2019年12月31日:午前5時 道の駅「くどやま」はまだ真っ暗で天候がどうなのか分からないが
これから高野山目指して世界遺産の高野山町石道を歩きます・・・20キロくらい8時間かな
「高野山」といえば真言密教の聖山、研鑽修行の聖域と言うことだが、それにはあまり関心がなく
標高900メートルもの山上に、とんでもなく広い平坦地があることを見たい野次馬的興味のみ。
なぜあんな地形が出来たのか、高野山のどこが「世界遺産」たる根拠なのか・・・
本気で知りたい方はこちらに和歌山県教育委員会の資料があるのでクリック。
周囲が1000メートル級の山に囲まれた中に忽然と広がる平坦地「高野山」
山とは思えない山だから行ってみたくなるのは野次馬そのもの
山登りの最初に覚えさせられる等高線図"山地図"をみるとホント不思議な場所です。
前日泊まった九度山「慈尊院」の百八十町石から、「高野山町石道」を歩き高野山入り口「大門」を目指します。
大門到着時の気温は2.4℃ 所々日陰に雪が残ってはいるがほぼゼロでした。
大門横のトイレ脇に六町石があり、ここから10分くらい歩いた壇上伽藍 根本大塔下に一町石があった。
大門から壇上伽藍の金剛峯寺まで歩きながら思った「ここってホントに山の上なの 」ってくらい平です。
山の上とは思えない広い町中と道路が奥の院まで延々続いている。
案内マップを見ながら奥の院まで行くが、お墓には全く興味がないのでへそ曲がり的、野次馬的興味で
「あの建物どうやって造ったンかなぁ」「これはナント読むンだッ」とか・・・難解難読の連続
ダジャレですがここに通じる路線も「南海鉄道」「南海バス」。ナンカイずくしです。
・壇上伽藍の「壇上」ってなに:
道路より一段高い地形を「壇」に見立てた文字通り壇の上に建てた伽藍。
本来は高野山全体を「道場」という意味合いで「壇場」と書いたそうな。
・「三鈷の松」ってなに:
そもそも"三鈷(さんこ)"とは、飛行三鈷杵(ひぎょうのさんこしょ)」と呼ばれる密教法具の「三鈷」のことで
空海が所持していた仏具のことだとか。 伽藍を高野山に造るにあたり仏の意思を確認するために
法具・三鈷杵を空へ向かって投げたその後、伽藍を造る場所に行ったらこの「三鈷」が松の木に引っ掛かって
いたというその松が「三鈷の松」だって ますますウソ臭い訳の分からない話でした。
空海のフィギュアが握っているフォークの様なのが三鈷杵と云う仏具
クリックすると拡大します。
・読めない:
金剛峯寺(こんごうぶじ)、根本大塔(こんぽんたいとう)、中門(ちゅうもん)、西塔(せいとう)
東塔(とうとう)、御影堂(みえどう)、御社(みやしろ)、持明院(じめいいん)、町石道(ちようせきみち)
御廟橋(ごびょうばし)、御供所(ごくしょ)、嘗試地蔵(あみじぞう)、蟠龍庭(ばんりゅうてい)
金剛三昧院(こんごうさんまいいん)、三鈷の松(さんこのまつ)、西南院(さいなんいん)
大玄関と小玄関(おおげんかんとこげんかん)、准胝堂(じゅんていどう)
・意味不明の「高野四郎」:
説明では「全国の寺院中4つ目に大きい鐘であることに由来して"高野四郎"と呼ぶ」とあるが
ナンデ“四郎”なのか洒落にもなってない。
何処に行ってもさしたる感慨もなく取り敢えず写真だけ撮って来た。
記憶に残ったものでは「高野四郎」鐘撞と「一町石」に出会えたこと。
商売上手な持明院:四国八十八ケ所の霊場巡りが5分で出来ちゃう庭がありました。
「八十八ケ所の御砂踏み場」と書いてあった
奥の院の入口「一の橋」
ここから先は戦国武将の廟や墓が並ぶメインストリート。 織田信長、豊臣秀吉、武田信玄、上杉謙信、伊達政宗
石田三成、徳川家康、薩摩島津家、明智光秀・・・その中に紛れ込んだかのように鶴田浩二や市川団十郎も。
一歩横にそれるとガラリ雰囲気の異なる企業墓地があり、商魂丸出しの高野山があった。
更に何でもありの筆頭は、柳家金五郎が建て、賛同した花菱アチャコの句碑のある「楽書塚」
どうぞ何でも落書きして下さいだって・・・違和感の極み。
ようやく奥の院に到着したが これより先は撮影禁止で「御廟ノ橋」からの一枚
これから真田幸村ゆかりの蓮華定院に寄って九度山まで戻ります・・・夜間歩行です。
蓮華定院と梵字の書かれた庭
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