明日晴れたら、、、

今日は雨だから、ゆっくり過ごそう。
明日晴れたら、、、ちょっとだけ頑張るかなぁ。

特養の皆様へ

2015年03月04日 | 母の話
日曜日、特養へ荷物の引き取りに行ってきました。

思っていたより沢山、母の服がありました。
まだ手を通していない、誕生日プレゼントのセーターも。

食堂の、隅に置かれたダンボール中。
納められていた母の服は、きちんと綺麗に畳んでありました。
とても嬉しいことでした。

きっと、母の服を畳みながら、ワーカーさんは、母のことを思い出して下さったのだろうか、、、
そんな風に、思えました。

退院して、またこの特養に戻ってこれたら良かったけれど、、、

家なら、尚更良かったけれど、、、

もう、洋服に手を通す、母の身体はありません。
だから、大半の母の服や、クッション、ポータブルトイレは置いてきました。

多分、風になっているかしら?
千の風、母が好きな歌だったこと、ふと、思い出しました。


今、骨になってしまった母が、やっと私のよく知っている母に戻り、帰ってきたような、、、そんな不思議な感覚がしています。
だから、泣いてはいません。

父と、毎日のように口喧嘩しながら、やらなくてはいけないアレコレを片ずけています。
涙が枯れてしまったのか、、
なるべく涙の元になりそうなものは、避けて見ないように、聞かないようにしているのも、否めませんが、今は泣く必要が、きっと無いような気もします。

多分、これから、何かにつけて、きっと寂しくなるのでしょうね。

特養へも、もう自転車走らせて、行く事もない。

もうすぐ、特養の前の畑は、菜の花で一杯になるのでしょう。
夏には、一面の向日葵。

母の車椅子を押しながら、お散歩する事も、もうないのだなぁ。
せっかく春になるのに、とても寂しい気がします。


部屋で、爪を切ったり、母の顔を拭いて、化粧水を塗ることもないのだなぁ。

ワーカーさんに、小姑のような事を、言うことも無いのだな。

モップを貸してくれ!
顔を拭いてくれ!
耳かきを、してくれ!

とか、ね。



母の部屋は、四人部屋でした。
かなり年季の入った特養です。
今時の、ユニット式の個室では、ありません。

クロゼットの引き出しの取っ手が取れていたり、何度か付け直して頂きましたが、やっぱり取れてしまいました。

時に、ベッドの下に綿埃。

特養は、我が家ではないけれど、病院でもありません。
なるべく、綺麗な場所に母にはいて欲しいし、母も綺麗でいて欲しい。

それが、私の願いでした。

週に二回は、特養に行くようにしていたけれど、昼ご飯介助を入れて二時間弱。
あとは、特養のワーカーさんに母を任せきりでした。

最小限の人数で、沢山の利用者さんのお世話をしているワーカーさんに、無理も
文句も沢山言ってしまいましたが、どなたも快く、聞いて、直ぐに実行に移してくださいました。

だから、ホントに、心から感謝もしています。

胸の奥にあった、黒い物も、、、
最後に聞いて貰ったし。

どうか、出来たら、私の黒い思いも真実だから、心に留めて頂ければと、思っています。


両親のダブル介護に加えて、自分の病気も発覚し、潰れそうだった私を救ってくれたのが、特養や、ディや、ショートの相談員さんだったことは、忘れません。


ワーカーさんや、看護士さん、私が母に会いに行く度に、私の愚痴やら、体調のことを聞いてくださいました。

正直、特養は、私にとっては、要介護者の父と向き合って暮らす日常生活の、逃げ場でもありました。

もちろん、目的は母に会いに行く事です。
でも、母は、あまり話さない、、、いえ、話してくれますが、理解してあげられない言葉も多かったので、つい、ワーカーさんと話し込んでしまう私でした。

兄弟姉妹のいない私は、ホントにワーカーさんに会って話す事、楽しい時間でした。



母に、私に、いつも暖かかったパートさん達。
Oさん、久美子さん!と呼んでくれるのが、とても嬉しかったです。

Iさん、娘みたいに可愛くて、沢山お喋りしてくれて、ありがとう。

荷物を引き取りに行った時、会えなかったけど、本当にありがとうございました。
二人が母のブースにいる日は、なんだかとても嬉しかったな。

Mさんとは最後に会えて、ホントに良かったぁ。
母に沢山話しかけてくれて、ありがとうございました。

Mさん、Eさん、移動になったのに、会いに来てくれて、ありがとうございました。
Mさん、いろんな勉強、頑張って下さいね。
母が褥瘡出来た時に、いろんなこと教えて下さってありがとうございました。
Eさん、いつも一生懸命な貴女、私は大好きです。
コブクロ繋がりも、嬉しかったです。
いつかライブで、会えたら良いな。
母のブースから二人が離れちゃった時は、ホントに残念で、ガッカリだったけど、建物の中にいてくれてるだけで、心強かったです。


母が妹だと思ってたNさん、長いことありがとうございました。母がショートを使っていた時から、お世話になりました。母が当たったりしたこと、ごめんなさいね。

母の担当をしてくださったIさん、母に一生懸命を下さって、ありがとうございました。いろんなこと考えて下さって、嬉しかったです。
私の小言、ごめんなさいね。

Tさん、Cさん、短いお付き合いでしたが、ありがとうございました。
父の電話の取り次ぎ、ご迷惑をおかけしました。ありがとうございました。

母が亡くなったことを、涙してくれたHさん、私は貴女が、ホントに大好きでした。
私は貴女に会いたくて、特養に行っていたかもです。
Hさん、これからもチーフ、頑張って下さいね。
くれぐれも、身体に気をつけて下さいね。


私や、父を支えてくださった、特養の心ある方達に、深く感謝しています。
本当に、ありがとうございました。

そして、利用者さんのみならず、どうかこれからも、家族の力になってください。


最後に、このブログを読んでくださっているという、Hさん。
皆さんに、どうか伝えて下さいね。

私の拙いブログを読んで下さったこと、忘れません。
病院の帰り、母を父に会わせるために、家に寄ってくださったことも、忘れません。
ささやかなこの人生、、、また、桜が散る頃、一度だけ母と私を思い出してくださいね。


老舗と言われている、母のいたちょっとボロい特養。ごめんなさい~
私が此処を選んだのは、ワーカーさん達がいたからです。

優しい心と気持ちを、ありがとうございました。

私も、また、頑張って生きていきますよ。

母に関わっては下さった皆さん、心から、ありがとうございました。

旅立ってしまいました。

2015年03月04日 | 母の話
母が亡くなって、お通夜、告別式、初七日が過ぎました。

母は、10年前の母に戻って、自宅に帰ってきました。

遺影の母を見て、なんだか、そう思ってしまいました。

孫である私の娘も、告別式の日
「おばぁちゃんが、二人いるみたいだ」遺影と、棺の中の母を見ながら、そう言っていました。

写真の母は、ふっくらとして、頭の傷もない、60代の母です。
元気に駆け回り、働き者の10年前の母が、写真の中で笑っています。
私の、よく知っている母でした。


この10年、母は必死で生きていました。
笑う時間より、多分、我が身を哀しむ時間の方が、長かったと思います。
いえ、もしかしたら、私が思っているだけで、辛くなんて、無かったのかもしれません。

母は、いつも前を向いて生きていました。
リハビリも、一生懸命だった。
それが、私には、時に切なく、時に誇らしく、考えると、やはり辛くなります。

でも、母にとっても、多分、私にとっても、掛け替えのない10年だと思います。
決して無駄じゃなかったし、一生懸命、頑張った母でした。

母の想いは、多分私にはわからないかもしれません。
あれこれ想いを巡らせても、もう答えは聞けません。


棺に横たわっていた母は、私の知っている母とは、少し違いました。
何故だろう、、、
既に、仏様の様に見えました。

考えると、この数年の母は、私にとって、仏様みたいな気がします。
恨み言も、愚痴も言わず、泣きごとも言いませんでした。

その母の近くにいた私は、いろんな修行をしていたような気もします。
とても辛かったし、厳しかったけれど、きっと母の身を以て、いろいろ教えて貰えた気もします。

もちろん、悲しことばかりじゃないし、楽しいことだって、母にも私にもありました。
特養で、母が笑うと嬉しかった。

死に行く数ヶ月前からは、何故かよく笑う母でもありました。

短期記憶は残らないでしょうけれど、しっかり全てわかっていました。
母の声、今は上手く思い出せないけど、ありがとうを、沢山貰いました。

口の中、舌がうまく動かせなくなっていたので、母の言葉がわからないことが沢山ありました。
もう少し気長に、聞いてあげてれば良かったなぁ。

まだ、後悔とも少し違う、残念さは沢山です。

強く、優しく、、、母はいつも、母でした。
私には、、、そうでした。

父には、早く帰りたいといっていたようです。
やはり、妻だったのでしょう。

喧嘩も沢山していた両親ですが、とても仲が良かったと思います。
沢山の苦労を共にした、絆の固い夫婦だったと思います。
母の遺影の写真を探しながら、沢山の父とのツーショットがありました。
手を繋いだり、腕を組んだりしているわけではありませんが、どの写真もピッタリと寄り添っていました。


父は、特養にいる母に携帯を買いました。
1日3回電話をかけて、母に会えない寂しさを、紛らわしていたのでしょう。
母の手が、上手く動かせなくなって、自分では受話器を持てない母。
ワーカーさんの優しさで、受話器を持って貰ったり、耳に当てて貰っていました。
ワーカーさんが忙しくて、取ってもらえない時は、沈んだり、怒ったり、、、
留守電になってしまう携帯を、哀しく掴んで離せませんでした。
母の声を聞くまでは、夕飯も食べれずにいました。

もう、そんな風に、母の声も聞けない父は、きっと私より淋しいだろな。

おかげさまで、あまり落ち込んでいる姿は見ませんが、この数日で、少し歳をとった気もします。


要介護2の父、物忘れが半端ありません。
難聴だし、足元も危ういし。
まだ、私の修行は続きます。

頑張らなきゃな、、、
とは、思っています。

我武者羅でなく、、、
ユルユルしながら。