気づかずまま、自分を基準にしてものごとを考えてしまうけど大きな間違いだろうね。
この世は、自分が生きているから存在しているもので、死んでしまえば、自分にとっては「無」になる世界だもんね。
そう捉えると、自分の命が主軸で、この世が動いているようにも思える。
この場合の自分とは、皆さん一人ひとりに当てはまる。
いろんな人生観がある。
自分の生き方や主張を押し付けてはいけない。自分の価値観で人を量るものではない。量るべきは自分自身でなくてはならない。
自分の存在とは、ひとつの意思に過ぎない命であることを知らねばならない。人類60億分の1に過ぎないんだね。
その集合体が社会で、其の維持のために約束事ができる。数が多ければ正しいとは限らない。妥協に過ぎない決まりごとが氾濫する。
個人に話を戻して、人の生き方を尊重すべきなんだろうね。互いに益ある姿勢だろうと思う。
喩え、夫婦であろうと、親子であろうとも、其々が人として自分の人生を生きているのだからね。
親は愛情で子を育て、子が成長して自立の意思を持ち、義務と責任の自覚があれば、その意思を尊重して遣るべきだろうと思う。
無理やり介入して、社会の価値基準に照らした人間を創り上げることが、果たして正しいのかどうか、社会が組織に成り果てた結果だろうね。
優劣意識の露骨な価値基準が出来上がり、人間は、逆に社会に選ばれる材料と化してしまったね。
個の集合体の「うねり」の産物なんだろうね。・・・・・「で、今日はなにが云いたいの?」
「全ての人に60億分の1の自分で生きろ」と、云いたい。「創り上げた物に振り回される人生に疑問を持て」と、云いたい。
「それで、どうなるの?」「そんなん知らんがな」「おまえが云ったことの答えを聞いてるんだよ」「馬鹿だね。答えなど此の世には無いんだよ」
人は、「無い答え」を求めて彷徨う放浪者なんだよ。
「人を信じれるか、信じられないかは、自分を信じることができるか、どうかに通じている」 それと似てるね。
「難しいね?」 「うん、云ってるオレもよう解らんもんね」 「なんやねん、それ」 「アルコールがまわって、収拾つかんわ」
「お知らせ」 5月20日から 「 カメレオンの独り言 」 に改題します。中味は「あほらしい」ままです。