ギャラリー酔いどれ

売れない絵描きの世迷い言&作品紹介

花冷え

2008-04-26 11:26:33 | Weblog
 画は ポール・セザンヌ Paul Cézanne

 1839-1906 /フランス / 後期印象派 作



 「Le Lac d'Annecy」です。



☆北海道も各地で開花、開花、の便り。

なにやら花冷えの風情です。

さて、

無様な「劫火」リレー。地獄への送り火なんでしょう。

支那いろ々、

ネットの意見ですが、
◆http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/
*2008/04/25(金)

在外中国人が中国を妄信するのは別に不思議なことではない。
在外人にとって母国はアイデンティティだからな。
母国は絶対正義でなければならないわけだ。

はっきりいって、お前らのそういう性根はこっちは見透かしてる。
同情もしないではない。
母国の非道を認めるのが悔しいのだろう。

だが、現実に中国共産党がチベットで行っているのは民族粛清、
大虐殺だ。

この50年間で120万人殺した。
お前らの主張では、南京大虐殺で30万だったか?
それの4倍の人間を中国は虐殺してる。

お前ら中国人は、30万人の虐殺を責めるくせに、
120万人の虐殺は責めないのか?

いいか、在日中国人に言っておく、お前らが批判すべきは中国共産党だ。
中国共産党政権を倒せ。お前らがお前らの国のやっていることを正せ。
愛国者ならな。


◆「再現 南京戦」 東中野 修道【著】
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/
wshosea.cgi?USID=&W-NIPS=9982285831

この紫禁山付近での激戦に於いては次のことを
特記しておかなければならない。
それは、先の降伏勧告文にある様に、
日本軍が如何に文化財の保護に努めようとしていたかである。

紫禁山の中腹には中山陵があった。また明孝陵もあった。
日本軍はそれらを毀損しないよう砲撃や重火器の射撃を控えていた。
そのため、それらの建物を盾にして戦う中国軍に、
砲撃する事も出来ず、
日本軍は小銃と機関銃のみの戦闘を強いられ、非常な苦戦に陥った。

序でに言えば、
梁の武帝が五世紀に建立した紫禁山山麓の霊谷寺五重塔には、
中国軍の観測所があったが、
そこからも迫撃砲の集中射撃を受けたため、
京都九連隊第一大隊は砲撃を望んだ。

しかし第一大隊副官であった六車政次郎少尉は、
「青柳由郎大隊長は、歴史的な遺産だから破壊してはならぬと、
頑として射撃を許可しなかった」(『南京戦史』P.98)

と証言している。実際、このように文化遺産が保護されたことは、
パラマウント映画のカメラマン、アーサー・メンケン氏が、
中山陵は日本軍の報道するように
「無傷のままだ」と認めたAP通信の記事が、
1937年12月17日の「ワシントン・ポスト」に
出たことからも明らかであった。


かと思えば、

◆http://headlines.yahoo.co.jp/
<続報><靖国暴行事件>   1月28日 Record China
拘置中も「しかるべき待遇を」―中国大使館

2008年1月15日、靖国神社で中国人男性が、
80歳の参拝客から持っていた日章旗を奪い取ったうえへし折り、
さらに止めようとした中年男性に暴行を加えた事件が発生。
警視庁麹町署は、暴行と器物損壊の現行犯で
この中国人男性・王班亜容疑者を逮捕した。

王は逮捕後の同月18日から体調不良を訴え、
警察では病院での診察を勧めたが、
「日本人は信用できない」とがんとして聞き入れず、
翌19日に中国駐日大使館のスタッフが駆けつけたところ、
やっと診察に応じたという。

国際先駆導報の報道によると、
中国駐日大使館はこの件に大きな関心を寄せており、警視庁に対して、
王にしかるべき待遇と合法的な権利を与えるよう求めている。
日本の法律に詳しい人物に取材したところによると、
この案件は数日後には罰金刑と国外退去を以って終結するだろうとしている。



続報がないので顛末はわかりませんが、まさに不逞支那人。

こんな奴らばかりですよ。この王某、支那じゃ英雄らしい。

自明のことだが支那人、鮮人を入国させては絶対ダメなんです。

国益を損ね、治安悪化を加速するのみ、犯罪被害者を増やすだけ。

国費留学生を増やすのは税金をドブに捨てるようなものです。

学んだことを帰国して役立てようとはしませんから。

あくまでも自己中、居座り続けるし、まず戻ることはない。

公(おおやけ)という意識の見事なまでの欠落です。
 
◆http://www.asyura2.com/0403/war54/msg/310.html
週刊新潮「変見自在」(高山正之)

雨花台

南京郊外に雨花台と言う小高い丘陵が在る。
日中戦争の時には、南京に迫る日本軍を食いとめるべく
蒋介石軍ががこの丘に多くの保塁やトーチかを築いた。
日本側は第6師団が執拗に抵抗する敵をてこずりながらも沈黙させたが、
残敵処理に行った兵士達は思わず眉をひそめた。

どのトーチカも出入り口が外から封鎖され、
中に閉じ込められた中国人兵士の足にも頑丈な鎖が巻きつけられていた。
逃げ様にも逃げ出せない中で彼等は、だから死に物狂いで抵抗したわけだ。

これに続く南京攻略線でも中国軍は退路に当る城門の上に機関銃を据え、
逃げ出そうとする仲間に容赦無く銃弾の雨を降らせた。

其の間に蒋介石は重慶まで落ち、南京守備の指揮官も逃げている。
信頼関係などこれっぽっちもない中国軍のおぞましい姿だが、
そうやって自分たちの手で築いた屍の山を
「日本軍がやった」と江沢民は言う。
この人は閻魔様が怖くないのだろうか。

さて雨花台だが、ココは中国の鈴ヶ森で、
明の頃からの知られた処刑場だった。

個々の露と消えた中には方孝孺がいる。
彼は民王3代目を武力で襲名した永楽帝を正統の皇帝と認めなかった。
永楽帝は彼の目の前で家族や係累八百余人を殺して翻意を迫る。
しかし彼は拒む。帝は次に彼の母方の係累を全て処刑し、
更に妻の親族や彼の門弟、知己に至るまで殺した。
最後に彼をここで処刑する時には彼を知る物は一人も残っていなかった。
中国では涙無くてしては語れない忠臣の物語とされているが、
単に傍迷惑な人という見方も出来る。

その雨花台では実は日本人も処刑されている。
向井敏明少尉、野田毅少尉、そして陸士三十七期の田中軍吉大尉の3人だ。
2人の少尉は東京日日新聞、今の毎日新聞が
「百人斬りを競った」と報じた当人になる。
上海から南京までのほぼ2週間の進撃中にどっちが早く百人の敵兵を斬るか。
向井少尉が関孫六で、野田少尉も無銘ながら伝家の名刀で競ったと
言うストーリーで、毎日の浅海記者が其れを報じている。
一回目の記事は無錫から常州までの3日間の戦闘で野田少尉が25人を、
向井少尉が56人を切り、関孫六は「刃こぼれ一つ無い」と自慢する話し。
2回目は四日後の丹陽発でそれぞれ86人、65人に記録を伸ばす。
3回目はほんの十行の記事で数字だけ。そして最終回は南京陥落の日で、
結果は106人と105人。
向井少尉の関孫六も「敵兵を鉄兜もろとも唐竹割り」して
刃こぼれが出来た話しを付けて、勝負が引き分けに終わったと報じた。

この記事が戦後、問題になった。
復員していた2人はBC級裁判にかけられたが、
当時は砲兵小隊長などで、敵兵と切り結ぶ立場になく、
しかも一人は負傷して戦線を離れていた事も分って釈放された。

毎日新聞の浅海記者が景気付けに書いたヨタ記事だったわけで、
同士が後に出版した『昭和史全記録』にも
「百人斬りは事実無根」だったとしている。
ところが釈放間もなく2人は再召喚され、
南京に送られて当地の軍事法廷で死刑が宣告された。
法廷には3人目の田中大尉もいた。山中峯太郎の作品『皇兵』の中で
「300人を斬った田中隊長の刀」という絵解きを根拠
に彼にも死刑判決が下された。

向井少尉の遺書と最後の写真がある。
「我が死をもって遺恨を流し日華親善の礎となれば幸いです」。
雨花台は今の緑重々と違い寒々としたがれ場。
処刑を前に前手錠の不自由な手を挙げて
「日中友好万歳」を三唱する姿がとどめられている。
今其の「百人斬り」が裁判にかかっている。
被告はヨタ記事を載せた毎日新聞と反日・中国の好みに合わせ
嘘を承知でどぎつい脚色をした朝日と本田勝一。
しかし毎日は一旦認めた「事実無根」を撤回し「記事は真実」と主張する。
自社の無責任な記事で2人が殺されたのに反省は無い。
毎日とはそんな新聞だ。
朝日も同じ「そういう過去の残虐を認めてこそ日中友好」という。

雨花台にこだましたのと同じ言葉だが、実に空々しい。


・・・


特亜3国との関わりはおしなべて、

「空しさ」つのるのみですな。花冷えの君子の交わりでよし。