ギャラリー酔いどれ

売れない絵描きの世迷い言&作品紹介

師走の雪Ⅴ

2016-12-10 10:07:45 | Weblog
 画は 尾形 月耕(おがた げっこう)

 安政6年(1859年)~ 大正9年(1920年)     作


  「婦人風俗尽」 「すみた川いてや棹させ雪見舟 雨路」です。


☆雪の晴れ間。

売国奴の跳梁跋扈、

◆http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201612100000/
櫻井ジャーナル 2016.12.10
今から25年前と36年前、
 西側支配層の戦略にとって都合の良い出来事が引き起こされた12月8日



日本軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃した時、日本ではすでに12月8日になっていた。

その12月8日にも歴史に残る出来事が引き起こされている。

例えば、そのひとつが1980年12月8日のジョン・レノン殺害であり、

もうひとつが1991年12月8日にベロベーシの森で開かれた
ロシア、ウクライナ、ベラルーシの首脳による秘密会

いずれも西側支配層にとっては願ってもないことだった。

1975年から活動を休止していたジョン・レノンは80年10月にシングル曲
スターティング・オーバー、また11月にはダブル・ファンタジー
というアルバムを発表して本格的に音楽活動を再開させたるが、
それは政治的な活動の再開でもあった。

ジェラルド・フォードが大統領だった1974年8月から77年1月にかけて
アメリカ政府内でデタント(緊張緩和)派が粛清され、
ネオコンが台頭、好戦的な流れになっていた。

そうした中、1979年12月にNATO理事会は
パーシング2ミサイル572基の配備を決定している。

理事会が開かれる5カ月前、エルサレムではイスラエルとアメリカの情報関係者が
「国際テロリズム」に関する会議を開いている。

この当時、すでにアメリカのズビグネフ・ブレジンスキーは
アフガニスタンでソ連をターゲットにした秘密工作を開始、

その手先としてサラフ主義者(ワッハーブ派)やムスリム同胞団を中心とする
武装集団が編成されていた。

そうした工作の結果、ソ連軍は1979年12月にアフガニスタンへ侵攻してくる。

エルサレムでの会議にはアーノウド・ド・ボルクグラーブ、
クレア・スターリングのような「ジャーナリスト」も参加、

会議後にソ連を悪魔化して描くプロパガンダを始めた。

スターリングが手を組んだひとり、ポール・ヘンツェはCIAの「元幹部」で、
ブレジンスキーと親しいことで知られている。

スターリングと組んでもうひとりがマイケル・リディーン。

CIAやイタリアの情報機関と関係が深いのだが、
イスラエル政府のために働いていると言われている。

1976年にはJINSA(国家安全保障問題ユダヤ研究所)を創設している。

ドナルド・トランプが安全保障担当の補佐官に選んだマイケル・フリン
今年7月に『戦いの場』という本を出している。
☆http://us.macmillan.com/thefieldoffight/
 lieutenantgeneralretmichaeltflynn/9781250106223

バラク・オバマ政権はブレジンスキーの手口を真似して
サラフ主義者やムスリム同胞団を中心とする武装集団(アル・カイダ系やダーイッシュ)

を使ってきたが、その危険性を2012年夏の段階で政府に警告していたフリンだが、
何らかの事情でリディーンが結びついてしまった。

これはトランプ政権が抱える懸念材料のひとつだ。

反ソ連キャンペーンが始まり、パーシング2の配備が決まった翌年、
戦争に反対する姿勢を明確にしていたジョン・レノンは射殺された。

引き金を引いたのは福音主義(キリスト教原理主義)の信者で
トッド・ラングレンのファンだというマーク・チャップマン。

イギリスの弁護士でジャーナリストとしても活動していたフェント・ブレスラーによると、
チャップマンは1975年6月にレバノンを訪れて1カ月近くを過ごし、
帰国してからベトナム難民定住促進キャンプで働きはじめ、
そこで知り合った男の紹介で警備会社へ入っている。

レノンを射殺する際に使われた殺傷能力の高い「ハロー・ポイント弾」を
後にチャップマンへ渡したのはその男だ。

1977年1月にチャップマンはアーカンソー州からハワイへ移動、
キャッスル病院で働いている。

その後、彼は世界一周旅行に出発、日系女性と結婚、警備会社へ就職した。

1980年に入ってチャップマンはホノルルの銃砲店で38口径リボルバーを購入、
12月にアトランタで弾丸を受け取り、ハワイへ戻る。

その直後、3日間シカゴで過ごし、6日にニューヨークへ移動、8日を迎えた。
(ファントン・ブレスラー著、島田三蔵訳『誰がジョン・レノンを殺したのか?』
音楽之友社、1990年)

その11年後の12月8日、アメリカ支配層の操り人形だったロシア大統領の
ボリス・エリツィンは同国のゲンナジー・ブルブリス国務大臣、
そしてウクライナのレオニード・クラフチュク大統領とビトルド・フォキン首相、
ベラルーシのソビエト最高会議で議長を務めていたスタニスラフ・シュシケビッチと
バツァスラフ・ケビッチ首相と秘密会談を開いている。

会議を主導したのはロシアのブルブリスだと言われているが、
その背後に西側の支配層がいたことは間違いないだろう。

会議はベラルーシにあるベロベーシの森で開催され、
国民に諮ることなくソ連からの離脱を決めた


その背景には1991年7月にロンドンで開かれたG7の首脳会談があると見られている。

そこでゴルバチョフは西側資本にとって都合の良いショック療法的、
つまり新自由主義経済的な政策を強要された。

いわゆる「ピノチェト・オプション」だが、この要求にゴルバチョフは難色を示す。

そこで西側はゴルバチョフからエリツィンに切り替えたわけだ。

そして12月21日、カザフスタンのアルマアタでソ連の消滅と
CIS(独立国家共同体)の設立が正式に決まった。

そこから旧ソ連圏は西側支配層の食い物になり、
そうした勢力の手先になった人びとも巨万の富を手に入れた


現在、安倍晋三政権の周辺は日本をアメリカの支配層へ引き渡し、
自分たちは私腹を肥やそうとしている。

日本をエリツィン時代のロシアと同じようにしようとしているわけだが、

日本にウラジミル・プーチンやその仲間たちのような勢力が出てくる保証はない




月耕、二枚目、



「婦人風俗尽」 「閑家の雪」です。



鬼畜米英、アメ公の本音、

◆http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/48575
Japan Business Press  2016.12.8(木)
日本を殺せが米国で大ヒット、東京だった次の原爆
オライリーが描く逆説の日米戦争」、歴代大統領・大量殺戮の言い訳

by 高濱 賛


「パールハーバー」75年目の風景

今年もまた真珠湾攻撃記念の日を迎えた。あれから75年目だ。

米各紙はこぞって「リメンバー・パールハーバー」ものを扱っている。

カリフォルニア大学バークレイの歴史学者は筆者にこう指摘している。

「米国民が真珠湾を忘れようとしない理由は2つ。

1つは強力な軍事力を持っていても敵はどこから攻撃してくるか、
決して油断してはならない、という教訓。

いま1つは広島・長崎原爆投下を正当化するための、
攻撃してきたから完膚なきまでに日本を打ちのめしたのだ、という言い訳
だ」

今年はバラク・オバマ大統領の広島訪問がついに実現した。

現職米大統領の訪問はこれが初めてである。

加害者としての「謝罪」はなかった。

「謝罪」を巡って米国内では反対論が強かったことを配慮してのことだった。

が、「非核」への大統領の祈りの行間には
無言の「謝罪」と「反省」の念がにじみ出ていた。

少なくとも日本国民の大半はそう受けとめ、
オバマ大統領の広島演説を高く評価した。

その後大統領に当選したドナルド・トランプ氏も
「謝罪をしないのならオバマ演説は問題ない」と不問に付した。

オバマ大統領の勇断は「レガシー」として残るだろうが、
トランプ政権でこれ以上前進することはまずないだろう。

ベストセラー「Killing」シリーズに「大日本帝国」が登場
Killing the Rising Sun: How American Vanquished World War II Japan
by Bill O'Really & Martin Dugar Henry Holt and Company, 2016

今、米国で「Killing the Rising Sun」(昇る太陽を殺す)という

おどろおどろしいタイトルの本が売れている。

「ライジング・サン」とは、日本のこと。

著者は当初ずばり「Killing Japan」(日本を殺す)というタイトルを考えていたという。

ストレートすぎて批判を招くとの危惧からタイトルを変更したらしい。

著者は、テレビに著書に大活躍の保守派ジャーナリストのビル・オライリー氏(67)だ。

近年「Killing」シリーズを手がけ、本書はその6冊目だ。

これまでに「Killing Abraham Linclon」
(エイブラハム・リンカーン第16代大統領の暗殺)を皮切りに
ジョンF・ケネディ第35代大統領の暗殺、イエス・キリストの処刑、
ジョージ・パットン将軍の謎の死、
ロナルド・レーガン第40代大統領の暗殺未遂などをテーマにしている。


トランプ当選でますます輝く「フォックス・ニュースの顔」

オライリー氏は、司会者を務めるフォックス・チャンネルのニュース解説番組
「ジ・オライリー・ファクター」では歯に衣着せぬ辛口コメントを売り物にしている、
今一番脂の乗り切ったジャーナリスト。

自らの政治的、社会的スタンスは、米中産階級の「良識」に基づくとしている。

法を遵守し、犯罪を憎み、家族や隣人を大切にし、キリスト教を重んずる、
「古き良きアメリカ」こそが自分のよって立つ拠り所だと言い切っている。

その意味では、まさに大統領選でドナルド・トランプ氏を大統領に押し上げた
「白人中産階級」の代弁者と言える。

保守主義者だが、過激な超保守派とは一線を画している。

ニューヨーク生まれ。カトリック教徒。
マリスト大学を卒業後、2年間高校で英語を教えたのち、ボストン大学大学院(BU)で
ジャーナリズム修士を取得。
地方紙記者やラジオ・テレビ局で22年間働いたのち、
95年ハーバード大学行政学大学院で行政学修士を取得している。

ジャーナリストとして働く傍ら、近代史の研究を続けており、
自宅には数千冊の蔵書があるとも言われている。

これまで著した著書は23冊。

「Killing」シリーズは毎回100万部は売れているという。

真珠湾攻撃に始まり、原爆投下で終わる日米戦争。

そのストーリーを米国人が描いた歴史書では、
MIT(マサチューセッツ工科大学)のジョン・ダワー博士の「War without Mercy」
(容赦なき戦争、1986年)や

「Embracing Defeat: Japan in the Wake of World War II」(敗北を抱きしめて、1999年)
の右に出る本はないだろう。

それに挑戦しようというのだからオライリー氏も大変な自信家だ。

「Killing」シリーズでは事実関係を調査するために
フリーランサーのマーティン・ドゥガード氏(55)をリサーチャーに雇っている。

シリーズはすべて同氏との共著になっている。

日米戦争に詳しい専門家の中には
本書にはかなり事実関係の誤認や史実に誤りがあると指摘する者もいる。

だが、それでもなおかつ、本書が売れに売れている理由は、
本書が「白人中産階級の視点に立ち、
平易な文章で、人物中心に太平洋戦争を描いている点にありそうだ。

それは、トランプ次期大統領の視点に近い、と指摘する向きもある。


長崎の次は東京を標的に考えていたトルーマン

本書を読み解くうちにこれまで見落としていた「新事実」に出くわす。

米英ソの三国は1945年7月、ベルリン郊外でポツダム会談を行う。

米国は対日政策を英国に提案し、中国を加えた3国の名で、
戦後勝利方針と日本軍隊の無条件降伏をか観測する(ママ 勧告?)ポツダム宣言を発表した。

日本政府が対応に苦しんでいる間に、米国は8月6日広島に、次いで9日長崎に
原子爆弾を投下した。

8月8日、ソ連は日ソ中立条約を無視して宣戦布告し、満州・朝鮮に侵入した。

日本政府が御前会議で、昭和天皇の裁断によりポツダム宣言を受諾し、
連合国側に通告したのは14日。

長崎原爆投下から5日。

8月9日午前10時46分。トルーマン大統領はヘンリー・スチムソン国防長官、
レスリー・グローブ将軍ら側近と今後の対応を協議していた。


「大統領は長崎への原子爆弾投下が成功したことを知らされていた。
日本は台風シーズンに突入、さらに原爆投下を続行するとすれば遅延が予想された。

大統領は天候が回復すればできるだけ早期に第3弾を投下すべきかどうか
決断を下さねばならない。その標的は東京だった」

もう少し無条件降伏が遅れれば、原子爆弾を東京に落とされていたのだ。

「広島同様、長崎でも多くの非戦闘の民間人が死傷している。
大統領は日本国民を抹殺することは望んでいなかった。

しかし日本軍部はこれだけの損害にもかかわらず、降伏しようとはしていない」

「日本政府指導者はその強情さのために日本国民の犠牲など全く考えていなかった。

大統領と親しいリチャード・ラッセル上院議員は
『(原爆を使用したのは)できるだけ多くの米兵の命を守るだけでなく、
日本人の女子供に対する人道的な感情があったからだ』としたためていた」

原爆投下を正当化するため、その後トルーマン大統領からは何度か説明が繰り返された。

だが、そのトーンはこの時点から終始一貫していた。

日本本土に上陸することで戦闘が泥沼化し、多くの米兵の命が失われかねないこと。

と同時に日本の一般市民を巻き込み、多くの日本人の生命が奪われる。

それを避けるために原爆を落とし、無条件降伏させたのだという理屈だ。

それは今も半数近くの米国民が信じて疑わない。



カーター、ブッシュ父子はトルーマンの決断を支持

原爆投下を命じたトルーマン大統領の決断は正しかったのか――。

世論調査では、54年前、正当化していた米国民は63%だった。
それが15年には56%に減少している。

今では米国民のうち34%が正当化しない(残り10%とは無回答か、分からない)と答えている。

54年の間に正当化すると答えた米国民は7パーセントポイント減っているが、

まだ半数以上は正当化しているのだ

別の世論調査では、トルーマン大統領の決断を「支持する」とした米国民は
1945年には85%だった。

それが69年後の2005年には57%になっている。

著者のオライリー氏は執筆段階で歴代大統領に書面で
トルーマン大統領の決断について賛否を問うている。

回答したのはジミー・カーター、ジョージ・H・W・ブッシュ、ジョージ・W・ブッシュ各大統領だ。

大統領直々の書簡が本書に掲載されている。

カーター氏は回顧録「A Full Life:Reflection at Ninety」
(充実した生活:90年代を振り返って)に記された文章をそのまま引用し、
「私の考え方は変わっていない」と記している。

「私は潜水艦内のラウドスピーカーでトルーマン大統領の原爆投下演説を聞いた。
もし投下しなければ陸上戦となり、50万人の米兵および多くの日本人が戦死する、
それを防ぐための苦渋の選択だったという演説だった」(日付なし)

ブッシュ大統領(パパ)は、こう回答している。

「トルーマン大統領の決断は正しかった。もし原爆を投下していなかったら
大勢の米兵、(太平洋戦争に参戦した)自分も含め、戦死していただろう。

もし当時自分が大統領だったらどうするか、私も同じ決断をしていただろう。
厳しい決断だったが、正しい決断だった」(2016年1月5日け)

そしてブッシュ大統領(息子)は、こう答えている。

「大統領にやり直しはない。大統領は、自分が正しいと信じたことを実行するしかない。
そしてその結果についてはすべて責任を取ることだ。
トルーマン大統領はまさにそれをやってのけた」

「私はトルーマン大統領のタフネスさと信念、そして戦略的なビジョンに感服している。
トルーマン大統領は米国の国益を第一に国をリードした。
後からどのような批判があろうが気にかけなかった」(2016年2月9日付)


10秒間の沈黙、「トルーマンと機長ティベッツとの初対面」


最終章にあまり知られていないエピソードが紹介されている。

1948年冬、トルーマン大統領と広島に原爆を投下したB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」の機長、
ポール・ティベッツ大佐(のちに空軍准将)との対面場面だ。

大統領が広島原爆投下作戦に関わった米軍将兵をホワイトハウスに招いたのだ。

「2人は何も言わずに向き合っていた。大統領は10秒ほど言葉を発しなかった。

それから『君はどう思う?』と尋ねた。

ティベッツ大佐は大統領の質問の意味を痛いほど分かっていた」

「そして『大統領閣下』と応じ、一息ついて

『私は命じられたことを実行に移したまでです』と答えた。

大統領はデスクを叩いてこう言った。

『その通りだ。君を出動させたのはこの私だ』。

そのデスクには『The Buck Stops Here』(全責任は私にある)という
ガラス製の大統領の座右の銘が置かれていた」




トルーマンは鬼畜ですよ、人ではない。



月耕、三枚目、



「婦人風俗尽」 「能楽」です。



下痢壺も同然、人ではない、

◆http://lite-ra.com/2016/12/post-2756.html
リテラ  2016.12.0
きょう一周忌、野坂昭如が死の当日まで日記に綴っていた安倍政権への怒り 
 「戦前がひたひたと迫っている


本日2016年12月9日で作家の野坂昭如氏が亡くなってから1年が経った。

野坂氏といえば、大島渚・小山明子夫妻の結婚30周年を祝うパーティーで
大島渚と大乱闘を繰り広げたり、
ブルーフィルム製作を営む青年たちを主人公にした小説『エロ事師たち』を出版したり、

編集長を務めていた月刊誌「面白半分」に
永井荷風『四畳半襖の下張』を全文掲載してわいせつ文書販売の罪で起訴されたりと、
無頼な姿勢を貫き通した作家だった。

その一方、高畑勲監督によってアニメ映画化もされた火垂るの墓
に代表されるように、野坂氏は自身の戦争体験を語りながら、
生涯にわたり「平和」の大切さを伝え続けた作家でもある。

だからこそ最晩年の彼は、昨今の日本を覆う「戦争に向かいつつある空気」には
忸怩たる思いを抱いていた。

今年1月に出版された『絶筆』(新潮社)には、
04年から亡くなる日まで野坂氏が書き続けていた公開日記が掲載されているのだが、

その死の当日である12月9日の日記はこんな言葉で結ばれていた。

この国に、戦前がひたひたと迫っていることは確かだろう

死の直前まで野坂氏はこの国がつき進もうとしている方向に危惧を抱き続けていた。

それは、70年以上前、彼が見聞きしてきた、
この国が「かつて来た道」とそっくりだったからである。

晩年の野坂氏は車椅子での生活を余儀なくされ、原稿も暘子夫人の手を借りて
口述筆記で書かれていた。

日記を読んでいくと、大好きだった酒はもちろん、
食事を飲み込むのも難しくなっていたことが伺える。

しかし、日記を読み込んでいくと、そんななかでもひときわ目を引くのが、
戦後日本が守り続けてきた平和を壊そうとする安倍政権への怒りである。

昨年の2月には、平和憲法を打ち捨てようとする安倍政権、そして、
その野望を国民の目から隠すことに協力するマスコミに対し、
このように書いている。


〈日本は戦後、アメリカに三歩下がってご機嫌をうかがい、

一方で平和国家を唱えながら、とにもかくにも70年、戦争はしてこなかった。

それが今、一足飛びに戦争へ突き進もうとしている。

鼻息荒く、憲法改正に向かっている。

世間は、対イスラム国の前に、自国のお上の下心を疑い、矛盾を追及した方がいい。

想定も曖昧、議論もないまま。 安倍首相の空想は、戦前の愚鈍なリーダーそっくり

お上の動きに、もっと関心を寄せるべき。

上からのお達しか、大マスコミも何となく及び腰。

正しいテロなどない。 正しい戦争もない
 

また、その2カ月後には、70年前に沖縄へ米軍が上陸した4月1日を思い、
このように綴っていた。

〈70年前の4月1日、米軍が沖縄に上陸。沖縄の地上戦がはじまった。

死者20万人以上。 沖縄の一木一草まで焼き払われた。

沖縄県民は、本土防衛のため、捨て石とされたわけだが、

この惨たる過去について、お上に反省はないのか。

反省あれば沖縄県民の痛みが少しは判るはず。

辺野古移設反対の意思が、沖縄の民意。聞き入れられて当然。 無視され続けている。

辺野古反対のデモ、大規模なのにマスコミの扱いわずか〉


この後、6月には自民党の「文化芸術懇話会」で作家の百田尚樹が発した
「沖縄の2紙はつぶさなあかん」発言があるわけだが、
これについても野坂氏は怒りを書き綴っている。

〈与党の勉強会で、沖縄の二つの新聞社を取り上げ、頭にくる。

つぶさなければとの発言。その意図がどうであれ、沖縄にある二つの県紙は、

少なくとも県民にとって切実な内容を取り上げ、大新聞にありがちな、

記者クラブの、なあなあとか、官房長官発表の引きうつしに終始していない。

基地がらみの事故、不発弾発見、こんなのしょっちゅうのこと。

大新聞に載らないだけ。本土の人間は知らんぷり。

くだらない勉強会でのやりとりが話題となるうちに安保法制からそれている〉

ご存知の通り、この後、横暴な政権運営にはより拍車がかかり、
夏には国民からの反対の意見を聞く耳すらもとうとしないまま、
安倍政権は安保法制を強行採決していく

このときの日記にはこんな言葉が並んでいる。

〈安保法制について、何故そんなに急ぐのか世間の多数が説明不足と主張しているが、

お上には、はじめから丁寧な説明をするつもりはない。

欠陥、矛盾だらけで出来るはずがない。

曖昧で判りにくい答弁ばかりが続く。 まるで独裁国の如し


〈平和があたり前の世の中。安保法制が衆院通過。

アメリカに迫られ、首相が約束してきた。だから通す。

もはや法治国家じゃない。自民独裁国家


そして野坂氏は、いま目の前で起こっていることと、
戦前や戦中の日本で起こっていたことを重ね合わせずにはいられないのであった。

安保法成立。ぼくは一片のお触れが あっという間に町の風景を変え、

また世間のそれに慣れてしまうことの早さを知っている



昨年は4月に愛川欽也、11月には水木しげる、そして今年は7月に永六輔と大橋巨泉が
相次いで亡くなった。

実際に戦争を体験し、それがどれほど恐ろしいものかを知っているがゆえに、
「平和」へのメッセージを送り続けてきた反骨の文化人たちが次々と鬼籍に入っている。

そのなかでも、大橋巨泉は死の直前に書かれた連載エッセイの最終回に
こんなメッセージを我々に送っていた。

〈最後の遺言として一つだけは書いておきたい。

安倍晋三の野望は恐ろしいものです。

選挙民をナメている安倍晋三に一泡吹かせて下さい。

7月の参院選挙、野党に投票して下さい。最後のお願いです〉
(「週刊現代」16年7月9日号/講談社)

周知の通り、マスコミは政権に対する批判を封じ、

与党はやりたい放題の限りを尽くしている


野坂氏の言う「自民独裁国家」は、あれから1年でより進んでしまった。

このままでは、憲法9条が打ち捨てられるという最悪のシナリオも、

もはや絵空事ではなくなりつつある。

だからこそ、我々は野坂氏が最期に残した言葉をもう一度深く胸に刻み込む必要がある。

〈戦争で多くの命を失った。飢えに泣いた。

大きな犠牲の上に、今の日本がある。

二度と日本が戦争をしないよう、そのためにどう生きていくかを問題とする。

これこそが死者に対しての礼儀だろう。

そして、戦後に生まれ、今を生きる者にも責任はある

繁栄の世を築いたのは戦後がむしゃらに働いた先人たちである。

その恩恵を享受した自分たちは後世に何をのこすのか〉



どんな戦争も自衛のため、といって始まる

そして苦しむのは、世間一般の人々なのだ。

騙されるな。このままでは70年間の犠牲者たちへ、顔向け出来ない


(「サンデー毎日」15年8月23日号/毎日新聞出版)

(新田 樹)



年明け早々にも「解散・総選挙」でしょう、

キ印どもを引き摺り下ろしましょう!



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