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リタイアーのよもやま話

まともな家の子供はいない

2011-10-02 22:27:35 | 書評紹介


新聞にあった書評である。

 

まともな家の子供はいない

津村記久子著(つむら・きくこ 1987年大阪市生まれ、
作家)


大人への幻想と現実


 人は大人にならないのだな、ということに大人に
なって気づいた。

自分が家庭を持つような年代になって、家というものが
案外いいかげんにつくられていいかげんに営まれている
ものだとわかった。

しっかりしていると思っていたものが、実ははりぼて
だった。

そう思った人は私だけではないはず。幻想が打ち砕かれ
ていく過程を経て、ようやく大人になっていったように
思う。

 2作収録の本書。表題作の主人公セキコは14歳。

幻想に亀裂が入りだしてはいるが、幻想自体はまだきちん
と保持している年ごろでもある。

セキコは常に怒っている。なぜ周りはこんなろくでもない
人間ばかりなのか。

ちゃんとした大人はいないのか。どこを見回してもまとも
な家がない。

 セキコの怒る姿は私の中学時代と生き写しで、遠ざけた
過去に引きずりこまれる感じがして「あぁ、もう私はそこ
に戻りたくないぞ」と必死で逃げるけれども、記憶に染み
付いた地底をはうような感覚がよみがえる。

 大人にまともであることを望むというよりは、大人がまと
もでないことへの不快感がどうしようもない。

ある意味でそれは、まともさへの過度な意識が根底にあって
「あるべき姿」を自分にも他人にもあてはめてしまう、この
時期特有の一種の潔癖さだったりもする。

 ただセキコはそれが私よりずっと強い。幻想と現実の差異
を誰より緻密にはかっていく。目がいいことは、より気づい
てしまうことである。

働かずゲームばかりの父、父に迎合しているような母。

大人のどうしようもなさが大量に押し寄せてきて圧迫される
セキコは、怒ることで自分を守る。

でも何より彼女を苦しめるのは、自分の不快感を共有できる
相手がいないことだ。

なぜみんな平気なのかという、自分と周囲の落差が切実に
迫る。

 あるべき姿と比べたら現実は奈落のような場所だ。

奈落であることがつらいのではない。

ここが奈落だということを感じているのが、自分ひとりと
いう孤絶感がつらいのだ。

(藤代泉・作家)


以上。


内容が興味深く、取り上げてみた。

 

自分が家庭を持つような年代になって、家というものが
案外いいかげんにつくられていいかげんに営まれている
ものだとわかった。

というのがあるが、同様な感想を持っている。

わたしは、家庭をもつことに、いろいろと躊躇することが
あって、結局、結婚することはなかった。

しかし、歳をとるにつれ、いろいろな家庭を知るにつれ、
けっこういい加減な家庭もあったりして、それで家庭が
成り立っているのかと思うと、自分が結婚を遺棄したことに
戸惑いを感じたりする。

特に、最近は、幼児虐待や保護遺棄などのニュースを知ると
彼氏・彼女ができ、結婚もでき、子どももできたのに、なぜ。

なんて、声が出そうになる。

結婚さへもできなかったわたしとしては。

 

そういうことだから、「モンスターペアンレント」なんて
のが出現しても致し方ないかも知れない。

が、その場に立ち会わないといけない人は、堪らないだろう。

それにしても、これらの家庭も含めて、経世済民に努める
人は面倒をみないといけないし大変なことだ。そして、この
現実の上で、国家が成り立ちうることも、不思議と言えば
不思議なことだ。

さて、

ある意味でそれは、まともさへの過度な意識が根底にあって
「あるべき姿」を自分にも他人にもあてはめてしまう、この
時期特有の一種の潔癖さだったりもする。

大人のどうしようもなさが大量に押し寄せてきて圧迫される
セキコは、怒ることで自分を守る。

等々あるが、

これは、ある意味で、教育の成果である。教育は、後続世代
を育成するための不可欠な機能である。

大人のどうしようもなさが大量に押し寄せてきて圧迫される
セキコは、怒ることで自分を守る。

このような状況も、この機能の成果であり、不条理なことで
もある。

この不条理さを避けては、国家は維持できないのであり、
なんとも複雑な思いが過る。

現実は、ほどよいいい加減さで成り立っているのかも
知れないが、いい加減さの心地よさに淫しては、この
世の中に、生き残れない。そこが、問題なのだが。

 


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