新聞の書評で面白いのがあった。
近頃の若者はなぜダメなのか
原田曜平箸
ケータイで広がる「力」
ケータイでつながる巨大な″村社会〟が出現した。
うわさ話と陰□が横行し、出るくいは打たれる。
他人の顔色をうかがい、空気を読むことが掟とされる。
著者は、首都圏を中心に全国47都道府県で「ケータイを中高生の時から持った若者」延べ千人を7年かけて直接インタビューした結果、驚くべきことが見えてきたという。
片時もケータイを離さず、しょっちゅう友人と連絡を取り合い、ネットワークを広げれば広げるほど、彼らは昔の日本人に似てきたのだ。
数ある若者論の中でも群を抜く面白さ。
昔ながらの足で稼ぐ地道な取材あっての発見だろう。
最近の若者が保守的で金を使わず、行動半径も狭く、昔の友人とつるんで満足している理由も分かってくる。
しかし、この新「村人」は一方で途方もないネットワークを背景に、何百人もの大規模イベントを開催する力も持つ。
その力は「地域」 「学歴」 「経済レベル」 「年代」を超える。
実際、本書には強力なネットワーカーたちが登場する。
一見、普通の地方の女子大生がたちどころに、キャバクラ嬢からダンスや恋愛に夢中な高校生、富裕層の大学生など多彩な子を集めたり、過疎地に住むサラリーマンや中卒フリーターが、ネットワークで稼いだり、外国人とつながり海外に出掛けたりする例もある。
こうした特性を備えた新″村人〟が、日本を変えていく未来も感じさせた。
実は、わたしにも20代前半の娘が2人いるが、本書を読んで、まさにその通りとうなずくことが多かった。
地元の幼なじみから小、中、高校、大学、会社はもちろん、予備校やアルバイトまで友人は広範囲にわたり、長期に、きめ細かく、互いに気遣い、途切れない関係を持っている。
こうして確かに、学歴や収入、職種にかかわらず、友人関係は構築されている。
この力は、著者も言うように、若者に見習うべきことではないか。
心地良く親しい付き合いを大人も求めているはずだ。
若者から学ぶべきことを気付かせてくれる本である。
(杉山由美子・フリーライター)
面白い書評であった。後日、購入してちゃんと読んでみたい。
ただ、わたしには、このスタイルの生き方は無理だろう。
彼らと比べれば、わたしは、かなり自閉的な性格だ。
寂しさは、我慢できるが、煩わしさは、駄目な性格である。
ところで、このような若者の生活が、中年になっても熟年になっても続くのだろうか。
高齢者になったら、どうだろう。
孤独死を目前にしたら、どうなるのだろう?
無縁社会を克服できるのであろうか?
この本で、あげられているようなライフスタイル、長い人生を通して、どういう結末になるか、大変興味深いのだが。
追記
ドラッカーは、こう言っている。
不得手なことの改善にあまり時間を使ってはならない。
自らの強みに集中すべきである。
無能を並みの水準にするには、一流を超一流にするよりも、
はるかに多くのエネルギーと努力を必要とする。
ところで、1万時間の法則というのがある。
1万時間の法則について、大野和基氏は、こう述べている。
答えはノーである。換言すれば「1万時間の法則は半分ウソである」ということになる。
必要条件ではあるが、十分条件ではない。
肝心な「1%の才能」 ということである。
という見解を示した。
つまり、才能のある1%の人にしか、1万時間の法則は該当しない。という見解である。
このことは、意外と抜け落ちている点だろう。
ない才能に執拗に時間をかけ過ぎるのも、機会損失というリスクが待ち受けいる。
しかし、わたしは、その人の良さが、伸びるためには、それ相応の時間をかける必要があると、解釈したい。
やはり、そのためには、1万時間という考え方は、大事かと思っている。
もちろん、ない才能は、1万時間かけないで、気づく必要があるし、
ない才能には、それなりの付き合いをするしかない。
できれば、1万時間かけるに値する才能が、他にないか、検討したほうがよいかも知れない。
ところで、ケータイでつながる巨大な″村社会〟の住民は、いつ、集中的に時間を確保し、自分の才能を伸ばすのだろうか。という疑問がわいてしまった。
近頃の若者はなぜダメなのか
原田曜平箸
ケータイで広がる「力」
ケータイでつながる巨大な″村社会〟が出現した。
うわさ話と陰□が横行し、出るくいは打たれる。
他人の顔色をうかがい、空気を読むことが掟とされる。
著者は、首都圏を中心に全国47都道府県で「ケータイを中高生の時から持った若者」延べ千人を7年かけて直接インタビューした結果、驚くべきことが見えてきたという。
片時もケータイを離さず、しょっちゅう友人と連絡を取り合い、ネットワークを広げれば広げるほど、彼らは昔の日本人に似てきたのだ。
数ある若者論の中でも群を抜く面白さ。
昔ながらの足で稼ぐ地道な取材あっての発見だろう。
最近の若者が保守的で金を使わず、行動半径も狭く、昔の友人とつるんで満足している理由も分かってくる。
しかし、この新「村人」は一方で途方もないネットワークを背景に、何百人もの大規模イベントを開催する力も持つ。
その力は「地域」 「学歴」 「経済レベル」 「年代」を超える。
実際、本書には強力なネットワーカーたちが登場する。
一見、普通の地方の女子大生がたちどころに、キャバクラ嬢からダンスや恋愛に夢中な高校生、富裕層の大学生など多彩な子を集めたり、過疎地に住むサラリーマンや中卒フリーターが、ネットワークで稼いだり、外国人とつながり海外に出掛けたりする例もある。
こうした特性を備えた新″村人〟が、日本を変えていく未来も感じさせた。
実は、わたしにも20代前半の娘が2人いるが、本書を読んで、まさにその通りとうなずくことが多かった。
地元の幼なじみから小、中、高校、大学、会社はもちろん、予備校やアルバイトまで友人は広範囲にわたり、長期に、きめ細かく、互いに気遣い、途切れない関係を持っている。
こうして確かに、学歴や収入、職種にかかわらず、友人関係は構築されている。
この力は、著者も言うように、若者に見習うべきことではないか。
心地良く親しい付き合いを大人も求めているはずだ。
若者から学ぶべきことを気付かせてくれる本である。
(杉山由美子・フリーライター)
面白い書評であった。後日、購入してちゃんと読んでみたい。
ただ、わたしには、このスタイルの生き方は無理だろう。
彼らと比べれば、わたしは、かなり自閉的な性格だ。
寂しさは、我慢できるが、煩わしさは、駄目な性格である。
ところで、このような若者の生活が、中年になっても熟年になっても続くのだろうか。
高齢者になったら、どうだろう。
孤独死を目前にしたら、どうなるのだろう?
無縁社会を克服できるのであろうか?
この本で、あげられているようなライフスタイル、長い人生を通して、どういう結末になるか、大変興味深いのだが。
追記
ドラッカーは、こう言っている。
不得手なことの改善にあまり時間を使ってはならない。
自らの強みに集中すべきである。
無能を並みの水準にするには、一流を超一流にするよりも、
はるかに多くのエネルギーと努力を必要とする。
ところで、1万時間の法則というのがある。
1万時間の法則について、大野和基氏は、こう述べている。
答えはノーである。換言すれば「1万時間の法則は半分ウソである」ということになる。
必要条件ではあるが、十分条件ではない。
肝心な「1%の才能」 ということである。
という見解を示した。
つまり、才能のある1%の人にしか、1万時間の法則は該当しない。という見解である。
このことは、意外と抜け落ちている点だろう。
ない才能に執拗に時間をかけ過ぎるのも、機会損失というリスクが待ち受けいる。
しかし、わたしは、その人の良さが、伸びるためには、それ相応の時間をかける必要があると、解釈したい。
やはり、そのためには、1万時間という考え方は、大事かと思っている。
もちろん、ない才能は、1万時間かけないで、気づく必要があるし、
ない才能には、それなりの付き合いをするしかない。
できれば、1万時間かけるに値する才能が、他にないか、検討したほうがよいかも知れない。
ところで、ケータイでつながる巨大な″村社会〟の住民は、いつ、集中的に時間を確保し、自分の才能を伸ばすのだろうか。という疑問がわいてしまった。