明日晴れたら、、、

今日は雨だから、ゆっくり過ごそう。
明日晴れたら、、、ちょっとだけ頑張るかなぁ。

愛を浴びて僕がいる

2015年03月16日 | 母の話








日曜日、長女とライブへ行きました。

半年前から、約束していた長女とのライブ。
喪中ですが、長女が私と行くことを楽しみにしてくれていたので、行くことに決めました。

C&K、二人組の男性デュオです。

特養へ行く道すがら、よく聞いていたコブクロとC&Kが、私を何度も励ましてくれました。


この歌が始まり、久しぶりに泣きました。
長女も、涙を拭っていました。
そこにいた、沢山の方が、泣いていました。




愛を浴びて僕がいる


歌:C&K
作詞:CLIEVY/KEEN
作曲:CLIEVY/KEEN/栗本修



病室からの帰り道は
涙を隠して街に紛れ込む
じぃじ、ばぁばと泣きわめいて
だだこねてる子供の姿は
幼き日の僕だった

困った顔してでも
嬉しそうに手をひいて
僕もきっとあの子のように
愛で包まれていたのだろう

浴びて、愛を浴びて
僕はここに立っていられるんだろう
I'll be there 会える日まで
この命をかけぬけてゆくから

ごめんね今なら素直に言える
馬鹿だなもどかしさを当て付けて

じじい、ばばあと吐き捨てて
寡黙な愛に背を向けて
星のタバコに火をつけた

じんわり響いてゆく
痛みぬくもり伝わる頬
あの日の記憶が
今の僕の行く道を示してく

浴びて、愛を浴びて
僕はここに立っていられるんだろう
I'll be there 会える日まで
この命をかけぬけてゆくから

星になった今もなお
遠くから僕を見てくれている
会えない時間や距離に
僕等試されている
がんばれと笑ってるんだろう

浴びて、愛を浴びて
僕はここに立っていられるんだろう
I'll be there 会える日まで
この命をかけぬけてゆくから

浴びて、愛を浴びて
僕はここに立っていられるんだろう
I'll be there 会える日まで
そこから見てて欲しい








10年前、母が病に伏した時、長女は反抗期真っ盛り。
心の中で、祖母に対して、黒い想いを持ってしまったことがあったようです。

長女は今だに、その時の自分を悔いているようです。
ほんの少し前、そのことを泣きながら私に教えてくれた長女した。

大人になった長女は、傷ついて、悲しんで、悔いていました。


そんなこと、おばぁちゃんは何とも思ってない。
世界中で一番愛しているかもしれない長女のこと、何があっても。
私がそう伝えると、笑い泣きになりました。

母は常々、自分にとって一番の幸せな日は、私が長女を生んだ日だと言っていましたから。



私が働いていたこともあって、祖母である母は、長女には近すぎる程の存在だった思います。

思春期の反抗期、中学生対祖母。
そんなこと、当たり前。

でも、長女にとっては、大人になって泣く程の後悔だったようです。

でも、母にとって、長女は唯一無二の、初めての孫。
多分、私が母にしてあげた、最高の親孝行だったと思います。

長女にとっても、掛け替えのない祖母だったと思います。


友達との京都旅行を、母が肺炎で入院してすぐキャンセルしていた長女です。
行っておいでと言ったのに、やめてしまった長女。
何ヶ月も前から、楽しみにしていたのに。

結果的には、母の告別式の日が出発日だったので、良かったと言えば良かったのですが。

旅行の為に前後数日、遅い冬休みの連休を取っていたので、一日だけ出勤したものの、長女は母が入院して亡くなる前日まで、母の側にいてくれました。

アパレルの店長をしている長女は、年末年始が無く、やっと今頃の正月休みでした。
おばぁちゃん子の長女、思い残す事なく、母の側にいたようです。

亡くなる前日には、スマホで母の好きな美空ひばりさんの動画を母に見せてくれていました。

川の流れのように、、、でした。


母にとって、息が出来ない程の苦しみの中で、最後の幸せな時間だったと思います。


母が亡くなって、もうすぐ一ヶ月です。

もう、春一番が吹いている地方もあるようですね。
私の箱庭にも、春が来始めています。






御近所の木蓮も、開き始めました。

特養の庭の木蓮も、もうすぐ花が咲く頃でしょうか?
今年は、昼ご飯を食べながら、母と見られると思っていましたが、、、
残念ながら叶いませんでした。

母の代わりに、、、どうか、あの場所で木蓮を見ながら皆んなで食事が出来ますように。
どうぞ、自ら外に出れない人に、景色を空を、季節を感じさせてあげて下さい。



今まで沢山の方に、励まして頂きました。
長いような、短いような、私と母との日々。
頑張れ!!でした。

父の在宅介護は続きますが、このブログは卒業しようと思います。



長い間、本当に、ありがとうございました。

皆様に、沢山の愛が、幸せが注ぎますように。


また、何処かで(*^^*)



スーさん、今年も咲きましたよ(*^^*)

波乗り?

2015年03月13日 | 母の話
昨夜は、波の下に入ってしまいましたが、今朝はまた、上手く波に乗って、私に戻っています。

まだ、波乗りは下手ですが、そのうち上手くなるでしょう。

大丈夫。

親は先に逝くものだから。


忘れていましたが、、、

母の肺炎の種類は、細菌性肺炎でした。

誤嚥もあっとは思いますが、死亡診断書には、そう記されていました。


カルテの開示を考えました。

父にもその話をしましたが、答えは出ていません。



あまりにも激しくなった父の物忘れ。
まだ、歳相応なのか、わからないけれど、訪問看護師さんは、こう言います。

いまの父の気持ちの状態なら、仕方ないかもね。
もう少し様子を見よう。
慌てて医者に行っても、逆に自分が認知症かもしれないことに、悩みそうだからと。


父は85歳です。
もう、あまり負担をかけたくないし。

昨日は、通帳が無いと、二人で探しまくり。
結局、ちゃんと元の場所にあり、大笑い。
そんな、もんです。


少し、私も疲れています。
今朝、鼻を噛んだら、また鼻血。

母が亡くなって、二度目です。

泣き過ぎ?
まさかね。


さ、良い天気です。

主婦を頑張らねばね。


箱庭のクリスマスローズが、綺麗です。



悲しい

2015年03月12日 | 母の話
今日は、母の脳外科の主治医に、挨拶に行って来ました。

今日が、一ヶ月に一度の、母の受診日だったからです。



前以て、母が亡くなった事と、ご挨拶をしたい由を、病院へ電話しておきました。

電話口に出た受付の女性は、いつもなんだか不機嫌な人でした。
その日も、名前を告げると、途端に不機嫌な声。
何故でしょうか?
私の事を、嫌っているのかなぁ、、、と、いつもそんな感じでした。
けれど、母の死を告げると、今までの不機嫌な感じが消え、予約時間にいらしてくださいと、言ってくれました。


病院に着いて、受け付けには、その女性。
もう、いない母の診察券で、順番を取りました。
カウンターの後ろに回り、今までのお礼と共に、ささやかな手土産を渡しました。


程なく、母の名前が呼ばれました。

既に、母の死をご存知の看護師さんが、座って待っている私に気づき、おそらく、カルテを先に置いてくださったんだと思います。


先生も、母が亡くなった話を聞いていたようでした。

救急車に運ばれたのが、前回の受診の、三日後だったこと。
前日に、昼ご飯の介助をした時に、飲み込みが悪かったこと。

運ばれた先が、車で一時間弱の、津久井だったこと。
次の日には、地元の、特養の提携病院に、また一時間掛けて転院したこと。

六日間、頑張ってくれたこと、死に目には会えなかったこと、、、などを話しました。

最初に運ばれた病院で撮った、CTのコピーを見て頂きました。


肺の片側が、既に機能していなかっただろうね。
肺に水も溜まっているね。
多分、呼吸器が無かったら、自力で息は吸えていなかったかもしれないね。

呼吸が出来ないのは、苦しかったろうね、、、と、改めて言われ、、、やっと、あの時の状態がわかりました。





私は、何もわかっていなかった。


確かに、同じ事を言われていたのに。


そんなにも悪いことを、わからなかったんです。


何故なんだろう。

今なら、わかるのに。


母は、六日間、私が思っていたより、ずっと悪かったのに。

あの時、医師に同じ事を言われていたのに、私は大丈夫な気がして、母を置いて帰ってきてしまいました。

母のそばにいる事が、辛かったからです。
逃げてしまいました。

特養に母をお願いした時と同じ。

結局、逃げてしまいました。


違う。

違わない。

違う。

叔父が、同じような肺炎になった時があって、今は元気にしているから、きっと母もそうなるだろうと、勝手に思っていた。
退院するときは、胃瘻になるんですかね、、、なんて、医師に聞いていた私です。

今なら、帰ったり、しないのに。

死んでしまうと知っていたら、帰ったりしなかったのに。

違う。

確かに、覚悟をしてたはず。


10年間、お世話になった医師。
いつも優しくて、穏やかな先生。
母の頭の中の動脈瘤に、コイルを入れるカテーテル手術をした先生。
術中に、脳梗塞になり、脳圧が上がり、頭蓋骨の一部を、切り外した先生。

きちんとお礼をして、帰宅しました。



母は、10年前に死なず、10年後に死んだだけ。


誰に生かされたんだろう。

家族に?
自分の生きる力に?

母は、幸せだったのかなぁ。

まだ、生きたかったのかなぁ。

母が亡くなったことが、まだ現実じゃないような気がして、それでいいと思ってました。

毎日、アレコレやらなきゃいけないことに忙しくて、普通に笑って過ごしながら、母がもういない事に気づいては泣いています。

困ります。

もう、骨になってしまった母だから、何をどう考えても、仕方ないって諦めて、前を向いて、私は私で生きていますが、やはりまだ、涙か勝手に出てきます。

父も、多分、そんなで、必死に生きてる感じです。
笑いながら、泣いているんでしょうか。
たまに固まります。


ちゃんと泣いてないとか、現実から逃げてるとかじゃ、ありません。

今日はまた、悲しみが押し寄せて、ブログを開きました。


わけわからない文章ですね。


母は、もう生きてはいない。
それが、現実です。

今更後悔しても、仕方ないし、、、後悔することは、わかってました。


ちゃんと、わかっています。
ただ、今日は、改めて、苦しかったろうねと、思いがそこで止まってしまって、どうしょうもなくて。


大丈夫。
書いていたら、少し落ち着いてきました。

写真の笑っている母が、大丈夫って言ってくれたならいいのにな。

私には、まだ死んでから一度も会いに来てくれません。


あれ?
そんなん、可笑しいですね。


やっぱり、すごく寂しい。
悲しい。
辛いなぁ。












春待ち

2015年03月08日 | 母の話


スミレがもう咲き出しました。
母の好きな、赤紫。
これから我が家の箱庭には、薄紫のスミレと、勿忘草が山程咲きます。
あちこちの鉢に、かなり準備万端の様子
です。


三寒四温の季節になりました。

もうすぐ、ホントの春になりますね。





クリスマスローズが、いつの間にか咲いていました。
この時期の花なのかなぁ?
名前からすると、妙な感じ。










可愛らしい鉢植えを、買いました。
私の好きな小さな青紫の花。
それから、薔薇の苗木。

チューリップを植え忘れていたから、ホームセンターに行ったのだけど、もうありませんでした。
既に蕾の鉢植えはありましたが、今年はもう、やめました。

その代わりの、薔薇の苗木。

いつもなら、また増やすの?って、嫌な顔をする旦那が、何故か黙っていました。

薔薇の苗木は、かなり高かったんだけど、たった一本残っていた、薄紫の薔薇の苗木。
今年だから、旦那も見ないふりをしてくれたみたいです。











桜草が咲いています。
去年の、こぼれ種から。

芽が出始めました。
何が出てくるんだろ?



今日、父が久しぶりにディサービスに行きました。
いつもなら、母に会いに、直ぐに特養のある二階に上がるはず。
でも、もう、それもなく。
寂しかったかな?


夕方、元気に帰宅した父でした。
大丈夫!

ですが、、、
物忘れが半端なく、、、
年相応だと、少し思えなくなってきました。
検査をうけるべきか、真剣に考えなくては、、、。


母の亡くなったことでのアレコレを、一人駆け回り。
必要な書類のありかを、父が忘れ、最早思い出せず、、、再発行。
委任状、なんやかや、、、頭がクラクラします。

思った以上に面倒で、泣いてる暇はありません。

納骨式の予約をしたものの、、、
お墓の権利証まで行方知らず、、、
再発行。

やはり、親が元気なうちに、頭がしっかりしているうちに、全て知っておくべきでした。


縁起でもない、、、
なんて、それは、ダメでした。

介護はまだまだ続きます(^◇^;)









特養の皆様へ

2015年03月04日 | 母の話
日曜日、特養へ荷物の引き取りに行ってきました。

思っていたより沢山、母の服がありました。
まだ手を通していない、誕生日プレゼントのセーターも。

食堂の、隅に置かれたダンボール中。
納められていた母の服は、きちんと綺麗に畳んでありました。
とても嬉しいことでした。

きっと、母の服を畳みながら、ワーカーさんは、母のことを思い出して下さったのだろうか、、、
そんな風に、思えました。

退院して、またこの特養に戻ってこれたら良かったけれど、、、

家なら、尚更良かったけれど、、、

もう、洋服に手を通す、母の身体はありません。
だから、大半の母の服や、クッション、ポータブルトイレは置いてきました。

多分、風になっているかしら?
千の風、母が好きな歌だったこと、ふと、思い出しました。


今、骨になってしまった母が、やっと私のよく知っている母に戻り、帰ってきたような、、、そんな不思議な感覚がしています。
だから、泣いてはいません。

父と、毎日のように口喧嘩しながら、やらなくてはいけないアレコレを片ずけています。
涙が枯れてしまったのか、、
なるべく涙の元になりそうなものは、避けて見ないように、聞かないようにしているのも、否めませんが、今は泣く必要が、きっと無いような気もします。

多分、これから、何かにつけて、きっと寂しくなるのでしょうね。

特養へも、もう自転車走らせて、行く事もない。

もうすぐ、特養の前の畑は、菜の花で一杯になるのでしょう。
夏には、一面の向日葵。

母の車椅子を押しながら、お散歩する事も、もうないのだなぁ。
せっかく春になるのに、とても寂しい気がします。


部屋で、爪を切ったり、母の顔を拭いて、化粧水を塗ることもないのだなぁ。

ワーカーさんに、小姑のような事を、言うことも無いのだな。

モップを貸してくれ!
顔を拭いてくれ!
耳かきを、してくれ!

とか、ね。



母の部屋は、四人部屋でした。
かなり年季の入った特養です。
今時の、ユニット式の個室では、ありません。

クロゼットの引き出しの取っ手が取れていたり、何度か付け直して頂きましたが、やっぱり取れてしまいました。

時に、ベッドの下に綿埃。

特養は、我が家ではないけれど、病院でもありません。
なるべく、綺麗な場所に母にはいて欲しいし、母も綺麗でいて欲しい。

それが、私の願いでした。

週に二回は、特養に行くようにしていたけれど、昼ご飯介助を入れて二時間弱。
あとは、特養のワーカーさんに母を任せきりでした。

最小限の人数で、沢山の利用者さんのお世話をしているワーカーさんに、無理も
文句も沢山言ってしまいましたが、どなたも快く、聞いて、直ぐに実行に移してくださいました。

だから、ホントに、心から感謝もしています。

胸の奥にあった、黒い物も、、、
最後に聞いて貰ったし。

どうか、出来たら、私の黒い思いも真実だから、心に留めて頂ければと、思っています。


両親のダブル介護に加えて、自分の病気も発覚し、潰れそうだった私を救ってくれたのが、特養や、ディや、ショートの相談員さんだったことは、忘れません。


ワーカーさんや、看護士さん、私が母に会いに行く度に、私の愚痴やら、体調のことを聞いてくださいました。

正直、特養は、私にとっては、要介護者の父と向き合って暮らす日常生活の、逃げ場でもありました。

もちろん、目的は母に会いに行く事です。
でも、母は、あまり話さない、、、いえ、話してくれますが、理解してあげられない言葉も多かったので、つい、ワーカーさんと話し込んでしまう私でした。

兄弟姉妹のいない私は、ホントにワーカーさんに会って話す事、楽しい時間でした。



母に、私に、いつも暖かかったパートさん達。
Oさん、久美子さん!と呼んでくれるのが、とても嬉しかったです。

Iさん、娘みたいに可愛くて、沢山お喋りしてくれて、ありがとう。

荷物を引き取りに行った時、会えなかったけど、本当にありがとうございました。
二人が母のブースにいる日は、なんだかとても嬉しかったな。

Mさんとは最後に会えて、ホントに良かったぁ。
母に沢山話しかけてくれて、ありがとうございました。

Mさん、Eさん、移動になったのに、会いに来てくれて、ありがとうございました。
Mさん、いろんな勉強、頑張って下さいね。
母が褥瘡出来た時に、いろんなこと教えて下さってありがとうございました。
Eさん、いつも一生懸命な貴女、私は大好きです。
コブクロ繋がりも、嬉しかったです。
いつかライブで、会えたら良いな。
母のブースから二人が離れちゃった時は、ホントに残念で、ガッカリだったけど、建物の中にいてくれてるだけで、心強かったです。


母が妹だと思ってたNさん、長いことありがとうございました。母がショートを使っていた時から、お世話になりました。母が当たったりしたこと、ごめんなさいね。

母の担当をしてくださったIさん、母に一生懸命を下さって、ありがとうございました。いろんなこと考えて下さって、嬉しかったです。
私の小言、ごめんなさいね。

Tさん、Cさん、短いお付き合いでしたが、ありがとうございました。
父の電話の取り次ぎ、ご迷惑をおかけしました。ありがとうございました。

母が亡くなったことを、涙してくれたHさん、私は貴女が、ホントに大好きでした。
私は貴女に会いたくて、特養に行っていたかもです。
Hさん、これからもチーフ、頑張って下さいね。
くれぐれも、身体に気をつけて下さいね。


私や、父を支えてくださった、特養の心ある方達に、深く感謝しています。
本当に、ありがとうございました。

そして、利用者さんのみならず、どうかこれからも、家族の力になってください。


最後に、このブログを読んでくださっているという、Hさん。
皆さんに、どうか伝えて下さいね。

私の拙いブログを読んで下さったこと、忘れません。
病院の帰り、母を父に会わせるために、家に寄ってくださったことも、忘れません。
ささやかなこの人生、、、また、桜が散る頃、一度だけ母と私を思い出してくださいね。


老舗と言われている、母のいたちょっとボロい特養。ごめんなさい~
私が此処を選んだのは、ワーカーさん達がいたからです。

優しい心と気持ちを、ありがとうございました。

私も、また、頑張って生きていきますよ。

母に関わっては下さった皆さん、心から、ありがとうございました。

旅立ってしまいました。

2015年03月04日 | 母の話
母が亡くなって、お通夜、告別式、初七日が過ぎました。

母は、10年前の母に戻って、自宅に帰ってきました。

遺影の母を見て、なんだか、そう思ってしまいました。

孫である私の娘も、告別式の日
「おばぁちゃんが、二人いるみたいだ」遺影と、棺の中の母を見ながら、そう言っていました。

写真の母は、ふっくらとして、頭の傷もない、60代の母です。
元気に駆け回り、働き者の10年前の母が、写真の中で笑っています。
私の、よく知っている母でした。


この10年、母は必死で生きていました。
笑う時間より、多分、我が身を哀しむ時間の方が、長かったと思います。
いえ、もしかしたら、私が思っているだけで、辛くなんて、無かったのかもしれません。

母は、いつも前を向いて生きていました。
リハビリも、一生懸命だった。
それが、私には、時に切なく、時に誇らしく、考えると、やはり辛くなります。

でも、母にとっても、多分、私にとっても、掛け替えのない10年だと思います。
決して無駄じゃなかったし、一生懸命、頑張った母でした。

母の想いは、多分私にはわからないかもしれません。
あれこれ想いを巡らせても、もう答えは聞けません。


棺に横たわっていた母は、私の知っている母とは、少し違いました。
何故だろう、、、
既に、仏様の様に見えました。

考えると、この数年の母は、私にとって、仏様みたいな気がします。
恨み言も、愚痴も言わず、泣きごとも言いませんでした。

その母の近くにいた私は、いろんな修行をしていたような気もします。
とても辛かったし、厳しかったけれど、きっと母の身を以て、いろいろ教えて貰えた気もします。

もちろん、悲しことばかりじゃないし、楽しいことだって、母にも私にもありました。
特養で、母が笑うと嬉しかった。

死に行く数ヶ月前からは、何故かよく笑う母でもありました。

短期記憶は残らないでしょうけれど、しっかり全てわかっていました。
母の声、今は上手く思い出せないけど、ありがとうを、沢山貰いました。

口の中、舌がうまく動かせなくなっていたので、母の言葉がわからないことが沢山ありました。
もう少し気長に、聞いてあげてれば良かったなぁ。

まだ、後悔とも少し違う、残念さは沢山です。

強く、優しく、、、母はいつも、母でした。
私には、、、そうでした。

父には、早く帰りたいといっていたようです。
やはり、妻だったのでしょう。

喧嘩も沢山していた両親ですが、とても仲が良かったと思います。
沢山の苦労を共にした、絆の固い夫婦だったと思います。
母の遺影の写真を探しながら、沢山の父とのツーショットがありました。
手を繋いだり、腕を組んだりしているわけではありませんが、どの写真もピッタリと寄り添っていました。


父は、特養にいる母に携帯を買いました。
1日3回電話をかけて、母に会えない寂しさを、紛らわしていたのでしょう。
母の手が、上手く動かせなくなって、自分では受話器を持てない母。
ワーカーさんの優しさで、受話器を持って貰ったり、耳に当てて貰っていました。
ワーカーさんが忙しくて、取ってもらえない時は、沈んだり、怒ったり、、、
留守電になってしまう携帯を、哀しく掴んで離せませんでした。
母の声を聞くまでは、夕飯も食べれずにいました。

もう、そんな風に、母の声も聞けない父は、きっと私より淋しいだろな。

おかげさまで、あまり落ち込んでいる姿は見ませんが、この数日で、少し歳をとった気もします。


要介護2の父、物忘れが半端ありません。
難聴だし、足元も危ういし。
まだ、私の修行は続きます。

頑張らなきゃな、、、
とは、思っています。

我武者羅でなく、、、
ユルユルしながら。