明日晴れたら、、、

今日は雨だから、ゆっくり過ごそう。
明日晴れたら、、、ちょっとだけ頑張るかなぁ。

旅立ってしまいました。

2015年03月04日 | 母の話
母が亡くなって、お通夜、告別式、初七日が過ぎました。

母は、10年前の母に戻って、自宅に帰ってきました。

遺影の母を見て、なんだか、そう思ってしまいました。

孫である私の娘も、告別式の日
「おばぁちゃんが、二人いるみたいだ」遺影と、棺の中の母を見ながら、そう言っていました。

写真の母は、ふっくらとして、頭の傷もない、60代の母です。
元気に駆け回り、働き者の10年前の母が、写真の中で笑っています。
私の、よく知っている母でした。


この10年、母は必死で生きていました。
笑う時間より、多分、我が身を哀しむ時間の方が、長かったと思います。
いえ、もしかしたら、私が思っているだけで、辛くなんて、無かったのかもしれません。

母は、いつも前を向いて生きていました。
リハビリも、一生懸命だった。
それが、私には、時に切なく、時に誇らしく、考えると、やはり辛くなります。

でも、母にとっても、多分、私にとっても、掛け替えのない10年だと思います。
決して無駄じゃなかったし、一生懸命、頑張った母でした。

母の想いは、多分私にはわからないかもしれません。
あれこれ想いを巡らせても、もう答えは聞けません。


棺に横たわっていた母は、私の知っている母とは、少し違いました。
何故だろう、、、
既に、仏様の様に見えました。

考えると、この数年の母は、私にとって、仏様みたいな気がします。
恨み言も、愚痴も言わず、泣きごとも言いませんでした。

その母の近くにいた私は、いろんな修行をしていたような気もします。
とても辛かったし、厳しかったけれど、きっと母の身を以て、いろいろ教えて貰えた気もします。

もちろん、悲しことばかりじゃないし、楽しいことだって、母にも私にもありました。
特養で、母が笑うと嬉しかった。

死に行く数ヶ月前からは、何故かよく笑う母でもありました。

短期記憶は残らないでしょうけれど、しっかり全てわかっていました。
母の声、今は上手く思い出せないけど、ありがとうを、沢山貰いました。

口の中、舌がうまく動かせなくなっていたので、母の言葉がわからないことが沢山ありました。
もう少し気長に、聞いてあげてれば良かったなぁ。

まだ、後悔とも少し違う、残念さは沢山です。

強く、優しく、、、母はいつも、母でした。
私には、、、そうでした。

父には、早く帰りたいといっていたようです。
やはり、妻だったのでしょう。

喧嘩も沢山していた両親ですが、とても仲が良かったと思います。
沢山の苦労を共にした、絆の固い夫婦だったと思います。
母の遺影の写真を探しながら、沢山の父とのツーショットがありました。
手を繋いだり、腕を組んだりしているわけではありませんが、どの写真もピッタリと寄り添っていました。


父は、特養にいる母に携帯を買いました。
1日3回電話をかけて、母に会えない寂しさを、紛らわしていたのでしょう。
母の手が、上手く動かせなくなって、自分では受話器を持てない母。
ワーカーさんの優しさで、受話器を持って貰ったり、耳に当てて貰っていました。
ワーカーさんが忙しくて、取ってもらえない時は、沈んだり、怒ったり、、、
留守電になってしまう携帯を、哀しく掴んで離せませんでした。
母の声を聞くまでは、夕飯も食べれずにいました。

もう、そんな風に、母の声も聞けない父は、きっと私より淋しいだろな。

おかげさまで、あまり落ち込んでいる姿は見ませんが、この数日で、少し歳をとった気もします。


要介護2の父、物忘れが半端ありません。
難聴だし、足元も危ういし。
まだ、私の修行は続きます。

頑張らなきゃな、、、
とは、思っています。

我武者羅でなく、、、
ユルユルしながら。


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