『「入力』はすべて知覚、つまり五感からです。『出力』は筋肉だけなんです。」の言葉は私にとってもこれかな、とピンときました。

 風呂に入ったあと、石けんがあちこち飛び散っていたり毛が落ちているのが目に入ります。そうすると他にやってくれる人がいればいいのですが、自分しかやる人がいないと風呂掃除をしなくてはとなって、毎日風呂掃除をするわけです。いつもいやいややるのですが、ところが風呂掃除をしたあとは実に爽快なのです。どんなに心配ごとがあっても、風呂掃除をしたあとはしゃっきりするのです。そして次ぎの仕事をする気になります。

 自分の目にうつってなんかきれいにしないと気持わるいなって思ったものは、自分が手を動かしてやるのがやった後が一番気持がさわやかです。今までお金があればお手伝いさんがいて家事をやってもらって、自分は好きな事をし放題したいと夢見ていましたが、どうもそうではないようです。

 生き甲斐をもちましょう、とよく聞きますが、これが私の生き甲斐だなんて自分に思い込ませようとした瞬間になにか不安になります。この世の中が流れという仏教的なとらえかたをすれば(法はさんずいに去ると書きます。水が去る、流れていくということです。「色」(物質的現象として存在するもの)は流れです。)、言葉でとらえた瞬間に、とらえたものはもう流れ去っています。だから生き甲斐なんていう言葉で自分を納得させようとしても目の前の世界は不安がなくなるような世界ではないのです。

 自分の目にうつって(五感が知覚して)こうしないと気持わるいなって思ったものを、自分の手を動かしてやるのが、私にとっては猫同様一番不安が残りません。

 「不増不減」は目の前の世界を言葉でつかまえて納得させようとした瞬間、法に反する余計なものを増やしてしまう、増やしてしまった分本当のものを逃してしまうということも含まれているように思います。

 

 

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。