カメレオンの独り言

当分は漫ろ言の漫ろ歩き、頭に浮かんだ事柄を挿絵と写真と下手な文で綴ります。色々と間違い多いですがご容赦を。

カメレオンの独り言-413 『遠い昔の物語』

2012年05月29日 | 日記









今日は、なんか「疲れたぁ~」です。やっぱり、この歳なると「休み」は要るよ。

昨日は休日出勤だったので、帰ってからパソコン向き合ってブログ仕上げた後、ネットをウロウロしてるうち、

大阪の昔の写真が満載されたサイトに行き当たったので、夢中になってしまって時間忘れて就寝が深夜の3時頃になってしまった。  












1920年頃、千日前の楽天地。今のビッグカメラが入っているビル(旧千日デパートビル)のところにあたるのかな?  (以下、写真拝借)










「古い写真が残ってるもんなんだね」 大阪市内の堺筋、道頓堀に心斎橋、千日前から戎橋、中ノ島やら堂島やらと、

明治、大正、昭和の時代の当時の様子がうかがえる。わたしが明治、大正を生きた訳ではないが、親父やお袋から聞いた話と照らし合わせて

「あは~ん、親父が云ってた千日前の楽天地って、これかいなあ~」ってな感じで、当時の人の写真姿を親父にダブらせて想像したりしてたよ。










   1910年頃、心斎橋筋の大丸。











1900年頃の心斎橋竣工渡り初めの写真があった。心斎橋は何度か造りかえられているので定かじゃないけど、

渡り初めでは、北と南から当地の豪商や大地主が代表となり先頭を渡ったという。親父の父親が南からの代表者だった。

たいしたもんだけど、其の財を潰したのも其の父親だから「できが悪かったんだね」どんな奴や?って顔見たい。







大阪空襲で全部焼失して家には写真が一枚も残ってなかったからね。














年代が合ってたら、此の写真の中に存在しておるね。 「情けないお爺ちゃんはどいつや?」









昔、両親が健在の頃「お父さん、この記事と写真見てみい」ってお袋が新聞広げて親父を急かしてる。暫く、記事に眼をやっていた親父が

「うちのことやなあ」って何処見るでなしに遠い眼になってた。そして溜息洩らすみたいに「馬ッ鹿が・・」って云ったのを覚えてる。

心斎橋の渡り初めの記事で、北からの代表者は今も(当時)変わらず商いを続けて健在だった。でも、南からの代表者が不明云々との内容だったらしい。














1910年頃の千日前。此の当時は、うちは「大金持ちやってんねえ~」 欠片でも残しとけよ、ホンマにっ。










千日前から南海通り周辺の広大な土地の地主だった。「派手に潰したね」たいしたもんだよ、お爺ちゃん。

心斎橋って聞いたり見たりすると「零落して五歳で丁稚奉公に出された親父の哀れが思い出されるんだね」 思い出話で親父が眼に涙溜めていたよ。 

お爺ちゃん、あんたのしたことは、腹斬りもんだよ。 「我が一族の大和川だね、あんたは。ワーストワンだよ」














1910年頃の心斎橋。 其の地に関わる人々の喜びや悲しみを塗り変えつつ時代は移り往くんだね。「親父にパソコンさせて遣りたかったね」






























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