アメリカ、コーストガードの航空機に
写真を撮られた次の日「帰航命令」が届いた!
アメリカ、ロシア(当時ソ連)双方が定める
ライン(海上の国境)の領海侵犯との事で!
たしかにラインぎりぎりでの操業でしたが
船上のGPSではラインを超えていない!
しかし、日本の外務省、水産庁、を通じて船主に連絡が入り
「帰航命令」が船に届いたかぎり、帰らなければならず
同じく帰航命令が届いた僚船数隻と帰航する事になった。
それにしてもアメリカ、ロシアが領海を主張する
海上のラインはいまだに疑問です。
どう考えても日本の領海と主張できそうな海区も
他国の海となっている(太平洋戦争敗戦のツケで)
当時の鮭鱒漁船は、たしかに海区違反は相当あった。
ソ連の軍艦から威嚇砲撃を受けたり、拿捕されたり と
そういう事が多かったが、必ずしも日本の漁船が
全面的に違反していた訳ではなく、当時のソ連監視船の
GPSの精度不明良による位置の誤差や、言葉が通じず
ピストルを普通に所持している軍艦の兵士達のいいがかりで
強制的に拿捕、連行されていた事も事実です。
あの頃から比べると、ロシアの監視船のGPSも優秀になり
日本語を訳す方もいて、今では格段に進歩しています。
「帰航命令」が届いた数隻が根室の花咲港に接岸すると
水産庁からの取調べがあったが、どういう内容だったかは
我々は知る事がなかった、しかし20日間の出漁禁止という
ペナルティが課され、「鮭鱒漁」を切り揚げて、次の「イカ流し漁」に
出漁するまで待機する事になった。
鮭鱒漁を無事に終えた船が「イカ流し漁」に次々と
出港して行く中、我々はじっと待機しているしかなかった。
出漁禁止の数隻の船には故郷が同じ先輩達も数人いて
互いに励まし合いながら根室での日々を過ごした。
初めての「独航船での鮭鱒漁」はほろ苦い経験でしたが
操業に関しては通用すると、自負したし
その後の船員生活への大きな自信につながった!
この船で共に働いた「函館衆の○○」とは
函館⇔宮城を行き来する大切な友達となり
今でも交流が続いています。