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森林ジャーナリストの裏ブログ

表ブログに書けない、書く必要もないドーデモ話をつらつらと。

田舎の医療

2006-12-23 18:02:26 | 田舎・田舎暮らし

おそらく全国的に報道されていないだろうから、ここで紹介しておく。

10月ごろに話題になった、奈良県吉野郡の大淀病院である。8月に妊婦が意識不明に陥り、高度医療の病院に搬送しようとしたものの19の病院に断られ、とうとう亡くなった事件を起こした。病院は叩かれ、遺族は訴訟を準備しているようだ。
ここは、奈良南部唯一の産科だったが、その唯一の常勤産科医が退職を表明、産科は来年3月に閉鎖することになった。

予想していたとおりの展開だ。

この病院が誤診していないとは言わない。また遺族への対応が十分だったかどうかもわからない。が、この事件の本質は、そういうことではなくて、高度医療の受け入れ先がなかったことだと思う。誤診そのものは、大なり小なりどこの病院にもあるが、それをフォローする体制があれば大事に至らず、次の糧となる。

しかし、フォローがない中でギリギリの医療を行っていれば、結果的に大事となる。そして病院は責められ、医者も辞め、医療は先細るのではないか。

テレビドラマの「Dc.コトー2006」は終わったが、このドラマの危険な点を一つ。僻地医療が医者個人の力に頼っていることを美しいように描いていることだ。ドラマはドラマだが、バックアップ体制のない医療は恐ろしい。


このままでは、田舎の医療は消滅するだろう。学校と病院の消滅は、田舎の消滅に直結する。


田舎の友人関係

2006-12-08 00:49:32 | 田舎・田舎暮らし
某・人口50人を切る極田舎の友人に電話をした。久しぶりながら、ちょっとしたお願いがあったからだ。

用件は、わりと簡単にOKをもらった。あるモノの写真が欲しかったのだ。幸い友人はデジカメを持っているという。これなら話は早い……。

が、そうはいかない。彼はパソコンは操るが、ネット接続していないからだ。もともとプロードバンドとはほど遠い僻地だけに、インターネットはやりにくい。
そこで、以前行った時に知り合った、当地に移り住んだ人のことを思い出した。彼はネット接続していたはずだ。彼に頼んで、デジカメ写真のデータを送ってもらえないだろうか。

ところが、口を濁す。どうやら、彼とは疎遠になっているらしい。かつては二人で釣りに行ったりゴルフに遠出したりと仲よかったのに。

田舎は密な人間関係があるというが、実はケンカも多い。そして、一度こじれると、なかなか元にもどらないケースがある。あまりに小さな社会ゆえ、逃げ場がないのだろうか。いやはや、困った。

結局、写真はプリントして、郵送してくれることになった。それはいいのだが、狭い世界の仲違い、よい解決方法はないだろうか。

著者はどこに住む

2006-12-04 23:50:54 | 田舎・田舎暮らし

某ラジオ局から、出演依頼が来た。テーマは田舎暮らしだ。プロデューサーが拙著『田舎で暮らす!』や『田舎で起業!』を読んでいただいたらしい。

それはいいのだが、依頼メールで気になったのは、あまりに簡単に出演日時を記してあること。そこで「私の住んでいるのは、奈良県ということを知った上での依頼か」と尋ねた。


案の定というか、「気がつかなかった」という返事。著者(マスコミ関係者)は、みんな首都圏に住んでいると思い込んでいるらしい。いや、首都圏以外の世界は目に入っていないのかもしれない。

拙著を読めば、奈良在住であることは記してある。何より田舎暮らしに関した著述なのに、大都会に住んでいると一方的に思うとは、どんな読み方しているのか。とりあえずどこに住んでいるのか尋ねる姿勢くらいはないか。

どうも田舎とは、異世界(笑)。自分たちの生きている空間だと思っていないのだろう。「言葉の通じる北朝鮮」とのたまう人までいるが。

まあ、奈良県というだけで、田舎! と決め込まれるケースもかなり多い。奈良県でマスコミの仕事ができるの? という質問もよく出る。
残念ながら、私は東京暮らしライターではないが、田舎暮らしライターでもない。

実は、今回だけではない。近頃はメールで原稿や講演依頼も増えてきたが、当たり前のように東京にいると思い込んでいることがある。この発想こそ、中央と地方のどうしようもない乖離ではないか。

 

で、オチとしては、「何か別件で東京に来たときに…」。別件で東京に行くときは、その別件で忙しいの。別件の合間にラジオを収録するのかね。講演するのかね。

奈良-東京間の交通費は約3万円だ。宿泊しても4万円。本当は、移動にかかる時間も勘案してほしいが、そこまでの要求はしない。この程度の経費を惜しまれると、その仕事のクオリティも信用できなくなる。


イルミネーション

2006-12-03 23:42:23 | 田舎・田舎暮らし

吉野チェンソーアートスクールが開校! そのため朝7時半より山中で過ごした。このスクールの模様は、出来杉計画にお任せして(だって、私は講義中ドラム缶で焚き火していただけだから…)、終了後は津風呂温泉につかり、まったりした。

そして帰り道。吉野から桜井へ抜ける山の中の道をとったのだが、暗闇を走っていると、ところどころ巨大なイルミネーションがある。巨大な光の塔とか、樹木、あるいは垣根いっぱいに輝く光の帯。一瞬、ここに何かいかがわしい店があるのかとか、公園をライトアップしているのかとか考えるが、いや、個人の家のよう。何事か?

ようやく、これはX’masイルミネーションなのだと気づいた。

それにしても凄い。山の中の、数軒しかない集落の、家々が光り輝いているのだ。ときには、周りに何もない樹木とか、家の外壁一面とか、派手派手。

最近、この手のイルミネーションが流行っているが、まさか山村まで広がっているとは思わなかった。だいたい見る人がほとんど通らない(笑)。繁華街や新興住宅地だけでないブームであるようだ。タヌキかキツネに化かされているのでないよな。

しかし、なぜか感動した。街灯さえほとんどない道を走っていて、それらの光の造形が目に飛び込んでくると、うれしくなる。都会のイルミネーションより驚きが強い分だけ、感動も大きいのだ。飾りつけした住民の心意気?を感じる。
なんでも、不況になるとイルミネーションが始まるというジンクスがあるそうだが、苦しい山間集落の状況を示している? そんな裏読みは止めておこう。

これって、意外感があるだけにきれいに感じるし、田舎を文字通り明るくしているよ。穴場のスポットではないか。


地域づくりは必要か

2006-11-28 18:11:11 | 田舎・田舎暮らし

村おこし、街づくり、そして地域づくりが叫ばれる。とくに田舎にとっては至上課題だ。なにしろ、過疎、高齢化、経済不振が3点セットのようにのしかかり、このままでは、地域自体が消えてしまいかねないからだ。

そして限界集落、限界自治体という言葉も生まれたように、すでに地域づくり自体が不可能になって、消滅を待つ地域も少なくない。(限界集落は2000を越えている。)

 

しかし、本当に村おこしに成功しているところがあるか? 地域づくりが成功した地域はあるのか? 実は、私自身が各地の成功例などを紹介しているのだが、その欺瞞性?を、最近感じだした。

なぜなら、一見観光客で賑わっているようでも、公共投資抜きでは維持できないところがほとんどだ。地域づくりに成功したように見えて、実は人口減が止まらないとか、結局赤字だとか。村民は元気になった、と言われても、平均年齢が60越えているのでは将来はない。部分的な成功例はあっても、全体から俯瞰すると、どこも身動きが取れないようになっている。

どうあがいても、田舎は中央に隷属する構造は変わらないのではないか。
そう感じてしまう。そして、地域づくりに走り回って、疲れ果てた人々の顔が浮かぶ。

 

いっそ、開き直って、地域づくりなんかせずに、今ある状況を楽しんで消えていくのを待つのという選択肢も出てきそうだ。Iターンなんか受け入れない、公共事業も行わない。たとえば「スローコミュニティ」とか名付けて、限界集落を楽しむ。

でもね、田舎が本当に消えて困るのは、都会人なんだけどね。

(今回は、ちょっとシニカルに思索してみました


情報を取捨選択できる魅力

2006-11-21 12:50:30 | 田舎・田舎暮らし

田舎の魅力シリーズ。

田舎は、情報が少ないと言われるが、私はそれによく反論している。そもそも大半の人が得ている情報なんて、テレビに新聞、雑誌だろう。田舎で雑誌を買うには多少面倒だが、そんなに負担ではない。図書館が立派な田舎も増えてきた。それにインターネットも普及してくると、ほとんど情報格差はなくなったと思う。(通信速度の問題はあるが。)
むしろ地元の役場や公的施設などの垣根が低くて、通って情報を要求しやすいところもある。都会では、閲覧申し込みも緊張するが、田舎では平気で村長にも声をかけられる(^o^)?

困りやすいのは、私のような職業で、専門図書館や専門書をあさらないといけない特殊な情報を必要とする場合くらいである。

 

むしろ田舎では、情報が遮断できる魅力を感じる。上記の情報は、テレビ・新聞を除くと、積極的に取りにいかねばならない。動かないと取れないというのは、黙っていても情報が流れ込んでくることが少ないともいえ、これは結構魅力。
街を歩いても雑音的なBGMや放送の声に悩まされない。刺激が多すぎる都会は、思考能力をマヒさせてしまう。

思索するには、情報が多すぎては困るのである。必要だと思う情報を選んで自ら取りにいくくらいが、丁度よい。他人の意見に流されずに、考えられる。

 


「緑」のダム

2006-11-17 12:26:50 | 田舎・田舎暮らし

今、「緑のダム」(蔵治光一郎+保屋野初子編)築地書館を読んでいる。でも、まだ読み終わっていないから、この本の感想は、また改めて。

 

で、今回思いついたのは、「なぜ、緑のダムはないのか」ということである。緑のダムというのは、森林のことではないよ。文字通り、緑色のダムのこと

極めてアホウなことを思いついたのだが、ダムサイトは、ほとんどがコンクリートむき出しだ。これがみっともなく、景観を破壊している。たまにロックフィル式?で石を積んだダムなどを見ると、景観的にも美しい。また砂防ダムだが、最近の木製とか、明治時代に作られたデ・レーケの石積みダムなどを見ると、むしろ周囲の景色に溶け込んでいる。しかしコンクリートはいただけません。

 

せめて、ダムサイトを緑のペンキを塗れ! さらに森の絵を描け。表面に擬岩を張り付けて、自然の岩場のように見せろ。これだけでダム批判は随分減るぞ(笑)。

実際に、表面を凸凹にすれば、植物も生えるし、クマタカが営巣するかもしれない。自然を守るダムをアピールできるかも。

 

こんなことを思いついたのは、「刺激としての風景」に紹介した田舎の風景写真の場所だ。低い稜線に挟まれた谷なのだが、実は奥にダムがある(写真)。そのサイトが風景に馴染んでいなかったからだ。せっかくのたおやかな景色に傷をつけている。

コンクリートダムを緑色のダムにする運動を起こせないかね?

 


人づきあいは安全保障

2006-11-16 23:34:15 | 田舎・田舎暮らし

田舎は素晴らしいシリーズ第2弾は、人づきあい。

 

田舎暮らし希望者にとって、最大の難関が人づきあいであることは、よく言われる。そして人間関係で悩んで苦しんで、せっかく移住した村を出る話もよく聞く。たしかに、うんざりしたつきあい方もあるだろう。深刻なトラブルも起こっている。

なぜ、そんなに面倒な人間関係が田舎には築かれたのか。
思うに、安全保障ではないか。災害に出くわした時だ。地震・台風・山崩れ・火事…まさかの場合に助けてくれるのはご近所さんである。行政は当てにならない。いや、当てにするだけの質量ともにない。救急車が来るのに1時間かかったりする。それを補うのが、相互扶助の精神だ。

逆に言えば、まさかのときの備えに、どんなに虫の好かない相手とでも仲良くしておくのが安全保障。都会人だって、保険に入ったり、警備に金をかけたり、何かと必要な部分を近所づきあいという安上がりのシステムを持っているのである。
土壇場で助けてくれるのは、近くの人しかいないのだから。面倒なつきあいも、保険金を払っているようなものである。

……そう思えば、人づきあいも耐えられる、かも?

 

阪神大震災でも、死者が少なかったのは、地域の共同体が生きていた地区であることがよく紹介されていた。だから直後は、自治組織の見直しも言われたのだが、いつのまにやら消えてしまい、とくに都会では個人情報保護などを盾に、以前より増して個人主義が横行している。

また田舎のトラブルの内容を聞くと、「それって、都会でもあるんじゃないの?」と思ってしまうものも多い。とくに最近は、騒音やらゴミやら異常性格者やらの隣人トラブルは少なくない。実は私の町内でも起きた。田舎だから起きる問題ではないのだ。


刺激としての風景

2006-11-15 23:05:01 | 田舎・田舎暮らし

吉野へ行く途中に、幹線道路から逸れて、谷間に入った。そこには、まさに「田舎の秋の風景」が広がっていた。
黄色のイチョウ。刈り取りの終わった田んぼ。豪壮な農家屋敷。同じ風景を眺めていると、日差しによって、一瞬に空が白い薄曇りから青空に変わった。ああ、田舎っていいな、と瞬間的に思った。


これまで田舎をけなしてきたから、今度は「田舎の素晴らしさ」シリーズを始めよう

 

まずは、やはり風景だ。ここに、田舎を求める原点があるように思える。

それにしても、なぜ田舎の風景に接すると、心が落ち着くのか。よく日本の田園風景を「日本の原風景」と表現することがあるが、実は外国人が見ても落ち着くのだそうだ。人類共通の落ち着く景色かもしれない。
風景は、視覚であり、刺激である。その刺激に対して、人の精神や肉体はどのような影響を受けるか。そのように考えた場合、田舎の風景は、あきらかにプラスに作用しているようだ。

これは精神的なものだけではなく、生理的なものだ。比較心理学の実験でも、チンパンジーやサル、イヌを始めとする多くの動物が、人工的環境ではストレスをため、自然環境で安心する傾向のあることが確かめられている。


いくら心地よい刺激のように感じても、人工的な光や音、触感はストレスが強くなる。逆に、木材のような自然素材は、たとえそれが冷たく不快であっても、触ると脳波はリラックスするという。


人間の生理(脳波、血流から発汗、視覚・嗅覚・聴覚・味覚・触覚……まで)は、約500万年と言われる進化の歴史を自然とともに発達したが、そこに自然界のリズムが刻まれている。そのため外界の刺激も、自然界のリズムにそうものは抵抗が少ないが、そうでないものにはストレスを感じる……という仮説が成り立つのではないか。

これまで風景は美学的観点から論じられたことはあっても、脳の生理や官能から研究された例を私は知らない。この点をしっかり詰めて行けば、なぜ田舎の風景に人は癒されるのか証明できるかもしれない。


 


北朝鮮が核開発した気持ち

2006-11-10 16:25:54 | 田舎・田舎暮らし

北朝鮮が、国際的な約束を踏みにじり、核開発を行った。なぜ、彼らは核開発に固執したのだろうか。世界中からの非難をものともせずミサイル発射に続いて核実験まで強行し、絶望的なチキンレースを展開している。

 

 

とまあ、あまりに通常とは違った出だしに別のプログに迷い込んだのではないかと焦った皆さん、間違いないです、ここは「だれが日本の「森」を殺すのか&田舎で暮らす!」ブログです(笑)。

私は国際情勢にも関心があるのだよ、と見せておこうかと思ったのでした。それと、田舎の持つ感情に妙な共通点を感じたからでもある。

はっきり言って、北朝鮮は完全な負け組国家だ。どうあがいても、これから経済大国になることは無理だし、政治的に世界の列強に伍することも不可能である。しかし、一筋の可能性を見つけるとしたら、それが核なのかもしれない。これさえ持てば、負けが込んだ現況を引っくり返せるかもしれない。経済的にも外交的にも追い詰められた金正日は、一発逆転の夢を見ている……。これが私の読みである。

 

で、ここからが本題なのだが、日本の林業も負け犬根性が染み込んだ世界である。山村の住民で、今再び山村が好景気に包まれ日本の文化発信地になる、林業が日本の主産業になると信じている人はいないだろう。コツコツ都会に負けない便利さとか暮らしよさを作れるとも思っていない。若い世代だけでなく、かなりの高齢者までが、山村の生活に限界を感じて、脱出しかけている

今山村に住んでいるのも、長男だから、ほかに継ぐものがいなかったから、とかなり後ろ向きな人が多いのだ。自分はもう町に出るのは無理だから、子供や孫に託している。娘は地元の人とは結婚させないし、息子も出て行くのを止めない。
開き直って「山村の生活は素晴らしい」と田舎暮らしを夢見ている都会人をだまくらかして誘い込もうとするが、実は儲かったら自分は都会に出られるかもしれない、と密やかな期待がある。
「ダムを誘致して保証金が出たらさっさと故郷を捨てるぞ!」なんて。

 

ちょっと言い過ぎ?書きすぎたか? しかし、全員とは言わないが、大本の感情という点では、いい線いっていると思うな。

で、北朝鮮の核に相当するものはないだろうか。それが、ダムとか高速道路とかの巨大開発だろう。それを作ったらどんなに危険か、ということよりも、目先の状況を変える特効薬だ。一発逆転、保証金で都会人よりいい生活を送れるかもしれない。

もう少し真面目に考えると、スギの木材から抽出された成分から癌の特効薬ができる、というくらいの大発明を期待するものよいかもしれない。
たとえば舩岡正光・三重大学教授らのグループは、木材から抽出したリグノフェノールに、高いアレルゲン不活性化機能を発見したそうだ。これで花粉症治療薬を発明できたら、マッチポンプでいいな。

以上、田舎の真実シリーズでした。オイオイ


脳科学と田舎暮らし

2006-11-07 12:22:25 | 田舎・田舎暮らし

非常に遅ればせながら「バカの壁」(養老孟司)を読んでいる。

実は発刊時から興味を持っていたのだが、その後のベストセラー化で気分がそがれて(笑)、買わなかった。で、たまたま古本屋で安く見かけたので購入。

 

読み出すと、この本は評判や書評にある「理解しようとしない意識」などといったテーマだけの本ではないことに気がついた。『「個性を伸ばせ」という欺瞞』『万物流転、情報不変』なんて章は、思索における刺激的なテーマを与えてくれる。人為的な脳の巨大化がマウスで成功したというのも、思考実験のよい材料だ。

が、ここで取り上げたいのは、田舎暮らしである。
養老先生によると、都市は脳化社会であり、無意識を排した意識だけの世界だという。意識する(思考)というのは、脳内だけで入力と出力を繰り返している状態だそうだ。それに対して田舎は、無意識が残された、身体と脳のやりとりのある社会ということになる。

これを田舎暮らしに引っかけると、脳内の思考だけの世界「都市」から、身体を残した共同体の世界「田舎」への移動と言えるかもしれない。
見た目の田舎の不便さは、意識としては不快だが、無意識に身体へ影響を与えて快感になるのか……?  共同体を嫌って、田舎暮らしができるのか?

田舎暮らしブームを、脳科学の面から分析して、田舎暮らしに向いた人、向かない人を見分けられるようにしたら面白いかも(^o^)。これも思考実験のネタになるなあ。

もともと「聞き取り本」だから、脱線も多いし、深く突っ込んでいない。だからこそ、突っ込みどころがあるし、自らの思考実験も行えるのかもしれない。

 


夢の吊り橋

2006-10-31 15:16:07 | 田舎・田舎暮らし

大分県九重町に、「九重夢大吊り橋」が完成したニュースをやっていた。

全長390m、高さ173mの日本一の歩道吊り橋だそうだ。それまで日本一だった栃木県那須もみじ谷大吊り橋の全長320mを抜いたとか。

でも、どちらも渡った先に何もない、渡ることに意義のある観光吊り橋である。ようは展望台だ。

最後の村おこしネタは風景か、と思った。最後の箱モノかもしれない。まあ、妙な展示館やらお城やら公園などの村おこしに比べたら随分マシかもしれない。ハードではあるが、土地の破壊は最小限だし、維持管理にさほど金もいらないだろう。風景見せて喜ばせるのなら、手間暇も少ない。
かつて宮崎県綾町の照葉大吊り橋(全長250m)は、観光客が殺到して、何十億円と稼ぎだし十分元を取ったはずである。私が行った時は、閑散としていたけど。

吊り橋に夢を見ているのは、実は観光客ではなく、地元民である。

 

しかし、本来の吊り橋といえば、奈良県十津川村の谷瀬の吊り橋だろう。全長297m、高さ52m。かつては日本一だったというよりも、ここは生活道路であることが重要だ。今でこそ観光化しているが、空いている時は、地元の人がバイクで走っている。もちろん渡った向こうに集落がある。何より、あくまで道だから無料だ。観光橋のように金を取ったりしない。歴史とか生活の臭いがする。

吊り橋は集客装置にはなるが、風景だけから地域全体へと魅力を広げないと観光は長続きしない。九重町にはそんな工夫はされているかな。

 

ちなみに地元・生駒山系にも、大吊り橋がある。大阪府立公園内の星田園地だが、「星のブランコ」(写真)と名付けられた全長280m、高さ50mある堂々としたものだ。観光橋ではあるが、無料だし、遊歩道の一部である。
意外と知られていない穴場。


田舎の足りない土産物

2006-10-27 21:33:37 | 田舎・田舎暮らし

なぜか「吉野川」の項のコメントが続くので、こちらに改めて。

 

田舎の問題点は、経済面が大きいのだが、そこで目指すのは観光立地。名所づくりに温泉施設、展示施設、遊興施設づくり、あの手この手を考える。

が、もっとも客が金を落とすのは、物販である。名所を見せても金はほとんど落ちない。せいぜい名所近くの自動販売機のジュース類くらいではないか。入場料や体験lイベント収入は意外と少ないというか、コストがかかるので純益は上がりにくい。

それらは集客装置にすぎなくて、本当は来た人に何か物を売ることが、もっとも経済効果を上げる。あるいは宿泊させ、食べさせ飲ませるという物販が大切である。そんな金を落とさせる仕掛けがほしい。

 

ところが、田舎には、ろくに買うものがない。いや、買うものを売っているところがない。何もドコデモ煎餅とかミンナオナジ饅頭、あるいは中国製グッズや山菜を仕入れて販売しろというわけではないが、何か販売してほしい。
せっかく来た客は、潜在的にそこの思い出に結びつくものを欲しがっている。山村なら端材の木工品、農村なら規格外農作物でいい。記念になるなら石ころでも工夫次第で土産になる。

そして、確実に買える店をどこかわかりやすく用意してほしい。何か土産物を買おうと思って、販売所が見つからないことは少なくない。

道の駅は、地域づくりの拠点に育った成功例が多いが、物販と食事で金を落としやすいからだと言えよう。


田舎は嫌いだ!……

2006-10-26 23:49:45 | 田舎・田舎暮らし

また「Dr.コトー診療所2006」に触れるが、第3話で、田舎嫌いの田舎暮らし人が登場していた。自分で望んで田舎に移り住んだのに、実は田舎が嫌いな人。

そこで、衝撃の田舎暮らしの真実シリーズ。(また、シリーズ化する……)

田舎は嫌いだ!……というIターン者は確実にいる。

 

今や田舎に憧れている人は増えたが、どうしても田舎社会に馴染めない人が少なからずいる。不便さとか、人間関係が嫌というより、田舎の文化が嫌いな人
もちろん、田舎は嫌いだから田舎には住まないというのなら何の問題もない。人間性に問題ありとは思うけど、他人の思想信条に文句を付けるわけにはいかない。

しかし、田舎に憧れて、田舎移住をしながら、実は田舎が嫌いだという人は案外少なくないように思う。いわばイメージとしての田舎は好きなのだけど、実際の田舎に接触してカルチャーショックを受け、拒絶反応を示したような感じか。

早く気づいて、さっさと都会に帰ればいいのだけど、そのまま住み続けると、悲劇だ。田舎を憎み続けつつ、田舎社会で生きなければならないのだから。そして、何か不都合がある度に、「だから田舎はダメなんだ」とのたまう。

でも、そんな人は、実は都会でもちゃんと暮らせないんだよ。本人は、気がついていないけどね。


田舎暮らしは、危険だ!

2006-10-18 18:42:50 | 田舎・田舎暮らし

田舎暮らしは金だ、と断言したことで吹っ切ったのだけど、調子に乗って…

田舎暮らしは危険がいっぱいだ、と主張したい。

なんか、のどかな風景に忘れている人が多いのだけど、田舎って危険がいっぱい。は整備されていないし、毒蛇やら毒虫やらも多いし、雨が降れば川が氾濫山崩れ農林作業中の事故に、交通事故とたくさんある。酔っぱらい運転も、かなり多いし、悪路ゆえの事故も少なくない。 昨日はニュースにもなったけど、クマが町中まで出てきましたねえ。野生動物は、はっきり言って怖い。

 

ここで 私が取り上げたいのは、遭難だ。昨日-今日と神奈川県の大山で家族四人が遭難した事件があった。うち一人は86歳だが、実は山の大ベテラン。家族とともにハイキングコースみたいな山なのに行方不明になったのだ。

田舎でも、意外と地元の人が遭難しているんだよなあ。奥が深い山だけに、道に迷うと、マジ遭難する。 山菜取りとかキノコ狩りとか? いや地元の人でも、ハイキングで迷ったりする。

 

ところで私は山に入ると、道のないところを進みたがるという悪い癖がある。低山だと、見通しが効かないから、方向感覚が狂いがちである。
それでも生駒山なら、地図が頭の中に入っているので、どこをどう進もうがだいたいどこに出るか見当がついている。這ってでも山を降りる自信がある。携帯電話も、まあ通じる。と、こうした過信が怖いのだよ